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細川ガラシャ夫人(下巻)
● 秀吉の死 25-1
慶長三年十一月末。朝からの雨が午後になっても止まない。大坂玉造の細川邸の一室に、忠興が茶を点てていた。利休七哲の一人といわれる忠興の挙止は、こせこせとしたところのない、動きの大きな美しさがある。その手もとを、玉子は長男の忠隆、舅の幽斎と共にみつめていた。幽斎は田辺城から昨日久しぶりに大坂へ出て来ていた。
「太閤どのが逝かれて、早三月よのう」幽斎がつぶやくようにいう。「まことに」忠興がうなずき、茶筅の動きが止まった。忠興は茶碗を幽斎の前に置く。「将軍が逝かれたのも八月じゃったの」「はい、義昭様は、昨年の八月二十八日でござりました」忠隆が静かに答えると、「して、太閤様は一年後の八月十八日か」忠興が言った。
「うむ。全く、太閤どのの辞世の通りじゃのう。何もかも夢のまた夢じゃ」飲み終って、幽斎は茶碗を置いた。忠興が次の茶を点てはじめた。みな黙然としている。
---- 露とおち露と消へにしわが身かな.
浪華の事もゆめのまた夢 ----
秀吉のこの辞世を、一人一人が胸の中で思っていた。
幽斎は、足利義昭将軍の一生と、秀吉の一生を較べていた。義昭は衰微した将軍家に生まれて、食うに事欠く日々さえあった。その将軍を、自分は光秀と共に信長に引き合わせた。 信長は義昭将軍を奉戴して京に上り、天下に名を轟かせた。
が、信長と将軍の仲が不仲になり、遂に将軍は毛利氏を頼って逃げ、十年前に出家して昌山と称した。秀吉に従って肥前名護屋に出陣はしたが、その後かなり体が衰え、遂に昨年八月、六十一歳を一期に死んで行った。将軍を逐った信長も、将軍をかつぎ出した光秀も疾うに死に、義昭自身はそれから十六年も長生きしたことになる。
将軍がこの世に出た頃、信長の一介の臣に過ぎなかった秀吉が、光秀の反逆を機に天下をとり、朝鮮にまで出兵したが、これも六十三歳で死んだ。長いようで短い人生が、まことに露のように夢ないと幽斎は思う。「本能寺も、大坂築城も、朝鮮役も、何もかも、夢のまた夢よのう」幽斎が言った。
「全く」忠興は静かに父の幽斎をうち眺め、「あの辞世を詠まれた御心がいたわしい」 と、しみじみという。しかし玉子には、秀吉の死を悼む思いがない。はじめて秀吉の死を知ったのは、九月はじめであった。明智家から玉子に従いてきた家臣の河喜多石見が、その死を玉子に伝えた時、 玉子は思わず微笑するところであった。
六月末、朝廷では秀吉の病気平癒の祈願のため、御神楽をあげたと聞いている。秀吉の病いの重いのは、知ってはいた。七月には、全国の神社や寺院でも祈願が行われていると聞いた。八月五日に、秀吉は五大老である徳川家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝を伏見城の病床に呼び、六歳の秀頼への忠誠を誓わせた。五奉行の石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以以下諸大名にも忠誠の誓書を差し出させた。
更に、前田利家には秀頼の保護を、家康には後見役として、その地位を損なわれることのないよう依頼した。二人は感涙にむせび、堅く誓って秀吉を安心させようとした。が、秀吉はそれだけでは安んぜず、家康の孫娘を秀頼の妻にすることをも誓わせた。これ以後、秀吉は秀頼に家康を父と呼ばしめた。
秀吉の、六歳のわが子に対する愛着と、その前途への憂慮は、一見異常とも思えた。が、決して異常ではなかった。わずか六歳のわが子の運命は、秀吉にはわかっていた。わかっていて、尚幾度も諸大名に後事を托さねばならぬ心は、哀れでもあった。その五大老への遺書は、秀吉の心もとない姿を如実に示している。
「返す返す、秀頼こと頼み申し候。五人の衆頼み申すべく候。委細五人の者に申し渡し候。 名残惜しく候。以上。秀頼こと、成り立ち候ように、此の書きつけ候しゆを、真たのみ申、何事も此の他には思い残すことなく候。かしく」
これらのことを、玉子は聞いて知っている。これが、わが父光秀を亡ぼし、わが一族を坂本城に亡ぼした秀吉の最期なのだ。秀吉は光秀を亡ぼしたばかりか、文に秀れた大村由己に、 「明智」の謡曲を作らせ、興行させた。能は秀吉によって演劇化され、秀吉は自分を主人公に五つの謡をつくった。「明智」はその一つであった。このことを、利かぬ気の玉子は、許しがたい思いで肝に銘じている。
秀頼のことのみくどくどと遺言し、「何事も此の他には思い残すことなく候」と書き残した秀吉の死を、玉子は皮肉な思いでみつめていた。秀吉は誰をも信じられないのだ。もし秀吉が、信長の遺児たちを立派に遇していたならば、このような心配はなかったのではないかと玉子は思う。主君の遺した子に対して、武将が如何になすかは、自分自身に照らして、秀吉自身よくよくわかっていたにちがいない。
秀吉が迫害し、十字架につけた三木パウロたち二十六人の死と較べると、秀吉の死は、あまりにも哀れに惨めに思われる。秀吉には朝鮮にまで戦いを起し、前後七年にわたったその戦さによって、全国の疲弊がいかに甚だしかったかなど、どれほども心にかかってはいなかったのだ。
次から次と、玉子には秀吉のむなしい栄華や悪行のほどが思われてくる。(黄金の茶室も、寝室も、何とむなしいこと・・・) その茶室は三畳で、天井も壁も、障子の骨も、すべて黄金で造られてい、持ち運ぶことが 「おおぎまちでき、組み立てられるようにできていた。この黄金の茶室を御所に組み立て、正親町天皇に茶を献じたことは有名だった。
また、秀吉の大坂城の寝室には、長さ七尺、横四尺、高さ一尺五寸の寝台があり、寝台の頭のほうには、これまた黄金の彫物があったと聞く。この寝室に、秀吉は幾人の側室を迎えたことか、玉子は胸の中で数えて行く。(浅井長政様の御長女、淀君さま、前田利家さまの御三女摩阿さまは加賀の局) ここで玉子は眉をひそめる。その摩阿の妹千世が忠隆の妻である。
加賀の局は、僅か十四歳で側室にさせられている。(それに・・・松丸どの、三条局、姫路どの、三丸どの・・・) 再び玉子は眉をひそめた。三丸どのは信長の第五女なのだ。
宣教師ルイス・フロイスの記録に、「関白はこの上なく破廉恥にして不身持。動物的肉欲に溺れて、その諸宮殿内には二百人以上の婦人を有す」とあるほどで、玉子には数えがたい。
玉子は一度会った時の秀吉を思う。好々爺に見えたが、一瞬にしてぎらぎらしたまなざしに変ったその時の秀吉の顔が、いやでも浮かんでくる。 懐剣をすべり落して、決意のほどを示し、危うく難を逃れたものの、思い出すだけで、鳥肌の立つ思いがする。(思っても詮なきこと、いや、思ってもならぬこと)
玉子はふと、秀吉の素行を思い出すこと自体、天主の御心に反する気がして、恐れを覚えた。如何に父光秀を亡ぼした相手とはいえ、そして如何に多くのキリシタンを迫害したとはいえ、その死を喜ぶが如きは、許されぬ筈である。にもかかわらず、玉子には秀吉の死は喜ばしいのだ。(おぞましきは、己が心・・・)
玉子は忠隆を顧みた。忠隆は茶を静かに喫している。去年、忠隆は前田利家の第六女千世姫と結婚したばかりである。(早いもの・・・) この熊千代を残して、味土野に去った日がありありと思い出される。あの幼い日に、母に別れた二年の空白が、どんな形でこの忠隆に残っているのか、忠隆はあまり母になつかぬままに育った。
「ところで、問題はこれからじゃて」幽斎が、両膝に手を置き、ぐいと三人を見た。「さよう」忠興が深くうなずく。「忠興、そちは、どう見るな?」「はい、誰が見ても、東の徳川家康、西の毛利輝元の勢力は、あなどりがたいところ」「うむ」「しかも、この十一月はじめ、輝元は博多で、石田三成を主客として茶会を開いたとか」
「なるほど、そちも相変らず耳が早いのう」「なに、それほどでもござりませぬが、とにかくその折、二人は深夜まで話し合ったとか。また、その後石田も輝元を茶会に招いて居る様子…」「なるほど。で、前田はどうじゃ」幽斎も忠興も忠隆を見た。まだ十九歳の忠隆に、天下の形勢はわからない。が、忠隆は前田利家の娘千世姫の夫なのだ。
秀吉は利家に、秀頼の保護を懇ろに頼んでいる。で、利家は大坂城にあり、家康は後見役として伏見城に政務を司っている。この利家に五奉行の筆頭石田三成が接近していた。つまり、家康と利家が対立し、その利家に三成が近づき、更に三成と毛利輝元が組んでいることになる。ふつうならば、姻戚関係のある前田利家と、細川家は手を結ばねばならぬが、
忠興は石田三成を嫌っていた。
「石田は嫌いじゃ。陰険で、策士で」といい、石田三成もまた忠興とは意見が合わない。忠興は言った。「父上、石田はこう申しておるとやら。前田利家は老いぼれじゃ。今は手を握って徳川を亡ぼし、次は前田を亡ぼす。そうすれば、天下はわがものとのう」
「奴の言いそうなことじゃ」「石田の肚も知らずに、利家公は奴に利用されているわけじゃ。のう忠隆、今のうちに、利家公は徳川家康と手を結ぶべきじゃぞ」忠隆は真剣なまなざしでうなずく。「そうじゃのう。前田と徳川が手を結ぶということは・・・つまり、細川家も徳川家につくということじゃのう」幽斎は、一語一語確かめるように言う。
「そういうことになりまするな。ところで忠隆、わしが、千世の兄の利長に、石田の肚を吹きこんでおこう」忠興の言葉に、忠隆はおとなしく、「はい」と答えた。(また、大きな戦さが始まる) 玉子は口に残ったとろりとした茶の苦味を味わいながら、思った。
幼い時から今に至るまで、いくつかの戦いがあった。が、徳川と、秀頼を奉ずる石田の戦いは、容易ならぬ戦さになることを、女の玉子も感じた。忠興も忠隆も、舅の幽斎も、その戦いの中に巻きこまれて行くのであろう。玉子は思わず深い吐息をついた。「結構な服であった」幽斎がいった。玉子には、意味ありげな挨拶に思われた。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 秀吉の死 25-2
明けて慶長四年二月、病いを得た前田利家は、徳川家康に会い秀頼の後事を托した。忠興が仲に入ったのである。その後、利家の病いが重くなり、家康が見舞に行くことになった。
情報を聞いた三成は、まだ忠興の真意を悟らず、家康を闇討する相談を持ちかけた。忠興は反対したが、三成が計画を改めぬと知るや、これに同意した。が、忠興はひそかに家康を逃れさせた。前田利家の死は、家康の勢力を俄かに強める結果となった。
