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み旨の行く道
1967年 5月 14日(日)前本部教会
この世の中で目的(み旨)もなく生きている人間はありません。人々は社会生活をするにおきましても、自分なりのみ旨を中心にして生きているのです。今世界に広がっている人類は、自分の事業に対するみ旨、学問に対するみ旨、あるいは自分の専門分野に対するみ旨を立てて、その目標に向かって歩んでいるのです。
善が要求すること
それではこのみ旨は何を中心として成すのでしょうか? 勿論人間を中心にして成されるので、その心を中心として成されるのです。ここにおける心は、常に失敗することを願わず、うまくゆくことを願っているのです。それが平面的であれ立体的であれ、時代的であれ歴史的であれ、さらに良くなることを願っているのです。ですからみ旨が指向する最高の目標は、万民が良いという基準に至ることです。
人間の良心は言うまでもなく、常に善に従っているのです。この善は人間をして、より大きな何かを成すようにさせる要因になるのです。自分の研究分野や、あるいは他のいかなる分野を問わず、善に立脚してみ旨を立てなければならないのです。
それでは善自体を見渡してみる時、善はどんな内容を持っているのでしょうか? 善は非動的か主動的かを分析してみれば、善自体は非動的であることを願わないのです。常に主動性を願っているのです。ですからある社会、ある団体の条件が大きければ大きいほどこれを中心として、その社会や団体を動かし、善なる基準圏内に隷属化させようとするのです。
人々はなぜ、真の善を願うのか? 善自体が非動的ではなく主動的であって、我々の生活に不義と損害をもたらすのではなく、常に利益を得させようとするからです。
ですから良心を持つ人間は、善に立脚した自身の主動性を持つことが肝要なのです。他人から支配されることを嫌う原因もここにあります。また良心にのっとって願う善の基準も、限界的なものを願ってはいないのです。それゆえ韓国の人間であっても、韓国的な人間だけを願ってはいないのです。自分が韓国人であっても、世界的な人間になることを願っているのです。より高い何かがあるとすれば、そのような存在になることを善は要求するのです。
ですから人間は真の、良心的な生活をしなければなりません。真の良心を持つ人々は、自身の主動性というか、自分自身を中心とする最高の理念を堅持しなければなりません。良心的な人間であるほど、自身の絶対的な主動性を要求するのであり、絶対的な最高のものを願うのです。
み旨が指向してゆく時、何が連結されるのか? ここには必然的に理想、あるいは理念が連結されるのです。ですからみ旨は理想の世界に向かって行くのです。それではこの理想とは何か? これは万民のある思考圏内に生じるものではなく、あるいは時代圏内で目的を立てて行くことではないのです。それは時代性と歴史性を超越して、地域的な限界を越えた基準で捜し求めて行くのです。
ですから心はある相対的な理想圏を要求するのです。この基準が無限であれば、無限なる環境圏を要求するようになるので、この無限なる相対的な理想圏を要求する心の主体性もやはり無限であり、それゆえ無限に至高なることを要求するのです。人間はこのような心を持っているゆえ、高貴なものという結論が出るのです。
み旨が行く道は、理想を目指して行く道です。歴史過程を経てきた数多くの人々は自分が及ばずに生きてきましたが、み旨はより高い善を、より価値あるものを追求してきたのです。より高い理想を求めてきたのです。
歴史の流れに従って、時代が入れ替わるに従って、あるいは国家の主権が入れ替わるに従って、その環境がさまざまに変遷して来たとしても、み旨は常に一つの理想世界に向かっているので、刺激となり力となってきたという事実を、皆さんは知らねばなりません。 それゆえ世の中が漸次、理想世界に近づけば近づくほど、万民が願うみ旨、その理想は一つの目標に向かって行かざるを得ないという結論が出るのです。こんな観点から現在の世界情勢を見てみれば、一つの理想世界に向かって行っているということを知るのです。
み旨が行く道
今、世界では民主世界と共産世界が闘っています。民主と共産のみ旨が今、先になり後になりして人類歴史と共にもつれ合っています。
それではこれがどうなるのか? み旨は二つはありません。絶対的なみ旨、最高の理想的み旨、それでこそ神の理念と通じるみ旨は、二つはないのです。それゆえ民主と共産のみ旨はいずれ一つにならねばなりません。今日民主主義は民主主義として、共産主義は共産主義として、理想が何であり理念が何であると叫んでいるのですが、現実は一つの帰結点を成すみ旨の方向を捜し求めて心を砕いているのを、我々は否定する道がありません。今世界は歴史過程を経て20世紀の現代文明を迎えて、初めて一つの理想圏内に帰一する段階に入っていることを、我々は感じるのです。
それでは過去の我々の先祖たちの良心は、善ではなかったのでしょうか? そうではありません。現在より善でした。それでは先祖たちが描いた理念が、現世よりも劣っていたのか? 決して劣っていません。それではその当時、全部が一つになる理念を主張して行かねばならないのに、なぜ出来なかったのか? み旨が行く時には道があるからです。み旨は出発と同時に一ぺんに成るものではありません。その目的地まで行く時は必ず経なければならない過程があるのです。
