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細川ガラシャ夫人(下巻)
● 山鳴り 17-1
それは、坂本城のようでもあり、勝竜寺城のようでもある。玉子は、一人布団の中でうつらうつらしていた。人の気配に目をあけると、枕もとに忠興が突っ立っていた。おどろいて顔を上げると、忠興はだまってひざまずき、玉子を胸にかき抱いた。
忠興は白いりんずの衣を着ている。そのりんずの、ひやりとした感触が、玉子の頬に快かった。「忠興様、お会いしとうござりました」玉子がいうと、えもいわれぬふくいくとした香の匂いが、忠興の衣からただよった。「お玉、迎えに参った」「え?お迎えに?」
忠興はうなずき、やさしく背をなでた。忠興のいぶきが、玉子の耳に熱い。「もう、お城に帰ってよろしいのですか」問い返すと、もう忠興は傍にはいず、部屋を出て行くところであった。忠興は甲冑姿に身をかためている。かぶとのひとところが、きらりと強い光を放った。「あ、またご出陣でござりますか」
目がさめた。 迎えに来たというのに、自分をおいて行くのかと、玉子はあわてて床から身を起そうとし、まざまざと忠興の手の感触が、肩に背に残っていた。香のかおりも、夢とは思われなかった。思わず玉子は部屋を見まわした。が、夢であった。「迎えに参った」といわれた時の心のときめきが、いつまでも玉子の胸に尾をひいた。
夕近い空が青く深い。鬼やんまが二匹、秋陽に羽をきらめかせて、縁先に飛びかっている。 玉子は鬼やんまのすばやい動きに目をやりながら、文机にもたれて、今朝の夢をまた思い返していた。忠興の夢は、無論今日がはじめてではない。共に城の庭を歩いている夢や、話し合っている夢は幾度もみた。が、今朝の夢のように、共に臥し、しかも迎えに来たという夢は、はじめてである。
玉子は、昼を過ぎても、くり返しこの夢を思っていた。いまも、その夢を思いながら、玉子はうらがなしくなっていた。ほんのつかの間、夢の中で喜んだことが、かえって玉子を侘びしくさせた。
玉子はその侘びしさをふり払うように、文机の上に紙をひろげた。筆先に墨をふくませ、 玉子はちょっと思案する表情になった。昨夜の夢を、歌に書きとめておこうと思ったのである。色づきはじめた木々をわたる風が、折々、ひそやかに玉子の髪をなぶって過ぎた。
---- 逢ふと見てかさぬる袖の移り香の のこらぬにこそ夢と知りける ---- ただ読み返して、玉子は「知りける」を「知りぬる」と訂した。続いて、---- 逢ふとみる情もつらし暁の つゆのみ深し夢のかよひ路 ---- さらさらと書きとめた玉子は、ほおっと吐息をつき、「つらし、つらし、つらし」と書き散らした。どこかで、もずが鋭く啼いた。
---- 忘れむと思ひすててもまどろめば 強ひて見えぬる夢のおもかげ夢のおもかげ ---- 歌に詠めば、少しは心が慰められると筆をとったが、一入忠興が恋しく思われて、 ---- 恋しともいはばおろかになりぬべし こころを見する言の葉もがな ----
---- 色ならば何れかいかに映つるらん 見せばや見ばや思ふ心を ----
歌は次々にできた。あまりにもなまなましい今朝の夢が、このように次々に詠ませるのかと思いながら、玉子はようやく、自分を制するように筆をおいた。隣室から、機を織る音が絶えまなくひびいてくる。佳代が織っているのだ。と、その音がばたりと止んだ。
山の日ぐれは早い。いつのまにか、日が傾いている。今日の機織りも、終ったのであろう。 玉子は佳代を呼ぼうとしてやめた。今しばらく、一人机に向って、この頃心にとめておいたことを、書きとめておこうと思った。佳代と話していれば、心も少しは落ちつくのだが、この頃はなぜか只一人、こうして筆を走らせたくなることが多い。
玉子は想をまとめて再び筆をとった。 〈秋の夕つかた雁のほのかに鳴き渡るも、籬がもとの虫のこゑごゑ、げにぞ目にふるるもの、 みなみの山風あらましく吹きて、小萩が上しづ心なくとまりぬ〉