利家の死の翌日、忠興をはじめ、 加藤清正、福島正則、黒田長政ら七人の武将が石田三成を討たんとした。三成は笑止にも、曾て自分が夜討をかけようとした家康に救いを求めた。しかもその時、三成は女装し、女籠に乗って行った。
家康は呆れて、「妙な者がきた」とつぶやいたという。が、この時家康は、忠興ら七人の将たちと三成との間を仲裁し、三成はしばらく佐和山に謹慎することになった。その年九月、秀頼の母淀君の乱行が風評にのぼり、武将たちの心は淀君を離れ、淀君の産んだ秀頼からも離れた。彼らは秀吉の正妻・北政所に親しみ、家康もまた同様であった。
家康が大坂城に入り、五大老の一人として政務にあずかるようになったのも、その頃である。当時忠興は、領地の丹後宮津に赴いていた。夫の留守をまもる玉子は、いつものとおり、侍女たちと共に、忠隆の新妻千世姫もまじえて、はた織をしたり、絵を描いたり、孤児たちの世話に励んだりしていた。こうした日々にも、『こんてむつすむん地』を読む会はつづけられた。
千世姫の兄前田利長は、受洗こそしてはいないが、キリストを深く信じていたから、千世姫もその影響を少しは受けていた。だから、『こんてむつすむん地』を読んだり、孤児の世話をすることに抵抗はなかった。が、深い求道心があるわけでもない。千世姫は大名の家に育って、身も心もまだ幼なかった。
邸内から仰ぐ大坂城は、よそ目には何の変りもないが、世の動きが日増しに険しくなって行くのが、玉子たちにも察せられた。しかし、玉子たちの住む奥の棟には、浮足立つような世にあって、ふしぎな落ちつきがあった。「戦わずにすむものならすんでほしい。誰一人、刃にかかって死ぬことのないように祈りましょう」玉子は、佳代や千世たちによく言った。
「こんど戦さが起きれば、忠利さまもご出陣でござりましょうか」佳代がある時、不安気に玉子に問うた。「ほんにあの子も早十四歳。生まれた時は弱うて、殿が捨てよと仰せられたほどでしたが---」「見事ご立派になられました」三男忠利は父の忠興に従って、宮津に赴いている。
(興秋も大きくなったことであろう) 玉子はふと、興元の養子になった興秋を思った。興秋には、久しく会っていないのだ。もし戦さがあれば、興秋も出陣しなければなるまい。玉子は、人間は戦さをするために生まれてきたのではないと思う。人間には、戦さよりももっと尊い仕事があるように思われるのだ。
しかし、武将の家に生まれた子は、朝に夕に武術に励まねばならない。そして、いつ戦場に散るか測り知れない。男子であればこそ、いつ討死してもよいように、受洗させたい願いを玉子は持っている。 だが、忠隆はまだである。忠興から受洗の許しは出ていない。「信仰は程々でよい」忠興の常日頃の持論なのだ。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 秀吉の死 25-3
十一月に入ると大坂にも肌寒い日が続く。が、主のいない日々は、何となく奥の棟の空気ものびやかである。侍女たちのはしゃぐ声が今日も聞える。佳代が玉子に言った。「ガラシャ様、来月はキリストさまの御降誕祭。宮津はもう雪でござりましょう」
「ほんに、どんなに積っておりますやら」「殿もお寒くて大変でござりましょう」正月近くにならねば忠興は帰らない。「殿のことゆえ、雪を見れば益々元気になられましょう。ところでマリヤどの、今年の御降誕祭には、殿もご一緒下さるとのこと、よろしく頼みます」
玉子は、過日忠興の言ったことを伝えた。「まあ、殿もご参加下さりまするか。何とありがたきこと。して、今年はどのように御降誕をお祝い申しあげたらよろしゅうござりましょう」「それは、マリヤどの、そなたとみんなで相談の上・・・」「では今年は、みんなで能でもいたしましょうか」教会では、降誕祭の夜、信者たちがキリシタン能を公開する。
新約・旧約聖書の物語を題材にした能は、人々に珍しがられ、喜ばれた。佳代や侍女たちの口からは聞いてはいるが、一人玉子だけは見たことがない。「ま、それは面白いこと」「お方さまに、その謡をお作りいただいて・・・」「それは無理と申すもの」二人は楽しげに笑った。
そして幾日か経ったある日、思いがけなく宮津から忠興が帰ってきた。「殿、お帰りでございましたか」玉子は微笑を浮かべて、むっつりと突っ立っている忠興の前に両手をついた。下唇をかんだ忠興の顔は、げっそりと憔悴している。「殿、いかがなされました」玉子は変らぬ語調で静かに言った。
「お玉、とんだことになったぞ」着物を着更えてから、ようやく忠興は口を開いた。「とんだこととは?」「この忠興に、逆心あり、との疑いを受けたのじゃ」忠興は玉子の顔をみつめた。「な、何と仰せられます?」驚く玉子に、「徳川殿は、細川家征討のため、宮津に軍を出そうとしているというのじゃ」「まさか!? それは、殿、何かのまちがいでは?」
「いや、まちがいではない。常日頃、わしが情報を集めている故、幸い早く耳に入ったが…。お玉、徳川殿は、前田利長と、その縁つづきのわしとが組んで、叛旗をひるがえすと疑っておられるのじゃ」「・・・殿、それは、どなたかのざん言でござりましょう」きっぱりと玉子は言った。
「うむ、確かにその通りじゃ。あの五奉行の一人の増田長盛のざん言じゃ」「増田さまが?」「そうじゃ。前田利長が浅野長政たちを抱きこんで、家康殿を殺そうとしていると言ったらしい」「そして、殿もその仲間にあると、仰せられるのでござりますか」「うむ。陰で、石田が糸を引いている気配がする」忠興は嘆息した。
佳代が膳を運んできた。旅からもどると、湯づけをかきこむのが、忠興のならいだったからである。「で、いかがなされます」「登城の用意を致せ。とにかく、徳川殿に対して、わしも前田も決して二心なきことを弁明せねばならぬ。今日にも出兵とのこと、急がねばならぬ」湯づけに客をつけたが、忠興は二口三口で碗を置いた。
「徳川さまはわかって下さりましょうか」「それはわからぬ」忠興は首を横にふった。今の場合、一人大坂城に出向いて、無事に終るかどうか、わからぬのだ。忠興は、服装も礼装の素襖に改め、「お玉、覚悟はよいな」と玉子を見まもった。「すべては、よろしきことになりましょうほどに」忠興を励まして玉子は言った。
「うむ」小笠原少斎と二、三の伴を従えて、あわただしく登城する忠興を、玉子は玄関の敷台にすわって見送った。(信じ合えぬ世に、人は生きている) つくづくと玉子は思った。忠興は日頃から徳川びいきで、現実にその命を助けてさえいる。家康もまた、何かと忠興に好意を見せながら、一度、他からの密告を聞くや、直ちに忠興征討の命を下す。
(信じても下さらぬ徳川さまの前に、命をかけて弁明に行かれるのか) 思わず玉子の目がうるんだ。細川家の運命を担って生きている忠興の、男としての辛さを、 ゆえ玉子は今しみじみと感じたのである。あのまま、城中で殺されるか、切腹を命ぜられるかわからないのだ。
それでも、忠興は一家の浮沈にかかわる一大事故に、出向いたのだ。玉子は奥の一室に入ると、忠興の無事を天主に祈った。 「天主を信ずる者にとりては、すべてのこと相働きて益となるべし」という聖書の言葉を思いつつ、玉子はひたすら祈った。人の目にはいかに悪い状況に思われても、結局はよい結果への過程であることがある。
「徳川どのの心を和らがしめ給え」玉子はそうも祈った。父の光秀が信長を倒した時も、細川家は大混乱を呈した。が、この度は、直接細川家が亡ぼされようとしているのだ。あの時のように、忠興は宮津において、幽斎や重臣たちと協議を重ねた結果、自ら早馬を飛ばして来たのであろう。
忠興の帰りが長引くにつれ、玉子にも事の重大さがひしひしと身に感じられた。廊下を行き交う侍女たちの足音さえ、ひそやかになった。事情はわからぬながらも、只ならぬ事件の出来を感じているにちがいない。夜になった。が、忠興は帰らない。(話がこじれているのか、それとも・・・) 忠興の身に危険が迫っているような気がした。
五つ半(九時)も過ぎた頃、玄関のほうが騒がしくなり、侍女が忠興の帰りを告げた。「ご無事で」と言いたい思いをこらえて、玉子は静かに、「お帰りなされませ」と頭を下げた。「うむ、今もどった」一言いったまま、忠興は家臣たちの住む別棟にずいと入って行った。
どのような結果になったか、口では語らぬが、一つの危機を乗り越えたのを玉子は感じた。玉子は、直ちに膳部の者に、忠興や伴の者への食事の用意を命じ、再び部屋にもどった。忠興は九つ(零時)少し前に、部屋に戻ってきた。酒の匂いがしていた。が、酔ってはいない。「心配をかけた」着更えながら、忠興は言った。
「さぞお疲れでござりましょう」玉子は改めて、確かめるように忠興の肩に手をふれた。死を覚悟で出て行ったのだ。出陣よりも悲壮な登城だった。よくぞ無事にもどってくれたという感慨が深かった。「徳川殿は、最初わしを疑っていた。が、誠心誠意の言葉は通じたと見える」「通じましたか」本当に信じてくれたのかと、玉子は思う。
「うむ、わかってくれた。もともと話はわかる御仁なのじゃ。前田のためにも弁じて、その嫌疑も晴れた」「まあ、それは、よろしゅうござりました」「が、無条件で許してくれたわけではない。前田からも家臣が来ていたが、とにかく、一応は逆心なしとわかってはくれた。しかし、人質を出せと申されるのじゃ」「え?人質…」玉子は忠興を見つめたまま、しばし口を開かなかった。
やはり徳川どのは信じては下さらなかったのか。命をかけて弁明に出かけた忠興を、なぜ信じられないのか。人間は人間を信じることはできない・・・。当然とも思いながら、玉子は人の心のむなしさを感じないではいられなかった。「で、その人質だが・・・」忠興はあぐらをかいた自分の膝にじっと目を向けながら、「忠隆、千世、忠利と、こう考えて行くと…」
言いかける忠興に、「殿、わたくしではいけませぬか」玉子は膝を進めた。「ならぬ!」言下に忠興は退けた。「なぜでござります」「そちは・・・そちは、わしにとって、なくてはならぬ存在じゃ」「……」「いかなることがあろうと、わしはそちを人質にはせぬ」「お言葉ながら・・・」「ならぬ。そちはまだまだ美しい。人目には触れさせたくないのじゃ」
駄々をこねるような言い方で、忠興はいう。その忠興の心が玉子の胸に沁みた。「と申されましても・・・」誰を人質に出したらよいのかと玉子は思う。玉子にとって、わが子はわが身よりもなお愛いとしい。 「お玉、わしは忠利と決めた」「まあ!忠利を・・・」「うむ、忠利も十四じゃ。出陣できる年齢じゃ」