今日宗教的な立場で見れば、人間始祖が堕落したことは否定する道理がないのです。それでは堕落とは何か? み旨の方向性を失ったこと、即ちみ旨が向かう本来の方向を失ったことです。行くべき道をさしおいて、行ってはならない道に行ったことです。言い換えればみ旨と一致する方向を捨てて、み旨と反対の方向に行ったことが堕落なのです。それゆえ人類歴史が、人類始祖の堕落と共に出発したことを認める他はないのです。ですから人類は必ずその方向に入って、一つの理念的な世界に向かって行かねばならないのです。 それでは今まで歴史過程に来ては行った数多くの先知先烈、あるいは数多くの道主たちは何をしたのか? 彼らはそれぞれの主張を立てて、絡み合ったみ旨の方向を一つの方向に帰結させようとしたのです。絡み合ったみ旨の方向を、ある思想的な一つの目標を立てて、その方向を帰結させようとしたのです。
また彼らは、一つの絶対的な理想世界に向かって行く道を捜し求めた人々でした。それではその道をどの角度で合致させるか、平行線上で合致させるのか? 直線上において合致させるのか? ある主義、主張やある宗教が行く道には、一段階ごとに合致させれば残る距離までの試練が残るようになるのです。ある角度で出発して、ある程度下れば、歴史過程に起こる因縁が、終わりの日まではその使命を知るようになるのです。ですから試練の角度はそれなりに少なくなるのです。
こんな観点で良心を中心にして、より高次的な目標点に向かって行くために現れたものが何でしょうか? 勿論、哲学もそうですが哲学よりも宗教がそのようなことをさらに深く取り扱ってきたのです。ですからこれまでの人類歴史を概観して見る時、文化は宗教的な基盤を通して発展してきたのです。即ち、文化が発展することは、長い歴史過程を経て来て、宗教的な基盤を通して、その時代圏内の文化圏を一つの方向点に収拾してきたからです。これはなぜそうなるのでしょう? み旨が指向する一つの目的点に帰結せしめるためにそうなるのです。
み旨が指向する目的
み旨を指向するにおいて重大なる使命をなすものが宗教です。このような宗教の歴史が深ければ深いほど、現実の文化世界を凌駕する深く新しい内容が生まれるのです。それでその宗教的な内容を通したみ旨の基準、あるいは理念的な基準は、必ず全人類が指向するみ旨の目的と結びつくことが出来るのです。それでは今日、民主主義は何を中心としているのでしょうか? キリスト教思想です。しかし共産主義はこれと反対の思想を持っているのです。
み旨の行く道を探ってみれば、み旨は本質を外れることがないのです。み旨は総合的な最善の基準を通して連結されることですから、み旨が帰結点を成すには短日時の過程をもってしてはダメなのです。またその因縁を結ぶためには人類歴史と共に、その文化歴史と共に関係を持ってこそ成るのです。こんな観点から悠久の歴史的な理念をもって、現実において重要な責任と使命をなして、み旨を発展させた宗教はキリスト教であります。
ところで共産主義はどこへ行くのでしょうか? 今から50年前の1917年にソ連を中心にいきなり現れたのです。それではこの共産主義が歴史的なみ旨と、今までの時代的な全てのみ旨を全部、一つに括りつけられるでしょうか? そうはできないのです。
皆さんの良心が、真ごころからの、良心らしい良心に頭を下げる高度な基準が唯物的であるか、唯心的であるかという時、これは言うまでもなく唯心的なことなのです。お金が沢山ある人間であるからと、彼を人格者とは呼ばないのです。人格者としの良心の基盤の上に、より大きな何かを持っていなければなりません。
ですから現実におきまして、宗教的な歴史を中心にして、新しい形態を持たなければなりません。そして頂点をきわめる因縁をもつ思想体系を得ていなければなりません。世界人類の方向を決定するものでなければなりません。このようなことを見る時、共産主義はみ旨と正反対の道を行っているということが分かるのです。
み旨の目的は理想を求めることです。理想は何を通して成されるか? 三度のめしを腹いっぱい食べて、理想は成らないのです。それではみ旨が指向する目的は何か? めしを食べて満腹になることではありません。またどんなに酒が好きな人でも、酒が目的になることはありません。ではそれよりさらに問題になることが、何でしょう? 愛です。この愛は一時的な愛ではなく、端った金で買える安物の愛ではありません。本質的な愛です。 この本質的な愛を分析してみれば、愛には革命がないということが分かります。父母が子を愛することは、真の愛にあたります。ですから人間始祖の時から、人がわが子を愛する心と、数千年後の後孫である我々が子を愛する心は全く同じなのです。また数千年後の我々の後孫が、子を愛する心も同じことです。愛には発展もなく、終わりもありません。革命の要件を必要としない純粋なものが、愛なのです。
それでは神の愛とは、どのようなものでしょうか? 神がある存在を絶対的な基準の場に立てておいて、その存在性を認定して彼を愛したなら、その愛はそれ以上の革命を必要としない愛なのです。
