+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第33水曜日です。
慈しみ深い主・イエス・キリストと明けの星聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。>
ルカによる福音
そのとき、イエスは19・11一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(ルカ19・11-28)
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チョン・サンヨン神父様の黙想文「真の礼拝」です。
昔からソウルの中央省のすぐ裏に「孝子町」と呼ばれる小さな村がありました。この村に「孝子」との名前がついた由来には、悲しい物語が隠されています。
ある日、年老いたおじいさんが孫の寝ている間に、うっかりその上に布団をかけてしまいました。すると、何と孫は布団の下で窒息してしまったのです。おじいさんは自分の布団を整えようとしただけで、まさかそんな悲劇が起こるとは思いもしませんでした。
子どもの死を知ったお母さんは衝撃を受けました。けれども、おじいさんがこの事実を知れば心を痛めることを心配して、ひっそりと外へ出て夫に全てを話しました。すると夫は息子の死を見て、「なんて不孝な子だ、どうしてそこで寝たのか、祖父を悲しませてしまうなんて!」と怒りながら子供の頬を強く殴りました。
彼がそうしていると、驚くことに息子は目をぱっちり開いて生き返ったのです。この噂は村中に広まり、ついには王様の耳にも届きました。王様は、子を失った悲しみよりも父親のことを心配したこの息子の孝行を称賛し、大きな褒美を与えました。そして、彼の住む村に「孝子町」と名付け、村人たちにも彼の孝行を手本にするように促しました。
物質的な世話よりも、大切なのは親の心を楽しく、嬉しくしてあげることだと言われていました。孝行とはしてもしなくても良いものではなく、育ててくれた親に対する当然の義務です。
私たちも、この世に存在させ、私たちを救ってくださった神様に感謝の礼拝を捧げるのが自然なことです。だからミサ、特に聖体礼拝を「感謝」という意味の「エウカリスティア」と呼ぶのです。礼拝は神様の心を喜ばせる最も大切な目的があり、神様は感謝する心を持つ私たちをさらに愛してくださいます。
しかし、私たちは本当に主の救いに感謝し、讃美しているでしょうか?今日の第一朗読の使徒ヨハネは天で主を讃美している者たちの幻を見ました。天にいるすべての者たちは昼夜を問わず「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫んでいます。私たちも力を尽くして主を讃美しなければなりません。そして四つの生き物(獅子、若い雄牛、人間、鷲)は、自分たちの金の冠を神の玉座の前に投げ出し、ひざまずいて主を讃美します。
金の冠を投げることは、何を意味するでしょうか?金は貴重な金属で、特に「王」を象徴します。また、金の冠は王の威厳を示しています。神の前に立つと、その王冠を捨てざるを得ないのです。これは自分を捨てる従順の印です。
そうです。従順こそが、神を喜ばせるもっとも重要なことです。善いサマリア人のたとえ話では、神殿で礼拝をしている祭司やレビ人が、病人を見捨てて礼拝に行きました。しかし、サマリア人は神殿の礼拝には行かなかったけれども、死にかけている隣人を助けたため、神様を最も喜ばせた人なのです。
礼拝は、まさに隣人愛の実践が前提でなければなりません。自己中心的な気持ちで礼拝に参加しても、神様はそのような礼拝を喜ばれることはありません。
マザーテレサは、道端で倒れている人を抱きしめ、食べ物を与えていました。人々はその光景を見てマザーテレサを称賛しました。しかし、マザーテレサは、「私は何も褒められるべきではない」と言い、自分がしていることについてこう語ったそうです。
「私は今、主に礼拝しています。」
神への礼拝は、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛することです。そのように隣人愛の掟に従って生きることで、神様は私たちの礼拝を喜んで受け取ってくださるでしょう。
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隣人愛の実践で真の礼拝をし、十ムナをお返しすることができますように!聖霊、来てください。