「では、忠利を一人、遠い江戸にやるのでござりますか」「そうだ」「まだまだ子供ですのに」「苦労は子供の時からしてよいものじゃ。家康殿を見てみろ。僅か六歳で今川氏に人質にやられたではないか。しかもその途中織田信秀殿に奪われて、二年の間織田の人質、それからまた今川の人質と、難儀に遭い通しじゃ。
十四の忠利が、人質に行くぐらいで、驚いてはならぬ」「はい」玉子は目頭をおさえた。三男の忠利は、幼い頃乳房をくわえる力もないほど弱い子であった。その弱かった赤子の頃の姿が、今の忠利の上に重なって、玉子は忠利を不憫に思わずにいられないのだ。
玉子には、次男興秋を興元の養子にしたことさえ、侘びしく耐えがたいのだ。まして忠利を、見も知らぬ江戸の徳川家に人質にやることは、いかに天主を信ずる身とはいえ、耐え難く悲しいことであった。無論、人質である以上、大事にはされるであろうけれども、一旦事があれば、人質の忠利は無残にも殺されなければならないのだ。
玉子が結婚して間もなく、祖母登代が人質として八上城に預けられ、無残な死を遂げたことは、玉子にとって忘れようにも忘れ得ぬことである。「お玉、そのうち、どうしても、石田三成と徳川殿は戦うぞ」「はい」一度はそうならねば治まらぬことは、玉子も感じている。
「その時、細川家がどちらにつくか、これで、もう定まったも同然じゃ」「はい」忠利を殺すことはできない。「といって、石田を全く敵に廻してよいか、どうか。これが問題じゃ」「なぜでござります」「細川家は、生きのびねばならぬ。もともとは誰が天下をとるかが問題ではない。細川家は強い方について生きのびるしかないのじゃ」
「では、忠利は」「徳川殿がもし弱ければ、わしは石田方につく」「では忠利の命は・・・」「忠利の命よりも、 細川家の命が大事と知らねばならぬ。お玉、わしも今日は自分の命を賭かけた。それが武家の覚悟というものよ」生きのびることの厳しさは、同時に醜さ、むなしさでもあると玉子は侘びしかった。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 恩寵の炎 26-1
徳川家康の台頭、そして家康と石田三成の対立、いままた歴史は大きく揺れ動いていた。そしてその渦の中に、はしなくも玉子の命がのまれようとしていた。陰暦六月、むし暑い夜である。寝静まった邸内の奥の間に、忠興と玉子のみが、さっきから向い合っていた。「出陣はもとより・・・」忠興の語尾が苦し気に消える。
玉子はその忠興の顔をじっと見守っている。「覚悟はしているが・・・」再び忠興の声がかすれた。戦乱の世に生まれ、十五の初陣に名を上げて以来、出陣には馴れている。が、この度の出陣は、忠興の胸に言い難い苦悩を与えていた。命令に従って出陣し、戦いが終れば帰ってくればよい、というわけにはいかないものが、忠興の前に大きく横たわっていた。
出陣命令は徳川家康から出たのだ。家康は豊臣家五大老の一人である。その家康が、同じく大老の一人である上杉景勝を征討せよというのである。他の三人は各自の国に帰っている。 家康は今や、秀吉亡きあとの豊臣政権の実権を握る者であった。豊臣の名を以て、家康は諸将を自分のもとに馳せ参じさせる実力を持っていた。
上杉景勝征討の口実は、景勝の謀反ということであった。久しく領地を留守にして京都にあった景勝が帰国した。帰るや否や、道路や橋を整え、城を修理し、武器や兵を集めた。景勝はもと越後の領主で、一昨年会津に移ったばかりである。新しい領地において、城や道路を整え、兵糧や人を集めることは、領主として当然のことであった。が、これを出羽の城主戸沢政盛が「上杉景勝に謀反の心あり」と、家康にざん言した。
家康が、これを謀反と信じたかどうかはわからない。が、このざん言を家康は取り上げたのである。この前年、家康は前田利長謀反のざん言に、征討の準備をした。が、利長は直ちに謝罪し、 その母を人質として差し出した。細川忠興にも、同様征討の軍を向けようとしたが、忠興も直ちに息子忠利を人質に出して、釈明につとめた。
家康としては、これらのことはむしろ目算の外れたことであった。家康は、豊臣家の大老の地位を利用して、諸将を己が意のままに戦わせたかったのだ。今も、戦う相手は無論一人上杉景勝だけではない。この時にあたって、自分に従わぬ諸将が即ち敵であった。その家康の肚を、細川幽斎も忠興も見ぬいていた。
「さようでござりますか。・・・徳川さまが、会津にご出陣なされますと、その背後を石田さまが---」玉子が言いかけると、「その通りじゃ。石田三成奴が、必ず背後を衝く。恐らく、景勝と石田はもう、徳川殿を挟討ちにしようと、肚を合わせているであろう。それを徳川殿は百も承知よ。いや、会津征討は徳川殿の石田に対する誘いの隙じゃ」
「では遠からず、徳川さまと石田さまとは、天下分け目の戦さを…」「その通りじゃ。賢いそなたは、女性ながらよく見透している。われわれとしては、徳川殿 1の胸のうちも石田の肚の底も、知らぬ顔で出陣せねばならぬのじゃ」玉子はしっかりとうなずき、再び顔を上げた。
「常の戦さならば、出陣して戦ってくれば、それで事は終る。だがこの度は、誰しもが家運をかけての戦さじゃ。徳川が勝てばこの細川家は安泰。石田が勝てば、亡びねばならぬ」「まことに、玉にもそう思われます」
「そこでじゃ、お玉、徳川殿には何としても勝っていただかねばならぬ。そのためには、従う吾らも細心の心くばりをせねばならぬ。先ず第一に、上杉を討つ以外に他意はないという顔をしていること、これが大事だ。でなければ、徳川殿の誘いの隙が、石田に見破られる」
「はい確かに・・・」「実はのう、お玉」忠興は苦しげに息をつき、 「この度の出陣にあたって、わしは考えに考えたのじゃ。・・・それはのうお玉、先ずそちをひそかにどこぞへ隠して、出陣したいと思ったのじゃ。しかし、それが叶わぬのだ」玉子は深くうなずいて忠興を見守った。
「さたちますぐ 「上杉を見てもわかるとおり、自分の領地の城や橋を修復しただけで直に、ざん言される世の中じゃ。もし、そちを逃して出陣したとあれば、吾らの徳川殿への並々ならぬ覚悟のほどを、石田は忽ち読みとるであろう。何しろ石田は、わしを目の仇にしておりながら、いつでも味方に引き入れようとしておるでのう。それでわしの一挙手一投足を見守っているのじゃ」
「殿、殿のお言葉、この玉にもよくわかりまする」「お玉、わかってくれるか。わしは、辛いのじゃ。お玉をこの邸に残して行くのは、わしには身を切られるように辛いのじゃ。苦しいのじゃ。石田は、徳川殿に追い討ちをかける時、 必ずそなたに目をつける。人質にとって、わしを牽制するのが目に見えて居る。と言って、 お玉、そちが石田の手に渡ってもらってはこれまた困るのじゃ」
隠すこともならぬ、人質に取られることもならぬ、ということは、つまり万一の時には死ねということである。それを言おうとして、さすがにそれとは言えずに、忠興の歯切れのわるい言葉がつづく。玉子は、忠興の言葉を聞きながら十八年前の夜をありありと思い起した。父光秀が本能寺に信長を亡ぼした。その光秀の娘である自分の進退が、重臣たちの間で問題になった時のことだった。
有吉が玉子を斬ると言った。忠興が、「玉子を斬る者は、俺が斬る」といって、玉子をかばった。そのやりとりを、玉子は襖をへだてた廊下で聞いた。その時の忠興の苦悩が今も胸にきざみとのまれている。あの時は味土野にかくまってくれた。が、今回はそれができない。忠興の今の苦悩は、あの夜にまさるとも劣らぬ苦悩に違いない。
玉子の唇に、ほのぼのと微笑が浮かんだ。「・・・それでじゃ・・・お玉」言いよどむ忠興の言葉をさえぎるように、玉子は静かに言った。「殿、ご安心召されませ。玉は、いかなることが起りましても、この邸より、一歩も動きは致しませぬ。心おきなくご出陣下さりませ」玉子の心が、忠興の全身をつらぬいた。「お玉!」万感の思いをこめて、忠興は玉子をみつめた。玉子は静かに忠興をみつめ返した。
「お玉! そなたにここに居よということは・・・そなたに、死ねということなのじゃ・・・」忠興の声がつまった。「殿、覚悟はいたしておりまする」涼しい目が、まばたきもしない。「死ぬというのか、そなたは・・・」悲痛な声であった。
「はい、殿。いつか玉が申し上げましたる言葉、ご記憶でござりましょうか。殿が、天主への信仰を捨てよと仰せられました時、わたくしはこう申し上げました。そのお言葉には、たとえ殺されようと従うわけには参りませぬ。けれども他のことなれば、いかなるお言葉にも従いまする。食を断てと仰せなら、食を断ちまする。部屋から一歩も出るなとのご命令ならば、一生この部屋から出ますまいと・・・」 「・・・」
「殿、あれは玉が、命がけで申し上げました真実の言葉にござります。苦しまぎれに、嘘偽りを申し上げたのではござりませぬ。あれ以後、いつも玉はその覚悟で殿のお言葉に従って参りました」「お玉! それでは・・・」「ご安心召されませ。玉は、殿のお言葉は命をかけて守りまする」「お玉、そなたは・・・」忠興は涙をこらえ、「万一、石田方から、そなたを人質に捉えに来たる時は・・・」
「はい、決して人質にはなりませぬ。もし、わたくしが人質になりましては、徳川殿も、殿の忠誠を疑いましょう。忠利を徳川殿に、わたくしを石田方に人質にでは、二心を疑われても致しかたござりませぬ。殿、玉は死んでも人質にはなりませぬ」「お、お玉!」忠興は、しっかと玉子の手を握りしめた。
「そなたを・・・そなたを殺しとうはない」はらはらと忠興は落涙した。玉子も涙をこぼしながら、「殿、天主を信ずる者には、肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」と、きっぱりと言った。忠興は玉子をひしとかき抱き、「ああ、あの味土野に、再びそなたをかくまえるものなら・・・」「いいえ、殿、あの時殿に助けられ、玉は今日まで生きて参りました。殿、玉は充分に幸せにござります」玉子は忠興の胸に顔をふせた。
玉子は聡明であった。今、自分たち夫婦が、いかにあがいても、時代の危機から逃れることが出来ぬことを感じた。忠興が細川家の安泰をねがって徳川方につくことも、自分を大坂に残さざるを得ないことも、すべては余儀ないことなのだ。もとより忠興は妻の自分の死をねがっているのではない。が、結果として見殺しにせざるを得ないところに、立たされているのだ。徳川家康にしても、寵愛の側室を大坂城に残して出陣するという。
