+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第22木曜日です。
慈しみ深い主・イエス・キリストと被昇天の聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<すべてを捨ててイエスに従った。>
そのとき、5・1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5・1-11)
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イ・ジョンジン神父様の黙想文「人を取る漁師の網」です。
ふと心に浮かぶ人々がいます。多くの場合、それは私が「逃した」人たちです。それぞれの不徳によって疎遠になってしまった関係が再び回復することを望みつつも、一方で、もしかすると私は過度に人々に縛られているのではないかという反省も沸き起こります。信仰者として本当に気にかけるべきことは、「私が」人々と結ぶ関係よりも、その人々が「神に」属しているかということだと思います。
それならば、人間を取るように召された私たちの立場は、「網」に例えることができるでしょう。「人を取る」という表現は、今日ではその響きがあまり良いものではありません。一つの人格がまるで対象として扱われる可能性があるからです。さらに、人を取る人と取られる人の関係が、下手をすると従属関係に誤解される恐れもあります。ですから、福音書のこの表現を使い続けるのであれば、人を取る「漁師」は、まさに神であり、私たちはその方が投げる「網」と理解するのが良いでしょう。
網は漁師の意向に従って動きます。それはまるで矢が射手の狙いに従って標的に向かって飛んでいくかのようです。網に魚がかかるかどうかは漁師に委ねられている事項です。ですから、網にかかった魚の持ち主は漁師であって網ではありません。網は再び「空の網」に戻り、新しく魚を取る準備をします。
しかしながら、網にもある程度の責任はあるのではないでしょうか。網目がしっかりと編み込まれていなければ、捕まえた魚が逃げてしまうこともあるからです。そうであれば、網がしっかりと編まれているかを点検することは重要です。網を編むのはもちろん漁師である神の役割ですが、その調整に従うのは私たちの役割であり責任なのです。
漁師の立場を奪いたい誘惑に直面するたびに、網は自分が一つの道具に過ぎないという事実を思い出すべきです。また、自分自身の怠慢や不注意による損失については、網は漁師に責任転嫁をしてはなりません。
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私たちは主に呼ばれた、ただ道具であることに忘れず、いつも天国作りの忠実なキリスト者となれますように!聖霊、きてください。