二、三日前の夕べ、風に荒々しく吹きたわめられている萩を見て、玉子はそこに自分の姿を見る思いだった。その思いを秘めて、いま、書いて見たのである。ちょっと息をつめて読み返し、行を変えて書きつぐ。筆を持つその指が細く白い。
〈すべて世間に月見ることのなからましかは。何につけてか、過ぎぬるかたの哀れをも、かばかり思ひ出ん、木の間より洩りくる月のかげ細くして、落葉が上、松の根に、わざと光をたたへたるやうに見ゆる、いみじうあはれなり〉
〈たぐひなく、もの心細う憂き世のあはれも身にしられて、まどろむとしもなく涙・・・〉自分の書く言葉に、心が次第に揺さぶられて、玉子は筆をおいた。感情に流されてはならないと戒めるものが心の中にあった。胎内の子を思えば感情はつとめて平静に保たねばならない。日が沈み、たちまち暮色が漂いはじめた。
(このまま日数を重ねて、秋も深まるばかり・・・) やがてこの山中に雪が降れば、里との往来も絶え果てる。その雪の前に、忠興の便りがくるか、どうか。 (冬!) ふいに玉子は、もう忠興の便りを待つまいと思った。突如として、怒りとも恨みともつかぬ感情が噴き上げるようであった。
(頼みにならぬは人の心・・・) その心を当てにして、今日は明日はと便りを待ち侘びてきた幾月かが、ひどく愚かしく思われた。腹部にそっと手を当てて、「もう待ちますまい」自分に言い聞かすように、玉子は声に出してつぶやいた。その時、横笛の音が嫋々と聞えてきた。(おや、また初之助が・・・)
日ぐれ時、玉子がもの悲しくなる頃、あるいは夜更け、玉子が忠興や子供たちを思い、亡き父母を思って寝ねかねている頃、ふしぎに横笛の音が流れてくるのだ。それはまさに、玉子の嘆きを感じとっているかのようであった。高く、また低く、澄みきった笛の音色であった。玉子は、その笛の音を聞く度に、心が慰められた。
今も玉子は、その笛の音に、怒りに似た悲しみが次第に和らげられていくのを感じた。初之助の笛を聞く度に、なぜか坂本城から眺めた琵琶湖が目に浮かび、父光秀や母の姿が懐かしく思い出されるのだ。七月、興元が突然訪ねて来た時、初之助は興元に伴なわれてこの味土野に来た。
興元は男城に二泊して宮津の城にもどったが、初之助はあれ以来、この部落に小屋を建てて住みついている。忠興に無断で警護の一人となることは許されない。が、興元は、「人間、どこの地に住もうと、その者の勝手。誰も文句はいえぬ」と、警護の者にも手伝わせて、小屋を建てさせたのである。
警護する側としても、人手のうすい山中に、初之助のような武芸に秀でた若者は重宝である。控え目だが、誠実なその人柄は、警護の者一同にも、土地の者にも信頼され、初之助は細川家の者とも、土地の者ともつかぬ生活に入っていた。土地の者は、もともとは平家の落人で武士の出である。
山中にかくれ住まねばならぬ玉子や、それを守る細川家の者たちに親近の情をもって接していた。じっと初之助の笛に耳を傾けている玉子の部屋に、佳代が入って来て、「お方さま、うす暗うなりました」と、灯皿に火をつけた。
「縁のふすまを閉じてよろしゅうござりますか。夕風が冷とうござります」「でも、佳代どの・・・初之助が笛を吹いておりますほどに・・・」「はい。でも、閉じても初之助さまの笛は聞えまする。夕風はお体の毒。ごめんなされませ」佳代は静かにふすまを閉じた。
「ほんに、初之助の笛は美しい・・・というより、何か心に迫ります」「はい、あの笛は、何かをうったえるような・・・胸のかきむしられるような・・・」玉子はだまってうなずき、ややあって、「母も横笛をたしなみました」
玉子はその切れ長な目をとじた。その玉子を、佳代はいたまし気にみつめていたが、「お方さま、初之助さまは、昨日宮津に出て、今日もどられましたとか」「ま! 宮津に?」「はい、興元さまにお目にかかって参られましたご様子、先程、金樽いわしをたくさん届けてくださいました」「金樽いわし! まあ、なつかしいこと」玉子の口もとがほころんだ。