玉子はふっと、二十何年も前に、姉のお倫の言った言葉を思い浮かべた。「嫁ぐことは、死にに行くことです」お倫はこう言って、淋しく笑った。そのお倫も、本能寺の変のあと、坂本城で、母や弟たちと共に死んで行った。が、今、玉子は、自分にとって結婚は、死ぬ場ではなく生きる場であったと思う。
もし石田三成が、自分を人質にしようとするならば、自分は生きてはいられまい。が、その死もまた、自分にとっては生きる道だと玉子は思った。このあと何年生きたとしても、結局は肉体は死なねばならない。(死ぬべきときに、人は死すもの)玉子は、忠興の胸に抱かれながら思った。
「殿」「・・・む」忠興は、玉子のつややかな黒髪に唇をつけていた。目に涙が光っている。掌中の玉と愛しんだこの玉子を死地に置き、明日は宮津に発たねばならない。出兵の手筈は六月二十七日といと決まっていた。「何じゃ、お玉」「・・・散りぬべき・・・」「散りぬべき?」「はい、散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
「散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ・・・。お玉!」 辞世か、と口に出かかって、忠興は言葉をのんだ。互いに十六歳の幼い年に結婚した二人であった。あれから二十二年、さまざまなことがあった。が、いとしい玉子の口から、辞世をきかねばならぬ悲痛な夜があったろうか。
「散りぬべき・・・」再び言おうとして、忠興は絶句した。忠興の肩が小きざみにふるえ、傍の灯火がほのかにゆらめいていた。忠興が、会津に向う家康に従って宮津を出発したのは六月二十七日、石田三成が、家康討伐の兵を挙げたのは七月十七日であった。三成は、二十年にわたる豊臣家の恩顧には、家康に従った諸将もそむけぬと見ていた。自分が挙兵すれば、必ず大方の諸将は馳せ帰ると誤算していた。
一方家康は、石田三成の動きを知るや、自分に従う諸大名を集結させて言った。「大坂がかかる雲行きとなったからには、諸将は自由にその進退を決めるがよい。大坂の妻子の安否も心配であろう」福島正則が先ず答えた。
「承わりたいのは、秀頼公のことじゃ。秀頼公さえ安泰ならば、わしは石田などにはつかぬ。太閤殿が、あのご臨終の床で、涙を流してお頼みなされた秀頼公のことだけは、何としてもお守り申さねばならぬ」「そうじゃ、わしも福島殿の意見に賛成じゃ」黒田長政、加藤清正など、豊臣の家臣たちも口々に言った。家康は答えた。
「それは無論じゃ。わしも秀頼公の前で固く誓ったことだ。秀頼公を奉じていればこそ、今かように、大老として戦っているのじゃ。石田らは、その秀頼公に弓を引く者じゃ」こうして家康たちは石田を反逆者とした。武将たちは、秀頼公さえ安泰ならば、何も日頃嫌いな石田に走ることはない。
一方、石田三成は、案の定先ず細川忠興にねらいをつけた。忠興は果敢であり、家康に心服している。その忠興の妻玉子を人質とし、かつ領地丹後を守る細川幽斎を討つ。忠興は名代の愛妻家であり、親孝行者である。必ずや、急先鋒の忠興も動揺し、西軍に降るであろう。 ひつじよう忠興が降れば、他の者も浮足立つこと必定と三成は見た。
この時の、丹後征討の要請が別所豊後守宛の書簡に次のように記されている。「(前略)今度何の咎もこれなく景勝追討のため内府(家康)へ助勢、越中守一類残らず罷りしか立ち候段、是非に及ばず候。然る間、秀頼公よりのご成敗のため各々差しつかはし候条、軍忠をぬきんぜらるべく候。至つて下々まで働によりて御褒美を加へらるべく候」
忠興、興元、忠隆らが宮津から会津に向ったあと、丹後の幽斎のもとには、領内ことごとくかき集めて、武士が五十余人、雑兵五百人ほどであった。石田三成は、丹後征討の準備とともに、いち早く、大坂の細川邸をはじめ、黒田長政邸、 加藤清正邸などに人質を要請する手筈をきめた。
家康に従った大名の内室を人質にとるという噂は、十三日に既に大坂市内に広まっていた。黒田長政の妻は、噂を聞くや、ひそかに邸を脱け出ていた。 加藤清正の妻は、大きな水桶の底に、更に底をつくり、そこにかくれて船に乗って逃げた。大坂に在る大名の妻たちは、人質の噂に恐れおののいた。
今日人質に取られるか、明日取られるかわからない。留守居役の小笠原少斎は、その噂を玉子に知らせようかどうかと迷ったが、やはり一応知らせるべきだと奥の棟に伺候した。清原マリヤと、お霜という侍女に少斎は先ず言った。
「石田方は今日にも、徳川殿に従った諸将のご内室を人質にとるという噂じゃ。心苦しきことじゃがお耳に入れて頂きたい」「え? 今日にも!?」霜女はさっと顔色を変えたが、マリヤは、「かしこまりました」と静かに答えた。二人は少斎をその部屋に待たせて、急いで玉子の部屋に行った。玉子は静かに、自分の書いたものなどを読み返していた。
---- 逢ふと見てかさぬる袖の移り香の
のこらぬにこそ夢と知りぬる ---- 曾て味土野でつくった歌である。ありありと忠興の姿を見、醒めて夢と知った時の侘びしさが、昨日のことのように思われる。
---- 朝夕は忘れぬままに身に添へと
心を語る面影もなし ----
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 恩寵の炎 26-2
あの頃の、言い難いうつろな侘びしさから見ると、今は何と幸せであろうと玉子は思う。忠興が宮津に向って発つ朝、玉子も門に立って見送った。忠興は食い入るように玉子を見、 何か言おうとしたが、唇がわなないただけであった。ようやく玉子から視線をもぎとるように外らすと、忠興はひらりと馬上の人になった。
「少斎、石見、稲富、あとを頼むぞ!」言ったかと思うと、忠興の馬は駆け出していた。じっと見送る玉子を、忠興は振り返らなかった。その振り返らぬ忠興の心が、玉子には痛いほどわかった。坂を東へ走り去る忠興とその伴の影が、左へ曲って消えるまで、玉子はまばたきもせずに、じっと見送っていた。
その時の忠興の姿が、今も鮮やかに目に浮かんでくる。(再び、決して相まみゆることはないであろう) しかし、いつの日か逢えるであろうと思っていた味土野の頃より、今は心が満ち足りていた。平安であった。「御心のままに従わしめ給え」今も玉子の唇から、低く祈りの言葉が洩れた。
「ガラシャさま」清原マリヤが静かに声をかけた。「おや、お霜と二人で、何のご用でしょう」「はい、只今小笠原さまが参りまして、今日にも石田軍が、人質をとりに押しよせるという噂。いかがとり計らいましょうかとのことにござります」玉子は、「ご出陣の際、殿がお指図なされて居られましょう。その通りにご返事なさるがよいとお伝えして下さい」引き退った二人が、しばらくしてまた玉子の前にきた。
「小笠原様と河喜多様が、仰せになりますには、人質に出すにも、当家には適当な人がござりませぬと石田方にお返事申しては、いかがかとのことにござります」「なるほど」「長男、次男は会津に向っており、三男は江戸の徳川様の御邸に人質の身。差し出す人とてござりませぬ、かように申し上げるとか」
「して、それでも、たって出せと言われた時は?」「はい、その時は、丹後の大殿様にご相談の上、お指図を待ってお返事申し上げまする。殿の留守故、家来どもの一存では、事を運びかねますと、お答えしたいとか、いかがでござりましょう」「なるほど。最初から、死んでも人質は出せぬなどと、角立つ返事もできますまい。それでよろしいでしょう」と静かに笑った。
その時、他の侍女が、「うごんさまが、折入ってお話し申し上げたいとのことにござります」と言いに来た。うごんは、年に一、二度顔を見せにくる比丘尼である。マリヤと霜女が去り、比丘尼が小腰を屈めて入って来た。「まあ、ご機嫌うるわしゅう。相変らずお美しゅうて・・・」「うごんさまにも、お変りもなく・・・」
「お方さま。何かとまた騒がしゅうござりますな。何でも、石田さまが、奥方さま方を人質になさるとやら、何とやら・・・」玉子は微笑したまま黙って聞いている。「けれども石田さまは、人質は大事にお扱いになるとか。いつ、人質にとられるかと怖じ恐れて居りますよりも、早く大坂城に行かれたほうが、ご安心と申すものでござりましょう」親切げにうごんは言う。
玉子は、うごんが石田三成の内命を受けて来ていると察知した。「うごんさま。ご親切はかたじけのうござりますけれど、わたくしは、いささかも石田さまを怖じ恐れてなど居りませぬ」きっぱりと玉子は言った。「え? 恐れない、と仰せになられますか」恐れぬと言う返事が、よもや、女の玉子から出るとは思わなかった。
比丘尼は早々に帰って行った。が、その翌々日、うごんはまた訪ねて来た。「奥方さま。石田さまは、武力をもっても、人質を取ろうとお考えのご様子です。悪いことは申し上げませぬ。急いでお逃げなされませ。加藤様の奥方も、黒田様の奥方も、既にお逃げになられました」
「いえいえ、殿は、この家より一歩も出てはならぬと申しました。聖書にも『夫にはキリストさまの如く仕えよ』というお言葉がござります。わたくしは神のお言葉に従いまする。殿に逆らうわけには参りませぬ」比丘尼は、困惑げにその青白い顔をうち伏せていたが、「奥方さま、お隣の宇喜多様はご親戚でござりましたのう」宇喜多家には、前田利家の娘が嫁いでいる。その妹が、長男忠隆の妻千世でもある。
「はい、親戚でござりまするが・・・」「宇喜多家ならば、小路一つ隔てて隣故、かくまって頂くに恰好の場所ではござりませぬか。万一、このお邸が兵火に囲まれましても、宇喜多家に居られればお命は安全。悪いことは申しませぬ。宇喜多家にお逃げなさりませ」「うごんさま。いかに親戚でも、宇喜多家は石田さまと同心のお方でござりましょう。やすやすと捉えられて、大坂城に人質となるやも知れませぬ」玉子はうごんの手には乗らなかった。
うごんが帰った。玉子は縁に立って大坂城を仰いだ。美しい夕あかねの下に、天守閣がきらりと光る。廻廊に立つのは大勢の武士であろう。細川家には、小笠原少斎、河喜多石見、稲富鉄之助をはじめ、十人に満たぬ武士が留守を守るだけだ。それぞれに武術には秀れている。わけても稲富鉄之助は、糸で吊した大豆を打ち落すといわれるほどの、天下第一の鉄砲の名人である。
が、何万の兵力を持つ石田勢の前には、どれほどの役にも立たない。しかも稲富は、生まれついての臆病者で、至って小心である。(城とは何であろう) 威圧するようにそびえ立つ大坂城を見上げつつ、玉子は思う。日本国内にどれほど多数の城があるかわからない。その城を拠りどころとして、武将たちは命をかけて戦う。が、その城は、どれも絶対的に強固なものではない。
