+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第32水曜日です。
慈しみ深い主・イエス・キリストとダビデの力に勝る聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。>
17・11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17・11-19)
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チョン・サンヨン神父様の「今日の黙想」です。
ある日、私は本を読んでいて、ある医者の書いた文章を見つけました。長い間、人を治療する医者として忙しく生活していましたが、ある日、彼自身に癌ができていることを発見しました。不幸にも、遅く発見されたため治療は容易ではありませんでした。しかし、この医者はむしろ感謝の気持ちを持つことができたと言っています。
「ほとんどの人は自分がどう死ぬのかわからないのに、私は死の原因を知ったのです。そのような幸運がどこにありますか?」
死を目前にしてこのような考えを持つことは、簡単ではないでしょう。しかしこの医者は、死を人生の断絶と捉えず、別の世界に移る過程の一つとして考えていました。この世の生活に対して名残惜しい思いはもちろんありますが、未来を確信しているため、そんなに絶望的にはならなかったのです。
私たちの信仰も同じではないでしょうか?主はこの世の生活が最後だとは言われませんでした。神の国の中での永遠の命を約束され、そのために悔い改める生活を送るよう命じられました。したがって、どんな瞬間でも希望を見つめることができなければなりません。良いことがないと言うことは、希望を見ていないからです。希望を持つ人は、良いこと、ポジティブなことに目を向けながら、今の生活に感謝するのです。
今日の福音には、重い皮膚病を患った人々が登場します。旧約の律法に従い、重い皮膚病を持つ人々は大きな町の中には入れず、特にエルサレムの神殿には近づくこともできませんでした。このように他の人との接触が禁じられていた重い皮膚病患者たちは、イエス様を見て遠くから声を張り上げるしかありませんでした。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」(ルカ17・13)
重い皮膚病は実際の癒しが必要でしたが、癒された後に律法的な手続きを経て法的に癒しを認められることが重要でした。だからイエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と勧められたのです。彼らはその言葉を聞き、途中で自分たちが清くなったことに気づきました。しかし、その中の一人だけがイエス様のもとに戻り、ひれ伏して感謝を捧げました。
この人は異邦人で、サマリア人でした。他の9人はユダヤ人でした。誰かの前にひれ伏すということは、礼拝を意味します。異邦人は神を礼拝しましたが、神への礼拝を民族性として誇っていたユダヤ人たちは、癒されたことを知ると、別のところに行ってしまったのです。果たして彼らはどこへ行ったのでしょうか?
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という御言葉は、感謝することができる人だけが聞くことのできる救いの言葉です。
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永遠の命を持っていることを知っている私たちは幸いです。この信仰と希望をしっかり持って、愛の生活を惜しみなく広げることができますように!聖霊、来てください。