金樽いわしは宮津の名産で、その昔、平重盛の六男忠房が舟遊びの折、酒を満たした黄金の樽を海中に落し、何としてもその樽を拾い上げられず、代りにいわしがたくさんとれるようになったという伝説がある。小さいが美味ないわしで、幽斎も忠興も玉子も好物であった。「佳代どの、宮津の話がききたい」玉子は少女のような、一途な表情を見せた。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 山鳴り 17-2
「え? 伊也さまがお城にもどっておられた? それはまた、どうして?」玉子は佳代を従えて、池田六兵衛に伴われて次の間にいる初之助の話を聞いていた。「はい」淋しい程に澄んだ目を、初之助は伏せた。昨日初之助は、宮津まで出かけた。興元とは、既に訪ねる約束をしてあった。
興元の部屋で、庭を見ながら話をしていた時、熊千代を遊ばせている若い女の姿が目に入った。くろぐろとした長い垂髪と、その着ている小袖は、遠目にも侍女のものとは思えなかった。(忠興殿の側室か?)と不審に思った時、その表情をとらえた興元が、「あれは、妹の伊也だ」といい、
「哀れな奴よ、あの妹は。このごたごたの世にあってはのう、一色義有を亡ぼして、一刻も早く丹後を平定し、国をあげて秀吉に従わねばならぬと、父上はあせったのであろう。何しろ義有は強かったからのう。兄の忠興でさえ、奴の豪胆には一目おいていた。それにしても父は策士よ。その伊也の亭主をまんまとこの城に呼びよせた。何といって呼んだと思う?」
「さ、それは」「それが、むこ、しゅうとの盃を取りかわすという口実だ。何も盃を交わさずとも、伊也が義有に嫁いだからには、むこしゅうとであるのは自明のことだ」「・・・」
「義有は強いが、単純な男だ。無論、全く警戒していなかったわけではない。たくさんの家来を引きつれてやってきたのだが、むこ、しゅうとの盃を取りかわす席には、一、二の限られた者しか通れぬ。義有が注がれただ盃を、こう両手に持った瞬間に、兄上が太刀で切りつけた。義有の肩から脇に、さっと血が吹き出たというぞ。しかし、さすがは義有、何歩かしっかりした足どりで歩き、縁まで出てドタリと倒れた。小山が倒れるような豪快な死であったそうな。それが九月八日よ。味土野にそなたを伴なってから、いく日も経たぬ。伊也はそれ以来、また城に戻っているというわけだ」
「それは・・・」「何しろ父は、頭はまるめたが世渡りの名人じゃ。貴公知っているか。おやじ殿は七月の二十日に、本能寺の焼跡で連歌の興行をした。つまり、信長様の追善供養よ。大した物入りだったが、これが評判になって、羽柴秀吉殿も、すっかり細川家を信用しているということだ」 興元はその時の連歌、
- 墨染のゆふべや名残袖の露 ---- 幽斎
- たままつる野の月の秋風 ---- 聖護院道澄
- わけ帰る道の松虫音に啼て ---- 法橋紹巴
を紙に書いてみせた。「ま、おやじ殿としては、細川家を安泰におくために、あれこれ知恵をしぼったわけだ。だが、何としても伊也はあわれなことをした」
興元の語るのを聞きながら、父と兄に夫をだまし討ちにされた伊也の心は、一体どんなであろうと、初之助はいたましい思いで、熊千代といる伊也の姿を眺めた。思いなしか、伊也の姿は魂が抜けたように力がなかった。
その姿を思い出しながら、初之助は、「はい、一色義有殿は、大窪城での、むこしゅうとのちぎりの宴において、果てられた由伺いました」とのみ、玉子に答えた。玉子はその一言にすべてを察し、「まあ、では伊也さまは、義有さまを殺されて・・・」と絶句した。「は、乱世の世なれば・・・」初之助は言葉少なにいった。
「やっぱり・・・」思ったとおり、伊也も不幸な運命であったと玉子は思いながら、嫁いでゆく日の初々しい伊也の花嫁姿を目に浮かべた。去年嫁いだばかりの伊也には、既に夫はないのだ。しかも、父と兄の奸計に倒れた。玉子は、胸の中を冷たい風が吹きぬけていくような気がした。