父の光秀の坂本城も落ちた。天下に誇った安土城も亡んだ。この大坂城も、いつまでその堅固さを誇れるか。城は、人間のむなしい拠りどころに過ぎぬと、玉子はひっそりと笑った。強い者も、弱い者も、やがては死ぬ。その人々は、死んで果してどこに行くのであろう。
「殿も未だ・・・」忠興が天主を信じていないことが、玉子には心がかりであった。その時玄関がざわめいた。石田方の正式の使者であった。遂に来るべきものが来たのだ。 使者は命令を伝えた。「秀頼公への忠義従順の心あらば、即刻ご内室を城中に差し出されよ。
万一、この命令に背くことあらば、武力をもってご内室を申し受くる者也」有無を言わせぬ高圧的な命令である。しかも、他の誰でもない、内室を即刻差し出せ、出さねば武力を行使するというのだ。
使者の前に、河喜多石見は答えた。石見は明智から来た重臣である。玉子の生まれぬ前からの光秀の臣であり、嫁ぐ玉子に従いて、細川家に来た忠義の臣である。七十九歳の老骨ながら、凛とした態度で答えた。
「これはまた何と理不尽なお言葉でござろう。当主忠興殿の留守は、先刻ご承知の筈。その殿の留守に、家臣たるわれらが、勝手に奥方を差し出せるものでござろうか」「そのようなことは身共のあずかり知らぬこと。御奉行石田三成殿の命令じゃ」
「待たれい。これほどの大事、何故当主に直々早馬をもってその意を告げ申さぬか。あるいはわれらが大殿幽斎殿にご使者を差し向くる道もある筈」「-----」「石田殿ほどのお方が、その理がわからぬ筈はござらぬ。ともあれ、武士にとって、主人の命令が至上じゃ」「では、御奉行の命には服さぬと申すか」
「御奉行といえど、大老といえど、われらが主人ではござらぬ」「されば武力をもってしても、かまわぬと申すのか」「そのような無体なる命令には、到底従うわけには参らぬ。この老腹かき切るとも、奥方をこの邸の外へは一歩も出し申さぬと、復命せられよ」
「よしっ、その儀なれば覚悟を召されい」足音荒く使者が帰って行った。少斎と石見は危急のこととて、急ぎ直々の目通りを玉子にねがった。「奥方様」石見が、いたましげに目をしばたたいた。坂本城以来、幼い時からの玉子を見守ってきた石見には、肉親に劣らぬ玉子への情がある。
「石見どの、達者で何より・・・」ねぎらう玉子の言葉が、石見の涙を見て途切れた。「奥方様、遂に石田方より使者が参りました」少斎が様子を伝え、「人質を、武力を以て連れ行くとは、あまり聞かざるところ・・・」
「石見どの、少斎どの、武力などに決しておどされたりしますまい。人に従うよりは神に従うべきなり、と御教えにもござります。また、妻はキリストさまに仕えるように、夫に仕えよ、との御言葉もござります。わたくしはこの御言葉を守りましょう。殿の命に背いて、人質などには決してなりませぬ故、安心なさるがよい」
「はい、お心のうち、よく存じ上げて居ります。吾らも、武力を以て戦いまするが、吾々が討死したあと、奥方様お一人が残れば、そのまま城中に連れ去られましょう。そうなっては---」「石見どの、なぜわたくし一人が生き残ることになりましょう?」「それは…奥方様はキリシタン故・・・」
「なるほど、キリシタン故自ら生害は致しませぬ。自害は恐ろしい罪故、自害はなりませぬ。この命は、少斎どの、石見どの、そなたたちの手に果てましょうぞ」「奥方様…」 石見の白髪頭がふるえた。「出来得るならば、吾々は奥方様を、何とかお逃し申し上げたい」
「この期に及んで、石見どの、未練でありましょうぞ。わたくしはもはや、生きのびようなどとは夢考えては居りませぬ。殿は、徳川殿に従った以上、万々一にも、わたくしが石田方の人質となってはなりませぬ。徳川殿に忠心なきものと疑われまする。それでなくても、疑われて忠利を人質にとられて居りますものを。殿には心おきなくお働き頂かねばなりませぬ」
涙一つ見せぬ玉子に、石見は言葉もない。少斎は、「奥方様、お心のほどお察し奉ります。吾らも、奥方様のお命を頂戴致しましたあと、直ちに御供つかまつりまする」「御供? 少斎どの、そなたたちは自害なさるおつもりか」玉子は、その美しい目を二人に注いだ。「はい、殿より御殉死のおゆるしを頂いて居ります故、家臣としてこれに過ぐる名誉はござりませぬ」
「なりませぬ。わたくし一人死ねば、それにて足りることではござりませぬか。わたくしの死は、神を信ずるが故の死。神は夫に従えと仰せになりまする故、喜んで死んで参りまする。 けれども、そなたたちは、わたくしの死んだのちは、この屋敷に火を放って立ち去ってくださるように・・・」
「殿のご命令なれば、お伴をおゆるし下されたく・・・」「石見どの、少斎どの。死んで、そなたたちはどこへ行かれる?」「どこへと申しますと?」「死んでどこへ行くかもわからず、死に急いではなりませぬ。のう石見どの」と玉子は豊かな膝を進め、
「石見どの、幼い時からまことにお世話になりました。もう、そなたも七十九歳、ただ苦労をかけて・・・何とお礼を申し上げてよいやら・・・。今、また、このわたくしと共に死のうとの言葉、決しておろそかには聞きませぬ。ありがたい心とお礼を申します」「何の勿体ない」「いえ、勿体ないはこちらの申すこと。のう石見どの、少斎どの、共に死ぬならば、共に同じ天国に行こうではありませぬか」「天国へ?」
「そうです。死んでどこへ行くかわからぬそなたたちと共に死ぬるは、心が重い。どうかそなたたちも天主を信じて下さるように。キリストさまが、そなたたちの罪を負って十字架にかかられたことを、信じて下さるように。信ずれば、共に天国に参れますものを」死を前にした人とも思えぬ熱した語調で、玉子は二人に信仰をすすめた。
「お言葉、ありがとう存じまする。が、かく申すうちにも、石田の軍勢が押しよせぬとは限りませぬ。身共が信者になるひまは、残念ながらござりませねば・・・」少斎が言う。石見は老いの目を拭って、「奥方様、姫さま方や家の者とお別れのご準備を・・・」と声を励ました。
「ではどうか、二人とも、くれぐれも死ぬることは急がぬよう、わたくし一人を静かに天に送って下さるように」玉子はていねいに頭を下げた。部屋に一人入って、かねて用意の白無垢を着、静かに神に祈りを捧げようとした時、ふいに端々たる笛の音が、塀の外から流れて来た。修士になった初之助の吹く、聖なる讃美の曲であった。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 恩寵の炎 26-3
玉子に力を添えるが如く、初之助の笛の音は塀を越えて静かに流れてくる。その初之助の心を玉子は瞬時にして深く受けとめた。味土野に現れて以来の初之助の忠誠を、玉子は今改めて思った。が、思いにひたる余裕は既にない。玉子は膝を正し、神の前に心を静めて祈りを捧げた。
「尊き天地の主なる御神、聖なる御名のとこしえに尊まれんことを。この卑しき身を、三十八年の間、今日この日まで御守り下されましたる御恵み、心より感謝し奉ります。取るに足らぬこの身に、御救いの道を示し、信ずる者とならせ給いましたる深き御恩寵、ひたすら感謝を捧げ奉ります。わたくしの気づいて居ります罪をも、気づかずに居ります罪をも、すべてをおゆるし下さりませ。
また、わたくしの心の中より、石田どのに対する恨みがましき想いを、ことごとく除いて下さり、清き、砕かれたる魂となって、御許に召されますよう、御導き下さりますように。父光秀の娘と生まれたること、忠興どのの妻となりたること、すべては相働きて益となりたる御恩寵を謝し奉ります。
残れる細川家の人々の家に、わけても夫忠興の上に、わが子忠隆をはじめ、幼き万に至るまで、限りなき御いつくしみの御手を以て、信仰に御導きあらんことを乞い願い奉る。また、清原マリヤ、霜女、侍女たち一人一人の上に、石見どの、少斎どの家臣の一人一人の上に、父光秀より遣わされた初之助の上に、同様の御恩寵を賜らんことを。
何卒、わたくし一人の命を召されて、他の者どもの命をお助け下さりますように、お願い申し上げまする。御恩寵によりて信仰を与え給い、御恩寵によりて信仰の死を与え給う天主の上に、限りなき御栄えを祈り奉る」心をつくして祈り終ると、玉子は胸に十字を切った。その玉子の目がこよなく澄んでいた。
礼拝の場を出ると、もう六つ半(七時)を過ぎる頃でもあろうか、夕色の濃くなった部屋に、侍女たちが張りつめた表情で玉子を待ち受けていた。武力を以てしても玉子を人質に申し受けると言い、石田の使者が帰ったのは半刻前、折り返しに石田勢が押しかけてくるのは必至であった。白無垢を裾長く着た玉子の清らかな立ち姿を、侍女たちは瞬きもせずに見上げた。
その中には、長男忠隆の妻千世と、七十歳を過ぎた忠興の叔母とがいた。忠興の叔母は、昨秋来細川家に寄食していた。「千世どの、もはや六つ半も過ぎていましょうほどに、今にも石田勢が攻め寄せるやも知れませぬ。一足先に宇喜多様へ叔母上さまをご案内下されませぬか」人形のような幼い顔立ちの千世姫はうなずいて、「して、お姑様は?」
「一度に行っては目立ちます故、のちほど参りますほどに・・・。叔母上様、このような事態になり、お心を痛めて申し訳もござりませぬ。さ、千世どの、叔母上様を急ぎご案内を---」年老いて事の判別もできぬ叔母と、まだ年若い嫁の千世には、不要な心配をかけまいと、 玉子はわざと永の別れのそぶりを見せずに言った。
千世は、白無垢の玉子の姿を見ても、まさか死の覚悟があるとも察せぬほどに、石田勢の襲来におびえて、気が転倒している。 「では、お先に参らせて頂きまする」刻々と時が移り、部屋の中は既にうす暗くなっている。霜女が立って、灯をつけた。「マリヤどの、急ぎ多羅と万をここへ」灯の光を受けた玉子の姿は、気高いほどに凜としている。すぐに佳代が十三歳の多羅と三歳の万を連れてきた。多羅はもう垂髪にして小袖を着、背丈も高く乙女さびている。
三歳の万は玉子の白無垢姿を見、「お母ちゃま、おべべが白くてきれい。どこへおいでになるの」と、 あどけなくいぶかる。玉子は万をひしと抱きよせて、「万、そなたはかしこい童故、よくよくおきき。母さまは、天のかみさまのおそばに白いおべべを着て参ります」 僅か三歳の万に、何のことかわかる筈もない。
が、この幼さで、母の自分を失う万のこれからの一生を思うと、玉子は尚のこと、幼い魂の中に信仰を刻みつけておきたい思いに駆られた。「万も、お母ちゃまといっしょに、いきたい」小さな口を丸く開いて万は言う。玉子は思わず頬ずりをし、「天の神さまは、いま、母さまにだけ、ご用なのですよ」姉の多羅は、わっと泣いて玉子にしがみつく。
