+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第34金曜日です。
王である主・イエス・キリストと預言者の元后(きさき)聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。>
そのとき、イエスは弟子たちに21・29たとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ21・29-33)
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毎日のミサの「今日の黙想」です。
イスラエルの人々は、彼らに馴染みのあるいちじくの木に柔らかい葉が芽生えるのを見て、果実が熟す夏がすぐ近くに来ていることを簡単に気づきます。イエス様は、誰もが知っているこの現象をたとえにして、いくつかのしるしによって神の国の時が満ちたことを教えます。
「死」は私たちに他の何にも比べることのできない決定的な出来事です。私たちは自分の死を決して「前もって」経験することはできません。しかし、それがやってくるという確かなしるしを私たちは見ることができます。まだ起こっていないが確実なこの決定的な出来事は、私たちの日常生活の中で無心に流れながら終末論的な次元を示します。
「私は死ぬ」という新たな自覚が、人生の異なる次元を受け入れることを示すか、単に死を「一般的な事実」として認めつつも「自分の死」という真理から目を背けることもあるかもしれません。
ドイツの哲学者ハイデガーは、彼の記念碑的な著書『存在と時間』の中で、人間は「死に向かう存在」であると言い、表面的で空虚な人生ではなく、意味のある人生を送るためには「自分の死」を真剣に受け入れる姿勢が求められると述べています。死を単に「人間の一部」として受け入れるのではなく、個別で固有な自分の存在を「唯一無二な形で自ら引き受ける」決断を導くきっかけにしなければならないと言います。このような死に対する態度は、人生の深さを増してくれます。
ハイデガーの哲学をキリスト教的に深く受け入れ、深遠な「死の神学」を試みたボロスは、キリスト教徒にとって、死は「本来の自分を獲得する出来事の性質を持つ」とこう述べています。「結局、死の中で人間は最終的な成熟に達します。死の瞬間、人間はすべてを知り、何の妨げもなく、最終的な決断を自由に下すことができる状態になります。この決断の中で彼の人生は最も明確な状態でキリストに出会います。」
イエス様は御言葉が永遠であるとおっしゃいました。その御言葉を一言で表現するなら「愛」です。私たちが日常生活の中で喜んで愛を実践しながら生きるとき、死の瞬間には、空しさではなく、愛そのものである「御言葉」と決定的に出会うことになるでしょう。
それが、私たちが渇望していた「本来的な存在」をついに完全に得る瞬間であると言えるでしょう。
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毎日の愛の実践を通して良い死を迎えることができますように!聖霊、来てください。