+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第19金曜日です。
救い主・イエス・キリストと被昇天の聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。>
そのとき、19・3ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。4イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」5そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。6だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」7すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」8イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。9言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」10弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。11イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。12結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19・3-12)
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チョ・ミョンヨン神父様の「今日の黙想」です。
衣の裾が触れるだけでも縁があると言います。そうだとしたら、人生の中でどれほど多くの人と縁を結んでいるでしょうか。しかし、その中でも最も大きく重要な縁は夫婦だと思います。どれほど大きく重要な縁であるからこそ、衣の裾が触れるのを越えて、肌を寄せ合って共に生きるのでしょう。しかし、こうした大きな縁の中にいながら、その重要性に気づいていないとたびたび思います。時には「私たちは縁がないのかもしれない」と言って別れる場合もあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。
私はこれまで結婚したことはありませんが、司式を多く務めました。カトリックには婚姻の秘跡があるからです。そのため、結婚式場で見る新郎新婦の姿が最も美しく感じられるのです。化粧や照明の力とも言いますが、それよりもお互いに愛し合っているからでしょう。愛すると美しくなるという言葉のように、結婚式で非常に緊張し疲れていても、それでも愛し合っているからこそ、美しく素敵な姿を保つことができるのです。
こうして素敵で美しい新郎新婦が時が経つにつれて、愛していないと言います。時には激しい喧嘩によって別れを選択することもあります。よいと思って愛している、絶対に別れられないと言って結婚したのに、いつの間にか一緒にいられないと言って別れるのでしょうか。それは自分の立場から愛を考え判断するからです。
実際、結婚前はどうでしょうか。自分の立場よりも相手の立場を見ます。だから、相手が何をしても全て美しく見えるのです。しかし、結婚後は自分の立場だけを見るので、相手の姿が全てひどく(悪く)見えるのです。
自分の姿を鏡に映すと正反対に映ることがわかります。鏡に映されている自分が反対の姿になるのに、ましてや育った環境も違えば個性も違い、味も違うパートナーが自分とどうして同じでいられるでしょうか。当然に違うという事実を受け入れたとき、真の愛を持つことができるのです。
だからこそ、イエス様も結婚についてこうした御言葉を伝えてくださいました。
「(男と女)二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
一つの体である夫婦。特に神が結び合わせてくださったのであれば、決して別れてはなりません。これを守るために忘れてはならないのは、自分の立場から見る愛ではなく、相手の立場から見る愛を持ち続けることです。
ふと思い出したのは、ある神父様が婚姻ミサのお説教で仰ったこの言葉です。
「愛するから結婚するのではなく、愛するために結婚しなさい。」
真の愛の中で全ての夫婦が幸せでありますように。
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世の基本は家族から始まります。主の愛を実践する聖家族が作られますように!聖霊、きてください。