+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第15金曜日です。
救い主・イエス・キリストと天主の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<人の子は安息日の主なのである。>
そのころ、12・1ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。8人の子は安息日の主なのである。」(マタイ12・1-8)
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チョ・ミョンヨン神父の『今日の黙想』です。
ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に関与した理由で1945年4月9日に死刑を宣告されました。死刑執行のために看守が「囚人ボンヘッファー、準備して出発しましょう!」と言ったとき、ボンヘッファーは牢屋に残っている友人たちにこう言ったそうです。
「これが最後ですが、私にとっては人生の始まりです。」
新しい人生の始まりなので、怖がりもせず、失望もしないということです。彼はこの始まりを喜んで迎えることができました。なぜなら彼には世の基準よりも主に基準を置いていたからです。また、短い満足を求めるのではなく、永遠の満足を求めたからです。
世の生活を名残惜しく思い、苦しむ理由は何でしょうか。それはまさに神と共にする永遠の世界への不安感があり、信仰が足りないからです。それで世の基準だけが最高であるかのように錯覚するからです。
今日の福音で弟子たちは空腹で麦の穂を摘んで食べます。その時この姿を見たファリサイ派の人々が大騒ぎしました。
「ご覧なさい、先生の弟子たちが安息日にしてはならないことをしています。」
安息日は、創造主である神が仕事の後に休まれたので、私たちも休むべきである事を思い起こさせるために設けられました。しかしイエス様はこの休むということを「何もしない」と考えなかったため、安息の律法を守らなければならないという理由で、苦しむ病人を見て無視できなかったのです。この姿は当時の人々にはまるで安息日を廃止しに来た人のように映りました。
しかし福音にもあるように、イエス様は安息日の律法を廃止しようとしたのではなく、むしろ安息日を完成されます。それでも人々に批判される理由は何でしょうか。イエス様は安息日にただ単に休むことではなく、休ませようとする「神の愛を現す」ことを最優先の原則とされたからです。
安息日は誰のために神が制定されたものですか。まさに人を愛するために制定されたもので、だからこそ人が常に一位優先であるべきです。しかし人々は安息日法をただ何もしない日としてしか考えず、この基準に合わないと断罪しようとすることに集中しています。最も重要な原則が無視され、代わりに重要でない原則だけが最高であるかのように主張されています。それは世の基準だけを前面に出しているからです。
重要なのは人であり、人を愛することを絶対に忘れてはならないのです。
これが主の原則であり、これを通して神と共にする永遠の命を追求し、本当に幸せな人になれるでしょう。
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主日を正しく過ごす教えをいただき、主を愛するため、隣人を愛するため、愛を実践する日となりますように!聖霊、きてください。