+聖トマス西と15殉教者記念日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日聖トマス西と15殉教者記念日です。
救い主・イエス・キリストと天の元后聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、聖トマス西と15殉教者、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<人の子は人々の手に引き渡されようとしている。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。>
そのとき、9・43bイエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。44「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」45弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(ルカ9・43b-45)
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秀吉時代から徳川家光の時代までの、宣教師として最後の殉教者で、日本26聖人殉教者(2.5記念日)に入らなかった女性と日本人司祭が含まれている。
日本人の司祭であるトマス西、サンタマリアのヤコブ朝長、十字架のビンセンチオ塩塚の3人と、長崎のマグダナレナ、大村のマリナとして知られている女性がいた。またフィリピンの最初の聖人であるロレンソ・ルイズなど、日本から追放されたが死を覚悟して再び来日した外国人司祭もいた。
彼らは、日本で列聖された最初の日本人司祭と女性である(聖人カレンダーから)
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チョ・ミョンヨン神父様の今日の黙想文です。
この世の中を生きる中で「与えることと受け取ること」が重要だと言われます。自分がこれだけ与えたら、それに見合うものを受け取るべきだという考えを常に持っています。まるで正確に数を計算する会計士のように、貸し方と借り方を計算しているのではないでしょうか? しかし実際には、与えることと受け取ることは均等に分けることができません。
共働きの夫婦がいました。共に働いているので、家事を正確に公平に分担することにしました。水を使う家事は夫、水を使わない家事は妻が担当することにしたのです。例えば、皿洗いや雑巾がけ、トイレ掃除のように水が触れるものは夫が、リサイクルのゴミ出しやホコリ取り、買い物のように水が触れないものは妻が担当することにしました。しかしある日、妻が風邪をひいてとても具合が悪くなりました。ゴミを捨てる必要がありましたが、頭が痛くてとても外に出られる状態ではなかったのです。そこで夫に頼みました。すると夫は「俺は皿洗いもしたのに、ゴミも捨てろって? ゴミ出しは君の担当だろう」と言って断りました。
家事の分担を正確に公平に分けることができないように、世の中での与えることと受け取ることは均等に分けることができないものです。それにもかかわらず、なぜ私たちは会計士になって与えることと受け取ることが完全に同じでなければならないと思うのでしょうか? 時間や力がなくて、相手がしてくれたことと同じだけ返せない日もあったのに、私たちは自分が与えたものについてはよく覚えている一方で、自分が受け取ったものについてはあまりにも簡単に忘れてしまっているのではないでしょうか?
今日、イエス様はご自身の受難と死についてお話しされました。これまでイエス様が示してくださった愛を思い出せば、当然ながら受難と死という恐ろしい運命を迎えるべきではありません。むしろ、人々からの尊敬と愛が返ってくるべきですが、イエス様はそうではなく、ご自身に対して反対されることを予告されます。そこで弟子たちは「愛を与えた分だけ受け取るべきではないか?」と考えましたが、正反対の話をされるので、あまりにもおどろきで、何も言えなくなってしまったのです。
主は、愛について与えた分だけ受け取るべきだというこの世の論理、つまり会計士のようになることを私たちに望んでおられるのではありません。むしろ、与えることに集中し、受け取ることには無頓着であることができるようになってほしいと望んでおられます。私たちが受け取るのは、今この世で手に入れるものではなく、神様から報酬として受け取るものだからです。
正確に計算しようとする会計士にはならないようにしましょう。代わりに、天の国の計算法に従う愛を伝える主の真の弟子となることを目指しましょう。
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私たちの救いのためなさった主の御受難と死、復活を信じ、そこまで私たちを愛し受けられたことを信じ、わたちたちもキリストを見倣い、命かけて主と隣人のため愛を実践できますように聖霊きてください。