「どうして泣くの、お姉ちゃま」万はふしぎそうに多羅の肩に手をおいた。「多羅、泣いてはなりませぬ。そなたが万の母代りです。母が孤児院の子らにしたことをそなたは見ていたはずです。多羅、そなたもどうか、母の信じた天主を信ずるように。そうすれば必ずまた会えますほどに」泣きじゃくりながらも、多羅はしっかりとうなずいて、「お母さま、多羅も・・・きっと天主さまを信じます」
「多羅、よくいってくれました。人間にとって最も大切なものは命です。けれども、その命よりも、もっと大切なものが人間にはあるのですよ。それが信仰です。このことを、そなたは万に教えて下さい」「はい、お母さま。お母さまは、その命よりも大切な信仰によって、天に・・・天に・・・召されたと・・・万に・・・いって聞かせ・・・」
「よく・・・言って、くれました。多羅、その言葉、母への何よりのたむけです」すすり上げつつ、多羅は言った。玉子は多羅と万を両腕に抱いたが、既に夕闇の濃くなった外の気配に気づいて、はっと吾に返り、「ではマリヤどの。直ちに二人を教会に送り届けて下さるように」と佳代に頼んだ。
「え、わたくしに?」「そうです。子供の行く末はそなたにおねがいしたいのです」「お方さま! わたくしはお方さまにお伴させて下さりませ」涙ながらに事のなり行きを見ていた侍女たちが、膝を進めて玉子にとりすがり、「お方さま、わたくしも・・・」「わたくしにも、お伴を・・・」「お伴をおゆるし下さりませ」と口々に叫ぶ。
「なりませぬ。そなたたちの心のほどは嬉しくとも、死ぬことはなりませぬ。長い間、そなたたちには・・・まことに・・・おせわになりました。この邸を一歩も外に出ることの許されなかったわたくしにとって、そなたたちは、・・・何と・・・大事な、大事な友であり、信仰の姉妹であったことでしょう。いまここに、ありがたくありがたく、お礼を申します」
一同は声もない。涙をこらえて必死で玉子を見つめる者、肩をふるわせてひれ伏す者、誰一人玉子を離れようとしない。
「今にも石田方が攻めてくる気配、さ、急いで、おのおのの家に立ち帰り、幸せに暮して下さるように。おお、忘れるところでした。ここに用意の形見の品々、心をこめて・・・・・・贈ります」 和紙に包んだ匂い袋、ふくさ、髪かざりなどを、一人一人に手渡しはじめると、侍女たちは嗚咽して、「お方さま、わたくしどもと、わたくしどもと・・・どこぞへ・・・」「一刻も早く、お逃げ下さりませ。身をおやつしになられて・・・」
「ほんに、闇にまぎれて・・・」「お隣の宇喜多さまになりとおかくれなされませ。宇喜多さまはご親戚故、お命はお守り下さりましょう」必死に願う一人一人にうなずきながら、しかし玉子は凜然と、「なりませぬ。逃げることは」「なぜでござります。黒田長政さまの奥方も、加藤清正さまの奥方も、疾うに無事にお逃げになられましたに・・・なぜ、一人お方さまのみが・・・」
「不審はもっとものこと。そなたたちも信者故、事をよく知って頂きましょう。殿は出陣のみぎり、この家より一歩も出てはならぬと仰せられました。殿には殿のお立場があっての、この重きご一言、わたくしは妻として、命をかけて守らねばなりませぬ」「でも、それは・・・」
「いいえ、妻たる者は、夫にはキリストさまのごとく仕えよと、聖言にもござります」「わ、わかりましてござります」霜女が叫ぶように言い、「ならばお方さま、なおのこと、何卒何卒お伴をおゆるしなされて」「お伴いたしまする、わたくしも」「佳代も共に天国に参りとう・・・」佳代も必死に両手をつく。
「これはマリヤどののお言葉とも思われませぬ。わたくしの今ここに死ぬるは、天主の教えに従っての死ではありませぬか。そなたたちはいかなる信仰の故に、共に・・・共に死のうというのでしょう」「・・・ただ、お慕わしゅうて・・・」「お方さまとは離れとうござりませぬ」
「その熱い心、あだやおろそかには聞きませぬ。けれども、そなたたちは信者。マリヤどのも、みなの者もよくお聞きなさい。『すべて信仰によらぬことは罪なり』との教えを、そなたたちもよくよく知っている筈。一時の感情に委せて、天主よりあずかった貴き命を、勝手に自らの手で縮めてはなりませぬ」「は、はい」
「天主からあずかった命は天主のもの、自分のものではありませぬ」一同はただ、嗚咽するばかりだった。その時、廊下を走る音がして、小笠原少斎が現れた。 たまつくり 「申し上げまする。只今、大坂城玉造の門が開かれ、三百人近い兵が繰り出されたげにござりまする」
少斎が走り去った。一同がはっと顔を見合わす。玉子は凜として、「 さ、これで、急ぎお別れいたします。生涯信仰を持ちつづけて下さるように」誰も立ち去ろうとする者がない。ただ床に打ち伏し、声を上げて泣くばかりである。「お、お方さま!」一人が前後の見境もなく玉子にしがみつく。それまで、異様な部屋の空気に、呆然と立ちつくしていた幼い万が、誘われてワッと泣き出した。
「マリヤどの、さ、多羅と万をおねがいいたしまする。そなたには、輿入れの日から今日まで・・・共に・・・苦労を・・・。わけても、あの味土野の二年有余のお心づくし、忘れませぬ。そなたとは、姉、妹とも人にも思われ・・・信仰に導いて頂き・・・洗礼をそなたの手で・・・」さすがに言葉の途切れる玉子に、「お方さま!」と佳代は泣き伏す。
「のう、佳代どの、多羅と万を、わたくしに代って導いて下さりませぬか。おう、あの物音は・・・さ、急いで・・・」次第に大勢の喚声が近づいてくる。佳代も今はこれまでと、多羅と万の手をとり、「では、お別れいたしまする」と立ち上がる 。玉子は再び万と多羅を抱きよせ、「幸せに・・・」はらはらと涙をこぼした。
多羅はもう顔も上げ得ない。佳代は、「さ、共にお別れを」と侍女たちを励まして立たせる。侍女たちは泣く泣く一人立ち、二人去り、残ったのは霜女と加賀女の二人だった。「そなたたちも急いで・・・」「いいえ、お方さま、せめて・・・せめて」霜女が身をもむようにひれ伏す。「では、そなたたち二人は、わたくしの最後を見届けて、殿や大殿にお知らせ下さるように。
そして、これをそれぞれに渡して下さるように」 玉子は涙を払って、衿を正し、文箱から、幽斎、忠興と、息子の忠隆、忠利、興秋への遺書を手渡した。西の門がひときわ騒がしくなった。再び小笠原少斎が長刀を抱えて駈けてきた。
「奥方さま、遂に石田勢が、大挙して押しかけて参りました。お痛わしきことながら・・・お覚悟を!」平伏する少斎に、玉子は静かに言った。「長い間のそなたの忠義、かたじけなく思います。では、心静かにそなたの手にかかりましようぞ」十字を切り、瞑目する玉子の神々しさに、傍の霜女は息をのんだ。
玉子の胸の中に、坂本城、琵琶湖の水、輿入れの日の夕日、味土野のこがらし、父の死、一族の死、夫忠興の顔、わが子の顔が次々と浮かぶ。(明智の一族は、父をはじめ、母も姉も弟もみな、非業の死をとげた) と玉子は思う。そして、自分も今、子供たちをおいて三十八歳の最期を遂げようとしている。
(けれども、わたしの死は、神の恩寵によって、光栄ある死とされたのだ) 深い感謝と法悦に輝く玉子の顔を、灯火が照らしている。玉子は澄んだ目を静かに開き、「では天主のみもとに!」長い垂髪をくるくると巻き、白い首をさしのべる。一瞬、顔がさっと紅潮した。
敷居のそばまでにじりよった少斎は、部屋の外から、「憚りながら、奥方さま、御胸を!」とひれふす。玉子は、「まちがいましたか」と落ちついた声音で言い、ちらりと霜女に目をやって微笑さえ浮かべ、「では」と、白無垢の胸もとを、ぐいと開いた。
「恐れながら、奥方さま、今少しくこちらにおより下されませ。お部屋に入るはご無礼故…」「わかりました」玉子は敷居のきわまで進んで、目をつむり、「聖名の尊まれんことを、聖国の来らんことを、御心の天になるごとく地にもならんことを----」と、主の祈り(キリストの教えた祈りの言葉)を唱えはじめた。
少斎は引き下がって長刀をかまえ、「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれより御伴申しあげまする。しかしながら、 このお傍に果てるはあまりに恐れ多きこと故、われらは玄関にて御伴させて頂きまする」
「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの、頼みまする」「奥方ごめん!」閃めくと見た少斎の長刀が、一瞬のうちに玉子の胸を刺しつらぬいていた。真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した。
細川ガラシャ夫人(下巻)
● 恩寵の炎 26-4
かすかに玉子の口が動いた。玉子の目に、天使の群れに囲まれ、自分の方に手をさしのべるキリストの姿が、ありありと浮かんだ。「お方さまあ!」霜女と加賀女が思わず駆けよろうとした。「ならぬ。二人共、直ちに立ち去られい」
厳然として少斎は言い、かねて用意の白い絹布団を玉子にかけて、手を合わせた。そして、 立ち上がるや部屋に火薬をまき、ふすまや識を玉子の傍に積み上げて火を放つと、西門に駆け出して行った。霜女と加賀女は気をとりなおして炎の中を裏門より逃れ去った。
西門を守っていた鉄砲の名人稲富は、三百の兵士に恐れをなし、既に逃げ出していた。兵士たちを相手に、応対しつつ時をかせいでいた石見が、駈けよってきた少斎の長刀を、赤々と燃えるかがり火にかかげて叫んだ。「やあ、やあ、皆の衆ようく承われよ。この長刀の穂先には、わが殿のご内室玉子さまの真っ赤な血がしたたっているわ」
つづいて少斎も、「お見事な死を、汝ら腰ぬけに見せたかったわ。さすがは勇名とどろく細川忠興殿のご内室、 死すともとりこの辱めを受けなんだぞ」再び石見が、白髪頭をふるわして、声の限りに呼ばわって言う。
「残るわれらも、この門前に見事奥方さまの御伴を仕るぞ。ようく近よって、その最期を見よ!」おい言い終るや否や、少斎、石見、石見の甥六左衛門とその子、そして金津助二郎と、他の三、 四人の者が、見事に切腹して果てた。これが細川邸、忠興の留守を最後まで守った全員であった。
一同が切腹すると同時に、轟音を発して細川邸は火炎に包まれた。その夜、細川邸の燃える炎は、大坂の夜空を炎々と焦がしつづけた。玉子、洗礼名ガラシャ、実に三十八歳、慶長五年七月十七日の夜のことであった。
この悲報は、直ちに田辺城の幽斎のもとに、そして戦場の忠興のもとにもたらされた。玉子の死を聞いた忠興は、一瞬呆然自失の態であったが、地に打ち伏して号泣した。忠興の弟興元もまた、忠興にもまして吠えるように泣いて、玉子の死を悼んだ。