み旨を成すためには
革命はどこから出発するのか? 欲望から出発するのです。悪いことがあればこれを捨て、良いという内容を全体の前に適用するのです。これを社会に適用させて社会に革命を引き起こし、宗教に適用させて宗教界に革命を引き起こし、また他の全ての分野に適用させて、その分野に革命が起こるようにしなればなりません。
み旨が指向することは理念であります。しかし理念はそれ自体では、み旨を成すことが出来ません。み旨は愛の問題を通して解決しなければならないからです。即ち、み旨を成すためには、物質をもってしてはダメだからです。
こんな観点から、キリスト教が最も重要視するものが愛なのです。それではこの愛を成す方法が何でしょう? それは新郎・新婦を立てることです。悠久の歴史過程を経て、愛の内容を中心に現れたのがキリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教になったのです。
それでは今、キリスト教が成すべきことが何でしょうか? 理念を成就するためには必ず世界的な宗教にならねばならず、世界的な宗教になるためには愛の問題を通して来なければならないのです。この時の愛は妥当性がなければなりません。この愛がアベルにだけ当てはまり、カインには該当しないとか、大韓民国の人々には当てはまり、アメリカ人には該当しないというのではダメです。
今までの革命を経て来た歴史もここには係わりなく、一瞬間に統合され、適応されなければなりません。キリスト教にこのような愛があれば、キリスト教を中心にして世界の国家を統合することが出来、理想世界を造ることが出来るのです。ところがこの愛が欠けているなら、キリスト教に新しい革命を引き起こさなければなりません。
今までのキリスト教を見渡せば見渡すほど、真っ暗です。現時点における環境を探って見れば、現在の時点まで連結されている内容が不分明だったことが分かるのです。形態はあるのですが、内容としては表に出すことができません。
普通、木に登るのは下りるより力がいります。しかし本当に高い木に登る時にはどうにかこうにか登るのですが、下りる時はなお難しいのです。またどうにか下りたとしても、再び登るとなると登れない場合が多いのです。しかし下りたら必ず登らなければなりません。愛も「ああ ! わたしはあなたを愛する」と言ってずっと登っていられますか? そうはならないのです。愛は登ったり下ったり、与えたり受けたりしなければなりません。ですから愛は独りですることができません。愛する父子の間の関係は、地球の端から端まで離れてもその距離を越え、互いに求めて抱きあい愛するのです。何が原因でそうなるのでしょう? それは愛のためです。
神は絶対的な存在であり、我々はきわめて惨めな存在です。ところで惨めな我々がどのようにして神と愛し合うのでしょうか? 絶対的な存在が、惨めな場まで来ることはないのです。それでキリスト教が、その基準まで連結させる使命を帯び、現時点までどうにか下りてきて、世界性を帯びているのです。ではこれをどうするのでしょうか? これを普遍化させて、万民が真であると認める公的な愛の法度に、適応させなければなりません。であれば現時点から、現時代の歴史過程をとび越えなければなりません。
愛の主義が現れなければならない現時点
それではこれからキリスト教が果たすべき使命が何か? 歴史過程の総合的な理念と共に、思想的な目的を成すための宗教的使命を果たさねばなりません。それで今まで下って来た歴史的な因縁に従って上ってきたのが、再び下らなければなりません。下る時は6千年かかったのですが、上がる時は6千年かかってはダメです。なぜ? 人生は短いからです。人間はどんなに長く生きても100年しか生きられません。ところが6千年の人類歴史を全部たどって上がってくれば6千年かかり、また下る時も6千年かかるのです。
それでこれを短縮しなければならないのですが、それが出来る内容が何か? それは真理自体よりも、真理を中心とした人間です。その人間は時間を超越しているのです。10年前に死んだ子も、時間を超越して愛している心と同じです。
また、歴史性を超越して往来できる一つの絶対的な要因が何か? 真理よりも人間なのです。イエス様は弟子たちに真理を教えたのですが、その真理は愛を教える一つの方便に過ぎなかったのです。それゆえ愛を完全に成す活動が出来ませんでした。ですから行動的な結果を通して愛の内容を明かすことができず、保留してきたのが今日までのキリスト教の歴史なのです。
それゆえ現時点で新しいみ旨を指向する無数の理念を統合・完結して、人類に幸福をもたらす一つの主義が現れなければなりません。この主義とは何の主義か? 具体的な歴史を通して、時代に通じる愛主義です。神はこんな主義を願っておられるので愛する子、即ち息子を送り、新郎の装束を着せ、彼のみ旨に従う万民を新婦として立てるために摂理されて来られたのです。ですから歴史は流れ過ぎても、その心情の因縁は常に平面的です。従って縦的な歴史を経て来ましたが、神はその社会の平面的な、現実的な舞台において摂理されましたので、キリスト教は生活的な宗教となり、社会的な宗教にならなければならないのです。このように見る時、統一教会は何をする教会か?