その伊也の幸せを祈って送り出した自分も、今はこうして山中に幽閉の身である。(女はなぜに、こんな悲しい思いをしなければならないのか) 男たちは、女をこんなにまで不幸に陥れても、龍争わねばならぬものなのか。
この先、自分はどれほど長い間、この山中に身をひそめていなければならないのか。自分をここにかくしたのは、せめて命だけは助けようとの手だてかも知れぬ。とすれば、あるいは自分は、この山中に一生幽閉の身として終らねばならぬかも知れぬ。玉子は暗い思いに閉ざされた。
「そうですか。伊也さまは、もどられましたか」深い吐息をついた玉子の、憂いを含んだまなざしが初之助の上にもどった。初之助はちょっと目を伏せた。今日、邸内で会った忠興の精悍な表情を、初之助は再び複雑な心で思い浮かべた。
興元との歓談を終え、興元に送られて城門近くに来た時だった。馬に乗った忠興が二、三の伴をつれて門から入って来た。初之助が忠興を初めて見かけたのは、もう五年も前になる。 玉子との見合のため、忠興が坂本城に訪ねて来た時であった。それ以来今が初めての対面である。はっとして、初之助は油断なく立ちどまった。
「頓五郎、この者は?」浪人姿の初之助を、忠興は馬上より見おろした。 「都で知り合った浪人で、三上初之助と申す者」「三上初之助?」うさんくさそうに、鋭い目を向ける忠興に初之助は一礼した。「腕が立つ御仁でのう」興元はとぼけてみせた。
「うむ、目くばりがちがう。たしかに腕は立ちそうだ」「そのとおり。剣も弓もよくする。鉄砲もうまい。稲富ほどではないにしても」稲富鉄之助は日本一の鉄砲の名人といわれ、暗夜に飛ぶ蛍さえ打ち落すといわれた。もとは一色家の家臣だったが、光秀に仕え、嫁入りの玉子に従って、細川家に入った。忠興は馬から降りて、「その方、仕官の志は?」と尋ねた。
「ござらぬ」そっ気なく初之助は答えた。「なぜだ」「主なき身は気楽でござれば・・・」「ふむ、道理だ」忠興の言葉は意外だった。「どこに住んでおるのだ」「足まかせでござる」「なるほど。気が向けば、また訪ねてくるがよい」 忠興はひらりと馬上の人となって去った。「兄者は、余程貴公を気に入ったと見える」忠興の後ろ姿を見送って、興元は笑った。「・・・ ?」
「信長公は、忠義の人材を集めるのが、武将の第一になすべきことだと、よく兄者にいっていたそうだ。多分、兄者は貴公を忠勤の士と見たのだろう。ふだんは馬から降りる男ではない」「・・・」初之助は、自分が、「主なき身は気楽でござれば」といった時に、「ふむ、道理だ」と答えた忠興の表情と声音を思った。ひどく素直な感じだった。
大名とはいえ、忠興もまた信長という主人を持っていた。そしていま、秀吉に忠誠を誓わねばならぬ場に立っている。 あれが味土野に妻をやらねばならなかった忠興の本音かも知れぬと、初之助は思った。忠興に対する漠然たる反感が失われたのではない。が、初之助は、玉子の夫なるが故に、忠興に抱きつづけてきた憎悪に似た感情が、ややうすらぐのを感じた。
「癇が強い。信長公に似たところがあるぞ、兄者は」興元は別れる時にそういった。そばいま、初之助は、玉子の傍にあの忠興が並んだ姿を想像した。が、その時、池田六兵衛が、 玉子の憂わしげな様子をふり払うようにいった。「ま、とにかく、一色が亡べば、細川家も安泰と申すもの。伊也さまはお気の毒なれど、お家のためとあらば、いたし方ありますまい。お家のためとあらばのう」
「お家のためとあらば・・・」玉子はつぶやいた。「さようでござる。奥方も、お家のためなればこそ、こうしてこの山中に、不自由を忍ばれておられる」(そうであろうか) 自分はただ、夫忠興のために、こうした日々を耐えていると、玉子は考えるまなざしになった。「さ、これにて、今宵は・・・」
六兵衛は初之助を促して、早々に退出した。退出際に初之助は、灯影にやや青白く見える玉子の顔を一瞬凝視した。が、玉子の視線はその膝に落されていて、誰をも見てはいなかった。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 山鳴り 17-3
