原理原本 - 第一券
[04] 霊人世界と実体人世界との相対性創造原理
1 神様は、ご自身の性質を陽性と陰性に分けられ、男性と女性を創造された。そのため、男性と女性は相対的でありながら、それぞれ性質が異なるのであり、また、完全な授受作用ができるようになっているのである。それゆえ、人には、神様の形態が映し出されている。
2 つまり、神様の形態の各部分が、それに相対する肉身の各部分に作用しているため、人の中に、神様の性質を見出すことができるのである。このように、神様は、ご自身の性質を分けて創造された。天宙全体は、こうして構成されたのであり、本来、人は、全宇宙の中心的存在なのである。
3 人が、肉身を維持するためには、心臓、胃、肺などが、十分に授受作用をしながら、均衡を保たなければならない。心臓は、血液を静脈から受け、動脈に送っている。
4 胃は、食物から摂取した栄養素を血液に供給している。肺は、空気を吸い込み、吐き出している。こうして、肉身が維持できるように、外部には、摂取することのできる万物、及び、空気や光が存在しているのである。
5 このような外部の存在は、それらが創造される前から、その元になるものが、霊人世界に存在していた。つまり、地上の存在は、それらを象徴したものである。
6 我々が、肉身生活において、生きているという感覚を得ることができるのは、動力器官である心臓と、感覚器官である神経が、互いに作用しながら、それぞれの目的を果たしているためである。このような構造こそ、霊人の構造を表しているのである。
7 肉身が成長するためには、心臓によって、栄養素を含む血液を、全身に供給しなければならない。同様に、霊人が成長するためには、霊人にも、栄養素を供給しなければならないが、そのためには、生心の要求に従って、円満な肉身生活を送らなければならない。
8 さらに、霊人が、神経のような感覚器官を備えた生霊体を得て、霊人体が完全に構成されれば、人は神様とつながることができる。そして、無限の生命力を感じながら、神様の分身として、さらに成長することができるのである。
9 人が、神様の分身となるまでに成長すれば、神様の愛を十分に受けることができる。こうして、喜びと幸福を感じながら、相対関係にある異性と一つになろうとするのである。つまり、神様は、人を男性と女性に分けて創造し、この二性が一つになるようにされたのである。
10 従って、人は、成長するに従って、相対的存在である異性を求めるようになり、その過程を幸福に感じるのである。このような幸福感に酔うことができるよう、神様は人を創造されたのである。
11 人は、愛に酔いながら繁殖することができ、また、神様が人を愛するように、人は子女を愛することができる。これは、人に父母の愛を教えるためである。こうして、永遠に生きることのできる世界を創造することが、神様の創造理想である。
12 それゆえ、神様は、男性と女性が存在する相対性の世界を創造されたのである。それは、どれ程ありがたい事であろうか。人は、被造物の中で、最も理想的な霊物である。
13 さらに、神様は、人を通して、万物に愛を与えることができるため、人に十分な愛を与えようとされる。そのため、人は、神様の対象格として、神様の神経のような存在となっているのであり、万物は、人の神経を刺激する相対的存在となっているのである。
14 それゆえ、万物は、人から愛されるよう、人に刺激を与えるのであり、人は、神様の愛をもって、そのような万物を愛さなければならない。こうして、人と万物が、理想的な関係を築くことができれば、神様は、人を通して、全ての万物を愛することができるのである。
15 このように、神様は、人に愛を与えようとされるが、その愛を受ける者がいない。そのため、万物もまた、その愛を受けることができないのである。このような問題は、堕落から始まった。
16 人は、堕落によって、神様の愛が分からなくなった。しかし、人は、異性を愛することで繁殖できるのである。
17 それゆえ、男性の場合は、愛することのできる美の存在として女性を求める。そして、女性を愛する性交は、創造的本性の愛であり、瞬間的ではあっても、共にその愛を感じて授受するところから生命が始まるのである。その時、男性と女性には、愛の陶酔感がなければならない。
18 このように、男性と女性が授受し、それが十分に満たされることによって、第二の生命が始まるのである。つまり、人の肉身の生命は、特別な愛の授受作用を通してのみ生まれることができる。これが、創造原理であることを知らなければならない。
19 また、霊人も生命を受けるが、この生命は、神様の無限の愛と一つになるための路程を出発するときに受け、そこから成長するのである。従って、人は、神様に対して、完全な美の存在とならなければならない。