石田三成は、死を以て人質を拒んだ玉子の壮烈な死に驚き、他の武将の妻を人質にとることをぴたりと止めた。この玉子の死が全国を感動させ、三成への反感を高めたからである。 玉子の死は大きく徳川方の士気を鼓舞し、結束を固めさせることになった。天下分け目の関ヶ原の合戦において、徳川方を勝利に導いた一因に、実にこの玉子の死があったといわれている。
家康も玉子の死にいたく心を打たれ、自ら賞詞を与え、後々幽斎、忠興を重く用いるようになった。玉子が昇天した翌日、教会のオルガンチノ神父をはじめ、清原マリヤ、侍女たちが、焼け跡に玉子夫人の遺骨を探した。まだ、煙のぶすぶすといぶる熱い焼け跡に立つマリヤや侍女の目は、泣きはれていた。
一物も残さず焼けた家の廻りには、焼けただれた塀と、立木があるばかりである。焼け残った木に、蟬がとぎれとぎれに鳴くのも、玉子を惜しんでいるように思われて、侍女たちはまたしても泣けてくる。このあたりと思われる熱い灰の中に、玉子の白い骨があった。
「こんなになられて・・・」泣きくずれる一人に、オルガンチノ師が言った。「夫人は神のみもとに居られます。平安に・・・」黙々と骨がめに拾い終って帰ろうとした時、侍女の一人が言った。「おや、ここにも・・・お骨が・・・」三間程離れた裏手のほうに、骨があった。
玉子の骨とちがって、太い骨だ。骨の傍に、僅かに焼け残った笛がころがっていた。笛に気づいたマリヤは、はっと胸をつかれたが、初之助の名は言わなかった。初之助は修士の筈である。最後まで玉子を見守るようにと光秀に言われていたにせよ、信者に殉死は許されぬことであった。
「どなたか、家士の方でしょう」この骨も侍女たちは拾った。玉子の遺骨は、殉死した河喜多石見や、小笠原少斎、初之助たちと共に、大坂の崇禅寺の境内に手厚く埋葬された。忠興は、関ヶ原の合戦ののち、細川邸の焼けあとに一夜玉子を偲んで立ちつくし、幾度か激しく慟哭した。そしてオルガンチノ師に相談し、その年十月盛大なるキリスト教式の葬式を行った。
当日、関西にある神父、修士は無論のこと、高山右近、黒田父子など、キリシタン大名そしてその夫人たち、玉子の死に感動した多数の信者など、実に千人を越える参会者が堂に溢れた。この時、日本の教士が立って、会衆に向って説教した。「ご一同と共に、今ここに細川越中守忠興殿の奥方、故玉子夫人を偲んで、ひと時を過したく存じまする。
玉子夫人の死は、天下の人々の衿を正さしめたことは、御存じの通りでありまする。玉子夫人の死は、単なる死ではありませぬ。それは忠実に天地の主なる神に従って生きたる途上での、神への忠実なる死でござりました。平生の生き方が、その最後にも、おのずから現れるのでありまする。玉子夫人は、洗礼名をガラシャと申し上げた。これは神の恩寵、み恵みということでありまする。
玉子夫人はこの名を、ことのほか喜んで居られ、平生、すべてはみ恵みであると仰せられて居りましたと伺って居りまする。さて、この度、御夫君越中守殿がご出陣のみぎり、いかなることがあっても、一歩も屋敷を出ては相ならぬと申されました。他の大名のご夫人の中には、いち早くその邸を逃れ出られた方もあるやに伺って居りまするが、玉子夫人は、このご夫君のお言葉を死をもって守られたのでありまする。
もとよりその言葉が、いかなる重大な意味を持つかを、聡明なる夫人は知っていたからであります。が、命をもって守ったのは、実に夫人の信仰によるのでありまする」ここまで教士が言った時、忠興は人目も忘れて、「ううっ」と、うめきとも、号泣ともつかぬ声をもらした。
忠興は、自分に嫁いで四年後に、その父母姉弟を一挙に失った玉子の淋しさを思った。味土野の奥に玉子を送り出した夜を思った。その一年半、一度も見舞わなかった自分の非情さと、玉子の侘びしさを思った。ようやく味土野から帰った玉子に、側室おりょうを引き合わせた自分の無情さが悔やまれた。わけても、キリシタンとなった玉子を迫害して、侍女たちの鼻や耳を斬ったことが恥ずかしかった。
何もかも耐え忍んで、なお自分に熱い愛を注いでくれた玉子を思った。もう、あの澄んだまなざしも、豊かな胸もこの世にはない。(死なせずにすむ道はなかったか) 忠興はそのことを思って、心が刺された。(結局は、わしがお玉を、殺したのだ) 他の大名たちは一人も妻を失ってはいない。(味土野から帰って十何年、なぜ一歩も外に出してやらなかったのか) 自分の無情さがやりきれない。
(お玉、そちが余りに美しすぎたからだ) 忠興は、玉子が人目に触れることを極度に恐れていたのだ。玉子を見て心を動かさぬ男は一人もいないと信じていたのだ。人質になることを極度に恐れた一因に、そのこともあった。ひそかに逃げ出させても、どこかで石田方に捕らえられぬという保証は、全くなかった。
捕らえられて、他の男の餌食になるよりは、むしろ死んでほしかった。取り返しのつかぬ悲しみの中で、しかし忠興は、一方一抹の安らかさをも覚えていた。(とうとう、お玉は、わし一人のものであった) 秀吉をすら、懐剣によって斥けた玉子を思うと、忠興は嗚咽しながらも、深い安堵があっあんどた。
結婚以来、狂気じみた玉子への執着に終始していた忠興だった。愛する玉子を失って、はじめて安らぎが来た。それは愚かなことかも知れない。が、あまりにも玉子が美しく聡明であったからだと忠興は思いながら、再び教士の言葉に耳を傾けた。
「・・・夫人は、死の直前まで、天主を信ずることをすすめて居られました。即ち、夫人の残された方々への願いは、天主を信じ、真の平安、真の望み、真の幸せに至ることであったのでありまする」教士の話は終った。感動にすすり泣く声が会堂に満ちていた。美しく晴れた秋の日の午後であった。
細川ガラシャ夫人
● 終りに
この「細川ガラシャ夫人」は、昭和四十八年一月から昭和五十年五月まで、二年五カ月に官って「主婦の友」に連載されたものであり、わたしとしては、初めての歴史小説である。当初一人では取材も資料調べも、全く見当がつかなかった。が、いろいろな人から、資料が送られたり、編集の藤田敬治氏や、渡辺節氏、カメラの武井武彦氏に助けられて資料も整い、 取材も出来た。また、ガラシャゆかりの寺院や教会、郷土史家や学者の方々の大きなご協力もありがたかった。
連載中毎月、中村貞以先生の素晴らしいさし絵にはげまされ、ひきだされたことも感謝であった。また単行本として刊行されるに際しては堀文子先生の情感豊かな装丁をいただいたことも心から嬉しく思う。書き終えて、わたしは改めて今、ガラシャ夫人の死を、生を、実に重たく感じている。いや、ガラシャ夫人のみならず、どの人の生も死も、それは誰かが言ったように、 「この地球よりも重い」ものなのだ。どの時代にあっても、人間が人間として生きることはむずかしい。
人形のように生きるのではなく、猫か犬のように生きるのでもなく、真に人間として生きるということは、実に大変なことなのだ。恵泉女学院の創始者河井道先生は、人は一人で食事をする時も、決して、つくだにや漬物だけでそそくさと食べてはならないと、戒められたという。夫や家族のいる人と同様に、ちゃんと心をこめて料理をつくり、食卓にきちんと並べて食事をするようにと、教えられたという。これは、人間が人間らしく生きるために、決しておろそかにはできない大事な点なのだ。
人間らしさは、いろいろな所から崩れ去る。一人の生活の中で、だらしなく生きると、たちまち人間性が崩れて行く。一人でいても、きちんとした生活を保つ人は、それは真に人間として生きる人と言えるだろう。今の時代のように、女性にも選挙権が与えられ、権利もほとんど男性と同じように認められる時代になっても、少し油断をすると、人間らしさは崩れていく。まして、四百年前、女性は男性の所有物であり、政略の具であった時代に、女性が人間らしく生きるということは、極めてむずかしいことであったと、想像される。
そうした時代に、 霊性に目ざめ、信仰に生きたガラシャの生き方は、わたしの心を深く打つ。この小説を書きながら、わたしは自分が人間として生きることの大変さを改めて考えさせられたことであった。 余談だが、隣家に逃げた千世は、玉子を捨てて逃げたという魔で、忠興の怒りにふれ、離縁となった。夫の忠隆は、一足先に行くようにと玉子に言われた千世を、後から玉子も来ると思って逃げたのだとかばい、これまた忠興の激怒を買った。そして忠隆は、廃嫡にさえなってしまった。また、忠興の弟興元は、玉子を横恋慕したということで、
養子にした興秋を取り戻されている。かと思うと、葬儀の際、忠興は教会に金子二百両を捧げ、その夜は盛大な追悼の宴をひらいている。 更に、このキリスト教の葬儀を、領地小倉においても行っている。忠興の生来の激しい性格は、玉子の死後にも、このような様々な形で現れたのであろう。そしてそれらはすべて、玉子への愛惜の念から、あるいは自責の念から出ているようにわたしには思われる。
忠興は玉子の死後、四十五年生きて八十三で死んだ。三代の将軍に仕え、将軍を叱りつけるほどの重臣にもなった。このように細川家を不動の地位にしたのは、むろん忠興の器量にもよるであろうが、玉子の死に大きくあずかっていたことは否めないと思う。 恐らく忠興は、八十三で死ぬその日まで、ありし日の玉子の姿を思い、その最期を思っていたことであろう。玉子の死後、妻は迎えてはいない。
逆臣光秀の娘という恥を見事に雪ぎ、立派な最期を遂げた玉子のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの「緋文字」の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を、 終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによって、その緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う。 顧みて、自分の信仰の貧しさを思いつつペンを擱く。
● 参考文献
「日本の歴史」戦国大名. 杉山博. 中央公論社
「日本の歴史」天下一統. 林屋辰三郎. 中央公論社
「日本の歴史」江戸開府. 辻達也 中央公論社
「日本の歴史」年表地図. 児玉幸男編. 中央公論社
細川幽斎. 細川護貞. 求龍堂
明智光秀. 高柳光寿. 吉川弘文館.
日本武将列伝. 桑田忠親. 秋田書店
高山右近. 海老沢有道. 吉川弘文館
伽羅奢細川玉子夫人. 宮島真一. 中央出版社
丹後の宮津. 岩崎英精編.
