+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は聖ヨサファト司教殉教者記念日です。
慈しみ深い主・イエス・キリストと奇(くす)しきばらの花聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、聖ヨサファト、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです>
そのとき、イエスは言われた。17・7「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17・7-10)
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田サンヨン神父様の黙想文「信仰があれば赦す必要はない」です。
ある神父さんが、自分の小教区の信者の一人が特別な神の恩恵を受けて、過去、現在、未来をすべて知ることができるようになったという知らせを聞きました。そこで、その人が本当にそのような恩恵を受けたのか知りたいと思い、会いに行きました。その神父さんは、過去の神学校時代に犯したある罪について常に悩んでいました。
「神様があなたに本当にそのような恩恵を与えたのですか?」
彼はもちろんだと答えました。
「では、私が若い頃に犯した罪についてずっと心が苦しいのですが、私がどんな罪を犯したのか神様に聞いてもらえますか?」
彼は祈ればわかると答えました。しばらくして、神父さんは再び彼に会いました。
「祈ってみましたか?」
彼はもちろん祈ったと答えます。
「では、神様は私が昔どんな罪を犯したと言っていますか?」
その信者は答えました。「神様はすでに忘れてしまったとおっしゃっています。神父様。」
罪の意識は他の人を裁くようにさせます。アダムとエバが罪を犯した後、その罪の意識を軽減するために、互いを責め合ったのと同じです。したがって、誰かを赦すためには、まず隣人を裁く自分の罪の意識から自由でなければなりません。その罪の意識から自由になるためには、キリストの十字架によって、すでに私たちの罪が赦されたことを「信じなければ」なりません。
自分が罪から解放されたと信じることで、隣人を裁く必要もなくなり、したがって、赦す必要もなくなります。しかし、信仰がなければ、どんなに赦そうとしてもできません。仮に赦せたとしても、また別の人を憎む理由を探していることでしょう。
今日の福音は「赦し」というテーマから続いています。一日に七回罪を犯し、七回赦しを求められたら、毎回赦さなければならないということです。使徒たちはこの言葉を聞いて、信仰なしでは不可能だと直感し、イエス様に「信仰を増してください」と願います。イエス様はただ信仰だけが赦しの力であることを否定せず、今日のたとえ話を話されます。
畑を耕し、羊を飼った後に帰ってきた僕は、たとえ辛くても、帰ってきて主人の食事の世話をしなければなりません。その後に食べて飲むことになります。これは僕だからです。僕はすべての命令を遂行した後でこう言います。
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」
信仰のない僕は、このようなことを言えません。神の僕になるということは、救われることを意味します。救いは主人の分であり、僕の分ではありません。僕がうまくやったからではなく、主人によって選ばれたから僕になったのです。したがって、主の僕としてするべきことをすべて終えた後でも、常に感謝せざるを得ません。このように、救いが私の功績ではなく、主の功績であると信じるなら、従いながらも幸せでいられます。
ヘミングウェイの小説の中にこんな話があります。あるスペイン人の父親が、家を出てマドリードに向かった息子と和解することを決心します。父親は遅ればせながら良心の呵責を感じ、「エリベラル」新聞に広告を出します。
「パコ、火曜日の正午にモンタナホテルで会おう。すべてを赦した。お父さんより。」
パコはスペインで非常に一般的な名前です。父親が約束の場所に行くと、パコという名前の若い男性がなんと800人も出てきて、それぞれが父親を待っていました。
私たちは皆、神なる父の赦しが必要な人々です。御父の赦しが必要ない人は一人もいません。ただ御父が赦してくださったと信じる人と、信じない人に分かれるだけです。
人を裁く理由は、信仰によるものではなく、自分の努力によって救いに達するという錯覚によるものです。信仰は、私たちの救いが自分の功績によるのではなく、イエス様の血によるものであることを知ることで、謙遜にさせます。謙遜であれば、自分が恩恵によって罪が赦されたことを知っているため、隣人を裁くことができなくなります。
信仰が芽生えると、謙遜になり、謙遜になると、赦すことが容易になります。いや、誰も裁くことができないので、赦す必要もなくなります。
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人を裁かず、赦しもできるため、私たちに信仰を増してくださる聖霊、来てください。