+カルロ・ボロメオ司教記念日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日はカルロ・ボロメオ司教記念日です。
慈しみ深い主・イエス・キリストと力強い乙女マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、聖カルロ・ボロメオ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい。>
そのとき、14・12イエスは招いてくれたファリサイ派の議員に言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14・12-14)
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聖カルロ・ボロメオは1538年にイタリアのロンバルディア州アローナの貴族の家庭に生まれました。信心深い家庭で幼少期を過ごし、早くから学問に励みました。1560年に叔父のピウス4世教皇が彼を一般信徒として枢機卿に任命すると、遅ればせながら聖職者教育を受け、1563年に司祭になりました。彼はミラノの大司教として教会改革に大きく貢献しました。また、貧しい人々や苦しんでいる人々を支援する制度を整え、広く普及させました。1584年に逝去した彼を、1610年にパウルス5世教皇が列聖しました(今日の典礼から)
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田・サンヨン神父様の黙想文「お返しを期待した施しは、変化の力を失ってしまいます」です。
12世紀のユダヤ人哲学者マイモニデスは、施しを8つの段階に分けました。
1段階:しぶしぶ行う施し(不本意に与えること、与えて後悔すること、お返しを期待する善行)
2段階:喜んで与えるが充分ではない施し
3段階:喜んで充分に与えるが、求められたときのみ与える施し
4段階:喜んで充分に自発的に与えるが、受け手に劣等感を感じさせる施し(自分を誇示しながら与えること)
5段階:受け手は誰から助けを受けたか知っているが、与え手は誰に与えたか知らない施し
6段階:与え手は誰に与えたか知っているが、受け手は誰から受けたか知らない施し
7段階:与え手も受け手も互いを知らない状態で行う施し
8段階:困窮者が自立し、生計を立て、自己尊敬を回復させ、その人も施す人にする施し
自分を顕示したり、自分の功績を認めてもらうために行う施しは、低いレベルの施しです。誰からのものであるかわからないようにする施しは高いレベルのものですが、それよりもさらに高いレベルの施しは、その人も施す人に導く施しです。相手の変化を引き出す施しが最も完全な施しです。
今日の福音書でイエス様はそのような施しを行うことを勧めています。
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
なぜお返しを期待せずに施しを行うべきであるとおっしゃるのでしょうか?お返しを期待して行う施しは、相手の変化を引き出すことができないからです。相手が私が与えたものを返す能力がないとき、もし良心があるなら、他の方法を探すようになります。私のために祈ってくれたり、私が望む人生を送ることを決意したりします。しかし、その施しに対するお返しをすることができるならば、その施しによって相手が変わることはありません。最も高いレベルの施しは「誰かを変える施し」です。
ある羊飼いが羊を連れて帰る途中、一頭のライオンがうろうろ歩いているのを見ました。驚いて逃げようとしましたが、ライオンは座り込んで前足だけを差し出していました。恐怖を押し切ってライオンの足を見ると、大きなとげが刺さっていました。羊飼いはそのとげを抜いてあげました。
しばらくして、羊飼いは濡れ衣を着せられ、円形競技場に投げ込まれました。その中ではライオンが人を食べていました。しかし、あるライオンが彼に駆け寄り、彼を守りました。看守がいくらムチでそのライオンを打っても、ライオンはその羊飼いを守り続けました。羊飼いもそのライオンが自分が助けたライオンであることに気付きました。この話を看守が人々に伝えると、人々はライオンと羊飼いを解放するよう声を上げました。そして、ライオンは森へ、羊飼いは羊を飼う仕事に戻りました。
イソップ寓話に出てくる話です。弱肉強食の世界で、どんなにライオンであっても片足を引きずって歩くことはすぐさま死を意味します。
ライオンは自分なりの方法で恩返しをしました。
キリストが私たちに与えてくださった愛に、私たちはお返しすることができません。どんなに努力しても、その恩恵にお返しをする方法はありません。神は必要なものが一切ない方だからです。ただ、その恩恵にお返ししようとする心を、「隣人を赦し、愛することで示すように」と掟を与えられました。お返しをすることができないからこそ、私たちは自分なりの方法で隣人を愛するしかありません。その姿こそがイエス・キリストの姿です。キリストの愛の施しによって、私たちはキリストのように隣人を愛する者となるのです。
私たちも貧しい隣人に対して、そのような施しを行うべきです。最も完全な施しは、自分と同様に他の人も、お返しをすることのできない人々に施す者にする施しです。「最も完全な愛は、愛するように導くこと」です。そのためには、お返しをする能力がない人々に施さなければなりません。だからこそ、イエス様は貧しい人々に福音を伝えに来たのです。
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お返しができない隣人を通して主に御返しができますように、毎日福音を伝え、祈りながら貧しい人やお返しができない人々に施しの実践ができますように!聖霊、来てくだい。