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毎日新聞 2022/5/22 08:00(最終更新 5/22 08:00) 有料記事 1764文字
「療育センターきぼう」で障害のある子どもたちをケアする小児科医の田中宏子さん。着床前検査の先行きに不安を抱えている=群馬県みどり市で2021年11月22日午後3時49分、岩崎歩撮影
流産を繰り返した場合などに限り、不妊治療の一環として、体外受精させた受精卵の全染色体を調べる「着床前検査」の本格的な運用が4月に始まり、流産の回避が期待されている。一方、検査で染色体が通常でないことが分かったら、母胎に受精卵を戻さない選択肢も生じる。「自分の存在が消されるようで悲しい」。ある女性医師は検査制度の先行きに不安を感じている。【岩崎歩】
「分かっていたら…」
群馬県みどり市の「療育センターきぼう」。田中宏子さん(55)は小児科医として、脳性まひや交通事故による障害を持つ子どもたちをケアしている。
田中さんは、性染色体のX染色体が1本少ない「ターナー症候群」だ。発育時に低身長で月経が来ないなど2次性徴が現れず、不妊になることが多い。疾患に気付いたのは大学の医学部1年生の時。発生学の教科書で疾患の記述を目にしたのがきっかけだった。「今の医療では治療法がないと思い知った。子どもが産めないことがショックで、恋愛には負い目を感じていた」と振り返る。
その後、ターナー症候群の当事者の会と出合い、自らも発信する側に回った。ある日、田中さんのことを知った女性が相談に訪れた。娘に同じ疾患があるという。この時、女性が発した言葉を田中さんは今も鮮明に覚えている。「分かっていたら産まなかったのに」
疾患に関する悩みや感じ方は人それぞれだ。ただ、田中さんは「自分が重い疾患だとは思っていない。充実した生活を日々送っている人がいることも知ってほしい」と話す。それだけに「疾患のある当事者の実際の生活と、着床前検査を受けて染色体が通常でないと分かった場合に抱かれるイメージに、ギャップがあるのでは」と不安が募る。
「療育センターきぼう」で障害のある子どもたちをケアする小児科医の田中宏子さん。着床前検査の先行きに不安を抱えている=群馬県みどり市で2021年11月22日午後3時48分、岩崎歩撮影
「生まれてくる子に完璧さを求める風潮が強まっている。母の時代に着床前検査があれば、私は生まれてこなかったかもしれない。染色体の状態が事前に分かることが幸せにつながるわけではない」。田中さんはそう感じている。斎藤有紀子・北里大准教授(生命倫理学)は「技術の進歩と同時に、受精卵が通常と違っていたら選別するということに、社会が慣れていく危うさがある」と指摘する。
複数の産婦人科医は「染色体に過不足があっても、それがどういうことなのかを遺伝カウンセリングで十分に説明すれば、受精卵を戻す選択をする人もいる」と明かす。田中さんは流産を予防する目的の着床前検査に理解を示しながらも「染色体疾患の当事者のことは、まだ十分に理解されていない。検査の前に、疾患のことをきちんと知ってもらえるよう体制を充実させてほしい」と訴える。
科学的にはっきりしない面も
着床前検査では、体外受精させた受精卵の全染色体について過不足や構造の変化などがあるのかを調べ、その結果をカップルに知らせる。染色体が不足している場合などは、子宮に着床しにくく流産しやすいとみられており、検査結果を踏まえて受精卵を母胎に戻すことで妊娠率の向上や流産率の低下につながると期待されている。
着床前検査の流れ
検査結果の通知に当たっては、性染色体に関する内容は原則、伝えない。性別を決める情報を含んでいるので、男女の産み分けにつながる恐れがあるためだ。性染色体に過不足などがあり、遺伝医療の専門医が必要と判断した場合のみ知らせる。
一方、医療の現場には「情報をあえて隠すことは、医療倫理の観点からあまり良くないのでは」との考えも根強い。このため、性染色体に過不足などがあった場合、多くの医師がその検査結果も伝えるとみられている。そうなると、小児科医の田中さんらが抱く懸念が現実になりかねない。
特に、性染色体のX染色体が通常より1本多いことにより流産しやすくなるのかは、科学的にはっきりしていない。
生殖医療専門医で、遺伝医療にも詳しい田口早桐(さぎり)医師は「X染色体の遺伝子の量は少ないため、胎児の成長に影響を与えにくい。さらにX染色体のメカニズムの影響で、通常は2本あるうちの1本が働かない。X染色体が過剰でも、基本的に流産率は高くならないと考えられる」と説明する。
北里大の斎藤准教授は「性染色体の過不足が伝えられることも想定して、科学的な曖昧な部分も踏まえて、どのような説明とカウンセリングが必要なのか議論し、専門家や支援グループが連携して対応すべきだ」と指摘する。