ついに味土野に冬がきた。ついこの間までは、くれないに燃えていた紅葉も、いまはみな散り果て、たわわに実をつけていたあけびも野ぶどうも雪をかぶり、味土野の山に冬はきた。冬の山は、よく山鳴りがした。山全体が、あるいはうめくように、あるいは吠えるように、あるいはとどろくように、ごうごうと鳴った。山は生きもののようであった。
「山はのう、葉が落ちると鳴り出すんじゃ」土地の者である庭男がいった。葉が落ちて、風の通りがよくなるのであろう。山が、身をよじってうめくのではないかと思われるような日は、玉子の気もめいった。(とうとう忠興さまは、一本の便りもくださらなかった) 気がめいれば、思いはそこに帰る。
雪の降る前に、城から食糧は届いた。米、みそ、栗、柿、干わらび、塩魚、干魚などである。が、やはり忠興からの手紙はなかった。玉子は佳代と機を織ったり、縫物をして日を過していたが、気がめいると、ぼんやりと囲炉裡の火をみつめたまま、何をしようともしない。
気がめいるといえば、冬の夜のふくろうの声は、淋しかった。「ほう、ほう」腹にしみ入るようなその声を耳にすると、玉子は忠興や子供たちよりも亡き父母を思わせられて、思わず枕から頭をもたげることがある。だが、少し聞き馴れたいまは、淋しい声でしか啼けぬふくろうに、玉子はふしぎな親しみを感ずるようになった。
自分がもし鳥になれば、やはり、ふくろうのような声でしか、啼けないような気がした。まちがっても、いまの自分は、雀や鶯のようには啼けないであろう。暗い暗い闇をじっとみつめながら、深夜、 「ほう、ほう」と不吉なまでに侘びしく啼くしかないふくろうのような自分を、玉子は思った。
味土野で初めての正月がきた。純白の新雪がまばゆくきらめいているのを、玉子は沈む思いで眺めた。昨年の正月は、父の光秀も母の郷子も、そして弥平次も姉の倫も、弟の十五郎たちも、めでたく正月を迎えたものをと、改めて涙のこぼれる思いであった。一族は亡び、自分は夫とわが子から引き離されて、一人この山中に幽閉されている。
こんな正月を迎える日が、自分の一生のうちにあろうとは、夢にも思わぬことであった。「佳代どの。生きていることは、何と辛いこと・・・」玉子は、思いをおさえきれずに言葉に出した。と同時に、熱いものがこみ上げた。
「お方さま・・・」痛ましげに玉子をみつめた佳代は、その目にみるみる涙を浮かべたかと思うと、袖で顔をおおって嗚咽した。しばらくの間二人は忍び泣いていたが、やがて玉子は涙をぬぐい、「佳代どの、わたくしの父が、信長様を倒したことを、いかが思われます?」と尋ねた。佳代は泣きぬれた顔を上げ、「ぜひもなき御事と・・・」と言葉をとぎらす。
「まことに、そのように思われますか」「はい」「佳代どの。わたくしも一度はそう思いました。なれど、父の挙が一族を亡ぼし、わたくしもまた、こうしてわが子わが夫とも別れての日々を送りますうちに、なぜに反逆なされたかと、つい恨みの湧く日もありました」「・・・」「それが、こうして、山の中の淋しい冬を迎えてみますと、父への思いは、またもとにもどったのです」「と、申しますと?」
「人間、生きることが辛くなりました時は、何をするかわかりませぬ。父は耐えに耐え、忍びに忍んでいられたのだと、わたくしはこの雪の中で思ったのです。もし、一生この雪の中で、ひっそりと暮らさねばならぬとしたら、気も狂いましょう。父は信長様より、領地を召し上げられては、狂うよりは仕方がなかったのではありますまいか」
「・・・」「父が天下をとろうとしたこと、やはり、娘のわたくしは、ほめて上げたい思いもいたします」 「お方さま・・・」佳代は不安そうに玉子を見た。「何です?」「お方さまは・・・・・・お方さまには、そのうちにご帰城の日もございましょう。めったなことはなされませぬよう・・・」
「まあ、佳代どのは、わたくしも父のように狂うとでも思われましたか。わたくしは決して生害もしなければ、狂いもいたしませぬ。いっそ狂えるものなら幸せと思いますけれど----」「お方さま。佳代には、何の力もござりませぬ。ただ祈るより・・・」
