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毎日新聞 2023/9/23 東京朝刊 有料記事 1022文字
<do-ki>
映画作家のジャンリュック・ゴダールが昨年9月、スイスでは合法な自殺ほう助で亡くなった時、三島由紀夫を連想した。共に人生と作品が一体化し、創作活動の延長のように生涯を終えた。色つきメガネの男が、透かし見ていたフィルムにパチンとはさみを入れる。そんな姿が思い浮かんだ。
ゴダール映画は難解だと敬遠される。時間も物語もバラバラに切り刻み、順序を入れ替えてつなぎ合わせ、それどころか音やせりふまで途切れたり重ねたりしているのだから、娯楽と油断している人が面食らうのは当然だ。
でも、決めつけを拭った目で向き合えば、自分は何を見たんだ、映画を見るとはどういうことだ、そもそも映画って何だ、そんな問いが渦巻き、とんでもないものを見たという興奮を味わえます。
小難しいことはどうでもいい? そうはいかない。現代文明がどれほど映像に侵食されているか。一日の生活でテレビ、パソコン、スマホ、ゲーム機、各種モニターの画面に見入っている時間の長さは、考えたら怖いくらいだ。
映画の発明から120年余。この間、人類の知覚や認識方法が変質したのは間違いない。20世紀は「映像の世紀」とも呼ばれる。
では、映像とは何か。答えの出るはずのない永遠の問いを、次々に新しい映画を作り続けることで突き詰めたのがゴダールだ。
91歳の生涯をたどるドキュメンタリー映画「ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家」が昨日公開された。映画を絵画・文学・音楽・演劇と並ぶ「芸術」へと革新し続けた作家のあくなき挑戦は、どうして可能だったか。一つの解釈にすぎないが、試写会では上映後に拍手が湧いた。
1968年、フランスで起きた学生・労働者による五月革命。すでに世界的に有名だった作家は、政治に開眼し、商業映画を捨てて毛沢東主義や世界同時革命の急進的政治運動へのめり込む。
活動家の大半が若気の至りと転向し、ゴダールも商業映画に復帰。多くの伝記がこの時代を、世間知らずの天才が道に迷った「黒歴史」(汚点)と片付ける。
だが振り返ると、長い作家人生は最後まで政治への問いを手放していない。ゴダールの「政治」とは、家庭・労働・性・子供・メディア・歴史・植民地主義・地球……。まさに21世紀的だ。
87歳で作った最後の長編「イメージの本」では、作家本人がナレーションで、戦争と暴力と不寛容の絶えない世界を告発する。政治的関心を失うなんてできるのか。そう問いかける。(専門編集委員)