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毎日新聞 2023/9/16 東京朝刊 有料記事 1889文字
8月15日を過ぎると、12月8日まで、戦争をめぐる記憶は後景に退く。両日と同等以上に想起すべきは9月18日である。1931(昭和6)年のこの日夜、中国東北部の奉天(現在の遼寧省瀋陽市)近郊の柳条湖において、南満州鉄道が爆破された。日本の現地軍(関東軍)の謀略による満州事変の勃発である。
戦後日本の外交史研究は、早くから対米開戦の回避可能性とともに、満州事変の原因を探索し続けている。満州事変が起きなければ、あるいは起きても不拡大方針を貫ければ、日中戦争は起きず、そうなれば41年12月8日の真珠湾攻撃もなかったことになる。
満州事変は近代日本における重要な歴史の分岐点である。この分岐点における時代の状況を再現することで、満州事変の歴史から学ぶべきことを考える。
満州事変が起きる2カ月ほど前のことである。閣議後、立憲民政党の若槻礼次郎首相は、小磯国昭陸軍軍務局長を呼び出した。若槻は小磯に陸軍の軍事戦略の説明を求めた。小磯はソ連が5カ年計画に900億ルーブルの膨大な予算を計上して、軍拡を進めていると強調した。井上準之助蔵相は、ソ連の現状でこれほど巨額の財源をどこから調達できるのかと質問した。小磯は「それはわかりません」と答えた。
小磯はソ連の5カ年計画の間の防衛費をソ連13億円、日本1億円と統計図で示した。説明後、幣原喜重郎外相が質問した。「この円単位は、いかなるスタンダードから割り出したのか」。小磯はこの問いにも答えられなかった。小磯の説明は他の閣僚に不信な感じを与え、意図と異なる結果になった。
小磯のずさんな説明にはあきれるばかりである。仮想敵国ソ連に対する陸軍の軍拡を正当化するためならば、ソ連の国家予算の推計値もルーブルと円の交換比率もでたらめでかまわなかった。軍事機密情報に通じているはずの軍部のインテリジェンスの程度が知れるエピソードである。
対する井上と幣原の態度はどうか。井上(緊縮財政派)と幣原(協調外交派)は若槻内閣を支えて、前年のロンドン海軍軍縮条約の締結を導いた。井上と幣原の強い態度の背景にあったのは、戦前昭和のデモクラシーと協調外交の高まりだった。
それにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ満州事変は起きる。デモクラシーと協調外交の厚い壁を突破するには非合法手段に出る以外になかった。関東軍の謀略が「外からのクーデター」と呼ばれる所以(ゆえん)である。柳条湖事件の翌日、19日の午前、若槻内閣は不拡大を閣議決定する。ところが21日になると、今度は朝鮮半島の日本の現地軍(朝鮮軍)が独断で越境する。不拡大方針は反故(ほご)にされる。
「外からのクーデター」を政党政治によるデモクラシーへの挑戦と受け止めた立憲民政党と立憲政友会の2大政党は、協力(連立)内閣構想で対抗する。この構想が浮上すると、現地軍は拡大にブレーキをかけるようになった。
ブレーキがかかったならば、単独内閣で乗り切る。幣原と井上の決意は固かった。彼らは協力内閣構想に反対した。国内での政治的な足並みの乱れに乗じて、現地軍は再び事変を拡大する。「外からのクーデター」は成功する。井上はテロの凶弾に倒れる。幣原はその後しばらく、生死も不明になるほど政治の表舞台から去る。
何を間違えたのか。第一次大戦後の「平和とデモクラシー」の潮流は、軍人蔑視の感情を生んだ。敗戦後、幣原は述懐する。「軍の人に対しては非常に神経を刺激して、不穏の情勢はそこの所に醸成されて居(お)ると私は其(そ)の時に思って居ったのであります」。幣原は反省する。「我々が財政緊縮を主にして、不必要に色々な方面の反感を惹(ひ)き起したと云(い)うことも、実は私等の責任のように考えて」いる。満州事変とは「平和とデモクラシー」の社会状況に対する「外からのクーデター」だった。
以上の満州事変の歴史は、軍事・安全保障問題をめぐる常識の回復を促す。井上と幣原が小磯をやり込めている様子は、ほめられたものではない。他方で軍事・安全保障問題のエキスパートに政策を委ねるのでは思考停止である。
ロシアによるウクライナ侵攻が続くなかで、「台湾有事」の可能性は高くなるのか否か。北朝鮮のミサイル実験の意図は何か。不安定化する軍事・安全保障環境において、日本はどの程度の防衛力整備を行うべきか。私たちの常識が試されている。
常識を政策に反映させる経路は政党政治である。軍事・安全保障政策の基本方針は、政党の立場の違いを超えて、共有されなければならない。協力内閣構想をめぐる歴史の教訓は重い。(学習院大教授、第3土曜日掲載)