「何を祈ってくださるのです。一日も早く帰ることができるようにと、祈って下さるのですか」「・・・いえ、佳代は、その祈りよりも、もっと大切な祈りを捧げております」佳代はきっぱりといった。「帰城するよりも、もっと大切な祈り? ・・・それはどのような祈りですか?」
「はい。それは・・・それは、もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵とお思い遊ばすことができますように、という祈りでござります」「苦難を大きな恩寵と思うことができるように? それよりも、帰城できるようにとの祈りのほうが、ありがたいと思います」
「はい、お方さま。その祈りは無論及ばずながら、朝夕はもとより、機を織りながら、歩きながら、毎日欠かさずいたしております。でも、お方さま、人の一生は、苦難の連続かも知れませぬ。無事ご帰城なされても、また別の、もっと大きなご苦難が待っているかも知れませめ」「・・・」
「よく、パアデレがおっしゃいました。苦難の解決は、苦難から逃れることではなく、苦難を天主のご恩寵として喜べるようになることだと・・・」「なるほど」玉子はかすかに眉根をよせて考えていたが、「つまり、こういうことでしょう。苦難が苦難である人には、いつまで経っても、苦難の解決はない。けれども、苦難がご恩寵と喜べる人には、もういかなる苦難も、苦難ではないと・・・」
「はい、喜びの中に苦難は住めませぬ」「でも、苦難をご恩寵と喜べるなどということは、人間にはありますまい」「はい。でも天主様のお助けがあれば・・・」「祈ってくださる真心はうれしく思います。けれども、キリシタンのことは、わたくしにはわかりませぬ」「・・・」
「佳代どの、いまわたくしはキリシタンも信じたくありませぬ。幼い頃より手を合わせたみ仏さえも信じたくありませぬ」「・・・」「本当に佳代どのは、デウスの神を信じているのですか」「はい、命をかけて・・・」「命をかけて信じているのですか。み仏と神と、どうちがうのです。デウスの神と、そこのほこらに祭ってある神と、どうちがうのです?」
玉子はかすかに笑って、「信仰とは何でしょう? 本願寺の僧たちは信長様と戦いました。あちこちに仏教徒の一揆が起きました。み仏を信ずる者に、人を殺すということがあってもよいのですか。仏教には、 殺生戒がある筈。それとも、近頃の仏教は、殺生してもよいということになったのでしょうか。み仏の心は、ご慈悲でござりましょう」
「・・・」「たしかにその筈… 。のう佳代どの。考えてみますと、父も時折寺に詣でておりましたし、 多額の寄進もいたしておりましたが、結局は人をたんと殺し、ご主君まで殺してお果てになおひつじようられた。父も殺生戒を犯した以上、地獄に堕つるは必定と思います」「・・・」
「わが夫忠興様もご同様、勇ましく戦っては人を殺しております。キリシタンには、殺生戒はござりませぬか」「ござります。殺すなかれ、盗むなかれと、十の戒めの中の一つにござります」「それはおかしい」玉子の聡明なまなざしが光を帯びた「と、申しますと?」
「右近様は有名なキリシタン。なれども、また並すぐれた武将でいらせられる。なぜキリシタンの右近様は殺生戒を犯しておられるのです?」「さ、それは」まだ二十歳の佳代は言葉につまった。「わたくしは、デウスの神も、み仏も信じとうありませぬ」立ち上がって玉子は、縁の障子をさらりとあけた。まばゆい雪の光が、玉子の目を射た。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 味土野の春 18-1
正月五日のその日、雪は音もなく降りしきり、味土野はしんと静まりかえっていた。朝食のあと、玉子は忠興が自分のために、三年の歳月を費やして作ってくれたかるたを手に、一枚一枚読んでいた。金箔を貼った扇形の優雅なかるたである。百人一首のどれもが、しみじみと心に沁みた。自分がこの山奥に住んでいるために、心に