細川忠興夫人. 大井蒼悟. 武宮出版部
禅仏教(稲葉裏編「禅と学生」より)
朱なる十字架. 永井路子. 文藝春秋
細川ガラシャ. 小山寛二. 新風社
細川幽斎. 川田順 甲文社
.細川ガラシャ夫人. H・ホイウェルス. カトリック. 中央書院
細川ガラシャ夫人. 満江巌. 刀江書院
細川家家系図. 大徳寺高桐院蔵
公教要理
「日本古典全書」吉利支丹文学集. 朝日新聞
「歴史読本」昭和四十一年十一月特別号
「歴史読本」昭和四十七年十二月号
「歴史読本」昭和四十八年二月号
新名将言行録. 松本清張ほか. 河出書房新社
日本食生活史. 渡辺実. 吉川弘文館
日本女性史. 山本藤枝・和歌森太郎. 集英社
「富山昌徳遺稿集」日本史のなかの佛教と景教. 東大出版会
日本城廓事典. 大類伸. 秋田書店
● 解説. 水谷昭夫 1968
「細川ガラシャ夫人』は昭和四十八年一月号から同五十年五月号まで、雑誌「主婦の友」に連載された。二十九回九百枚におよぶ長篇である。『氷点』からほぼ十年の歳月が流れている。 この十年の間に、三浦綾子氏は『ひつじが丘』『道ありき』『続氷点』をはじめとする十五篇の長篇小説を書く。他に二冊の中短篇小説集、それにエッセイ集を出版上梓するが、いずれも初期三浦文芸を代表する作品であり、伝説的な『氷点』ブームをしのぐ読者の支持を獲得していた。
まるで奔流のようにほとばしり出た十年であった。このあとに『天北原野』にはじまる新しい時代が続く。『細川ガラシャ夫人』はちょうどこの十年のかなめのところに位置していた。主題や構想や作品の形式において、いつも新しい可能性を追いつづけて来た著者が、ここでまた、全く新しい領域をうち立てようとしていた。「終りに」で言う。
わたしとしては、初めての歴史小説である。おそらく著者には、十年の集約というより、『天北原野』にはじまる新しい時代を切りひらこうという意識の方が強かったであろう。詳細に資料を調べる。現地へ足をはこぶ。いままでの作品にも、基本的にはこころみられて来たものだが、『細川ガラシャ夫人』で、はっきりと確立する。以来、この態度は、三浦文芸に一貫するものとなるのである。ただ三浦綾子氏の「調べる」は、一風かわったところがあった。『泥流地帯』の取材の時、 幾度も涙を流したというが、彼女の「調べる」には、そのような対象への熱い思いがあった。 それは、彼女の苦悩に充ちた生涯に根ざしている。
彼女の苛酷な闘病生活については、ここで繰り返すまでもないであろう。十年に及ぶ重症の詳椎カリエスを病んで、迫り来る死とむきあいながら身動きもならなかった。自分でトイレの用を足したいという望みを抱きつつ、出来ることは、耐えがたい寂寥感をただ一つのくらやみ灯りにして魂の深い暗闇のなかへ自らを沈めてゆくことだけであった。
ただわずかに手が動かせたので、仰臥したまま窓外の景色を、手鏡にうつして見られた。 つまり、深い精神の静謐へ思いを沈めてゆくことと、憧れと驚きの交錯する外界へうぶな好奇心をはばたかせる。この二つの矛盾した心の、悲哀に充ちた均衡の上に、三浦綾子氏の文芸はきずかれる。ひきさかれつつ魂を飛翔させる。読者がしばしば、作中生彩ある光景のなかに、ふと寡黙な魂の告白を見出すのはこのためである。
ところでこの『細川ガラシャ夫人』を語る上で、どうしても触れておかねばならぬのが 『塩狩峠』である。いろいろな意味で『細川ガラシャ夫人』の先駆をなすこの作品では、主人公永野信夫、そのモデルとなった長野政雄は自分の生涯を語る伝記的資料、たとえば日記、 書簡等一切を、この地上にとどめることを拒絶して、凄絶な死を遂げる。同じように、明治期はじめて「小公子」「小公女』などを翻訳した若松賤子も、「キリストの賤しき下僕」のほか、 一切無用だと言い遺しているが、永野信夫はさらに痛切であった。
乗客の生命を救うため、 自分の身命を暴走する列車へ投じて果てた。彼の生涯に残されている確かなことはそれだけしかなかった。解釈は出来る。しかし三浦綾子氏は解釈ではなく、彼の存在そのものを追っヒロインほのおた。そしていま、この『細川ガラシャ夫人』の女主人公も、燃えしきる熔のなかでその生涯を終える。資料や手がかりが山積するかに見えるガラシャであるが、その生涯の肝心は、 『塩狩峠』の主人公とかわらない。著者はそれを追う。人はおのれの自己実現のために動く。もっとわかりやすく言えば、利害損得で動く。フロイトの「快不快原則」をつきつめると、こういうことになるだろう。歴史も同じである。
しかし細川ガラシャ夫人の生涯の肝心は、これでは説明がつきかねる。おそらく史家の合理的有効性の原理から見れば、おかしな生涯ということになるだろう。聖書はこのような人間を「狂えるものの如く」という。利害損得によらぬ、人間のもっとも人間らしい情熱が、 しばしば歴史にあらわれる姿形だと言える。著者はいつもそれを追いもとめる。『細川ガラシャ夫人」はこのとき、「総て功利の念を以て物を視候はば世の中に尊き物は」なくなると言った、鷗外歴史小説の正統な継承者となっている。
三浦綾子氏はつまり、父明智光秀の最後もガラシャの最後も、同じ、この人間の不条理な情熱の成り行きだと言うのである。この情熱にみちびかれて、「歴史」の利害を越えた、より大いなる幻を見たものの姿を描く。作品はまずガラシャの父光秀が、当時築城砲術の第一人者にして、茶道、和歌、俳諧から花にも長じた、第一級の教養人であることから語りはじめる。戦乱相つぐ時代のなかで、人間が人間らしく生きられるか。また生きたらどうなるか。それをこの光秀の生涯を通して、 はっきりと示すのである。
光秀婚姻の次第は、彼の人間らしい情熱を語るのにふさわしい。輿入直前になって、突然疱瘡をわずらう妻木範窯の娘熈子。美貌は一瞬にしてうしなわれる。範煕は、明智家との良縁がこわれるのをおそれ、醜くなった娘凞子の身代りに妹娘をすりかえようとする。しかし、事情を知った光秀は、むしろ進んで、醜女となった熈子をむかえいれる。人間の美醜は外見によらぬという、著者のゆるぎない思いが語られる箇所である。 光秀は言う。「お前は私の分身」である。
そなたが病んだことは、即ちわたしが病んだことなのだ。そなたに疱瘡のあとができたことは、即ちわたしの体にできたも同然のこと。決して恥ずることはないぞ。 ちよくせつな 「愛」の光輝を、著者はこのように直截に語る。人を語るときも、歴史を語るときもかわることはない。近代以来の白けたシニシズムに馴らされた目には、いささか眩しい光景であろう。しかしそれだからこそ、苦しみに耐えながら、せい一ぱいに生きようと努めている人々の心に、一そう素直にうけとめられてゆくこととなるのである。
ガラシャが光秀叛乱のあおりをくって、味土野の深山に幽閉される。著者はここでも、直截に空しい虚無観を語る。絶望した彼女のうちに、H・ホイウェルスは、感傷的無常感とは異なった、わが国最初の 「ストア哲学」のニヒリズムを指摘する。三浦綾子氏はこの徹底した虚無観を見事に描く。「死の床」にあった経験があって、はじめて可能となったものであろう。厳寒峻烈な静寂のなかでみつめつづけていた寂寥を、著者はガラシャ夫人の味土野の静寂に見出す。三浦綾子氏は闘病生活の中で『伝道の書』を知った。
すさまじいことばと出会って愕然となった。おなじように、三浦綾子氏の描くガラシャ夫人も、味土野幽閉の静寂のなかで不思議なことばを知る。彼女に従っていた佳代が語る。 「・・・もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵とお思い遊ばすことができますように・・・」この苦難を去らせ給えというのではない。この苦難をよろこび、感謝します、という祈りである。三浦綾子氏は、あの激しい「死の床」に耐えていたときも、神よ、病を癒したまえとは祈らなかったと言う。彼女が信仰告白をしたとき、彼女のそばにいた西村久蔵が「神よ、この下僕をあなたのご用に役立たせたまえ」と祈った。
彼女が心から敬愛する西村久蔵のこの祈りは、以来彼女の心の深奥にひびいていった。後年窟を病んだ彼女が『北国日記』のなかで、神が与え給うものに悪いものがあろうか。私は癌をあたえられ、その恵みに感謝すると静かに言う。この驚くべき祈りは、あの「死の床」で祈った祈りから、一すじに流れてくるものである。それが『細川ガラシャ夫人』の主題となって、鮮明に示されているのである。
さてはじめ夫人は、佳代の祈りを聞いて、デウスの神もみ仏も私は信じないと冷然と告げる。しかし、心は、深くゆり動かされている。やがてそう言った彼女が「天主よ。ねがわくは、殉教者の栄冠と幸を吾らに与え給え」と祈る人びとの群れのなかへ身を投じて行くこととなる。人間の命運を開き歴史を変える。この不条理な劇がこのようにして繰りひろげられる。三浦綾子氏の「歴史小説」はそう告げようとする。
このようなガラシャ夫人の生涯が、天下人となって、この地上の栄耀栄華をきわめた太閤秀吉の、「露とおち露と消へにしわが身かな 浪華の事もゆめのまた夢」と詠んだ名高い辞世の歌と、あざやかに対峙している。ガラシャ夫人はうたう。ㅡ 散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ ㅡ いかなる戦国武将英雄の栄光より、光輝ある豊かさである。いうまでもなく、ここでいう 「ときを知る」は、三浦綾子氏を信仰にみちびいた「伝道の書」の季節である。「天が下のすべての事には季節が」あるという。それがこのガラシャ夫人の生涯に重ねられていることに気附かれるべきであろう。
ㅡ 生るるに時があり、死ぬるに時があり、(中略) 愛するに時があり、憎むに時があり、ㅡ と、この美しいことばは続いてゆく。その時を知ることが、一輪の花ですら、栄華をきわめたソロモンよりも美しいように、人もまた人間らしいのだと細川ガラシャ夫人に告げさせるのである。
森田草平が、浮き名を流した恋愛事件の相手・平塚雷鳥を「新しい女」として描いた『煤烟」は、その雷鳥をひそかに細川ガラシャ夫人に擬した作品であろう。また芥川龍之介は、岩壁麗美な美術品のような細川ガラシャを『糸女覚え書』で書いた。C・S・ルイスは、第一次世界大戦後のすべての思想・運動に共通するのは、人間らしい、ある永遠なるものへの憧憬の感情を否定することであったと言う。
三浦綾子氏が描いたガラシャは、ただ「新しい女性」にとどまらぬ、永遠なるものへの憧憬の感情を豊かに生きた、人間らしい女性である。 読者はだから、焰の中にきえた彼女の生涯を、美術品のように鑑賞賞美するにとどまらず、 尽きせぬ愛情の思いと、「今の時代を生きる自分の問題」を痛切に思いながら、この作品を読みおえることとなるであろう。 なおこの作品の資料収集のうら話は、同じ著者のエッセイ『初めての歴史小説あれこれ』 (作品集十八に所収)に詳しい。
(昭和六十一年二月、関西学院大学教授)