20 そのようになれば、神様の愛が、人に流れ込んでくるのである。この作用が人に働くとき、人は、神様のように、全てを愛することのできる存在となるため、万物までが、人を尊敬するようになる。こうして、神様の理想通りに愛することができれば、人は貴い存在となるのである。
21 神様は、人に完全な愛を与え、男性と女性が愛する、その姿を見ようとされる。その二性が一体となって愛する姿は、どれ程美しく貴いだろうか。
22 それは、男性と女性が愛を授受するとき、天では、その姿が、神様の創造の理想形を表すためである。それゆえ、神様は、無限の愛を人に与えようとされるのである。
23 ところが、被造世界が堕落した後、宇宙には、神様の代わりに愛を授受する存在が一人もいなかった。そのため、神様は、その存在を立てようとされた。そうすれば、万物と宇宙を蘇生することができる。それが、神様の摂理の重要な点なのである。
24 人には、肉身と霊人があるため、肉身の父母が存在するように、霊人にも父母が存在する。それが、他の存在と異なる点である。
25 それゆえ、霊人は、永遠の世界で、霊の父母と共に、理想の愛をもって生活することができる。それが、我々の理想であり、霊の父母の理想であり、創造主の理想である。
26 このような事を明らかにしていくのが、宗教家や哲学家の使命である。それゆえ、今日まで、この世に明かされてこなかった根本原理を、天命に従って、明らかにしようと思う。
27まず、ここで宣言することがある。霊を通して教えを授かる者が、この原理の本論に関して、その根拠を天に尋ねるならば、天は、その決定的な根拠を教えてくださるであろう。
28 神様が世界を主管されるとすれば、信仰国家を中心とした国際機構によって主管される。従って、世界には、そのような国際機構が、必然的に現れなければならない。
29 我々の希望は、神様の理想が世界的に実現されることである。そのようになってこそ、人々は幸福になり、それが永遠に続くのである。従って、神様のみ旨を望む宗教が、世界の中心的な宗教とならざるを得ない。
30 それでは、今、この世界の中心的な宗教は、どの宗教なのかと言えば、それはキリスト教である。従って、このキリスト教の理想と、神様の理想と、信仰国家の理想が、同一となっていなければならない。そうでなければ、神様の存在を疑わざるを得ないのである。
31 この世界には、信仰国家を中心とした国際機構と、それとは反対に、無神国家を中心とした共産主義国際機構がある。神様が居られるとすれば、み旨が成就しないはずはない。
32 しかし、神様のみ旨に反対する国家は存在している。それが、悪神サタンの主管する国家である。神様とサタンは、互いに人を奪おうと闘ってきたのであるが、今はむしろ、サタンが人を奪われまいと、神様に反抗しているというのが真相なのである。
33 真理は一つであるため、神様は必ずみ旨を成就されるが、それまでに戦争が無いということは有り得ない。ここで、善悪の分岐が問題となるが、それは我々が苦心しても、解決できることではない。
34 しかし、我々は、この世界における神様の摂理を、どのようにしてでも探し出し、全力を尽くして、神様の摂理に協力しなければならない。では、我々が知るべき事を明らかにしよう。
35 神様が、キリスト教を立てられたのである。それゆえ、今まで隠されてきたキリスト教の教理上の根本問題が、表面に現われなければならない。さらに、人類の摂理路程なども、明らかにされなければならない。このような時期となれば、終末であると同時に、宇宙的な審判の時期なのである。
36 我々は、この終末を招来せしめた原因を知らなければならない。また、終末になれば、聖書の予言が成就されることになるが、その予言の意味を知らなければならない。
37 さらに、終末の意味が分からなければ、再臨の意味も分からないため、再臨される前に、聖書における終末の意味を知らなければならない。これらは、キリスト教信者や、神学を学ぶ者にとって、非常に重要な問題なのである。
38 従って、私は、この根本問題を明らかにし、全世界の信者たちに、それを宣布せざるを得ないのである。たとえそれが、自分たちの信仰に反するものだとしても、反対してはならない。
39 また、神様の教示を直接授かった信者たちは、その教示を信じ、み旨成就に協力しなければならない。先んじてみ旨の意味を知り、神様に仕える者は、天では偉大なる栄光の存在となり、この世でも尊い存在となるのである。
40 神様のみ旨を知った時、我々は、如何に行動しなければならないのか。もろろん、み旨に対する責任感を持つべきである。もし、我々が、み旨に協力すべきであることをよく知りながら、そのみ旨を早く実現しようとする努力を怠るならば、それは神様に対する犯行であると言わざるを得ない。
41 知らなければ許されるが、知っているなら、その使命を果たすために、各自が全てを奉献し、喜んで行かなければならない。そうしてこそ、神様をお父様と呼ぶことができる。信仰生活の目的は、我々が、失ったお父様を求めることによって果たされるのである。