人間始祖のアダムとエバが堕落したのですが、彼らは神の愛を受けて堕落したのか、愛を受けないで堕落したのか? ここにおいて、神は人類のアボジですからアダムとエバを愛しておられたのに、なぜ彼らは神の愛を受けないうちに堕落したのかという疑問が生じるのです。神がアダムとエバを愛する時は、特別な経路を通して、特別な愛しかたをせざるを得ないのです。これはいい加減に愛するということではありません。息子が100人いたとしても、100人の中で父の遺業を相続する息子は未だ一人しかいません。
このような観点から見る時、、この堕落した世界で愛の体系を持つためには、神を中心とする選民思想を持たねばならないのです。「お前たちは傍系の一族だが、我々は直系の一族だ」と言える民族が出て来なければなりません。愛も同じことです。先生も皆さんをいっぺんにみな愛さなければなりません。ですから真っすぐ直行しなければならず、そのためには自身の全ての財産と生命までも捧げなければなりません。即ち理念と愛、その一つしかない人間のために、生死を越える人間にならねばなりません。それでは堕落圏内の人間の中で、誰が愛の相続者になるのでしょう? 我々の人類始祖アダムの、堕落前の立場の人間です。選民とか何とか言うのは、愛を誤ったがゆえに現れたことなのです。
神の愛を求めるためには
こんな観点から見る時、愛の天理を教えるために神のみ旨を達成することができる人間が、堕落圏内から必ず現れるのです。それゆえイスラエル民族を通して選民思想が現れなければなりません。
イスラエルとは勝利したという意味です。何に勝利したのでしょうか? 何かの運動競技でしたのでしょうか? でなければ新婦を愛することで勝利したのでしょうか? 違います。神の愛を求めるにおいて、第一番に勝利したのです。
それでは神の愛を求めるために、どうしなければならないか? 世の中の人間に従っていてはダメです。必ず世の中の人々と、反対の道を行かねばなりません。サタンと反対の道を行かねばならないのです。それでノアもアブラハムもヤコブも、自分の居場所を離れて荷物をまとめたのです。
み旨の道を行くためには、神のみ旨を誰よりもより強く思慕しなければなりません。従って今日、我々は世の中自体を否定して、世の中を打つのです。言い換えれば、宗教は現世を否定し、哲学を克服しなければならないのです。
それでは極めて過激に現世を否定する群れが、どんな群れでしょうか? 殉教の歴史を持つクリスチャンたちです。彼らは神のみ旨を成すために、社会の病弊を除くために、殉教しても社会を否定して、叫んだ群れです。このキリスト教は現世を完全に否定しましたので、社会から追われたのです。社会を電撃的に否定しましたので、社会から過激に迫害され、追われたのです。現世を否定したら、必ず社会から迫害を受けるのです。それでキリスト教は追われ追われて、迫害されてきたのです。
ところでなぜ迫害した人々は滅んで、迫害された人間は滅びないのでしょうか? 迫害された人々にはみ旨の方向と連結され、そのみ旨と通じる理想があり、天を愛し地を愛し未来の理念を愛する心が宿っていたからです。即ち彼らは天運と拍子を合わせることができる因縁を結んでいましたから、世の中の人々が滅んでも彼らは滅びずに残ったのです。 ですから愛の神を中心とする宗教的な理念によって、民主世界と共産世界を統一することができる心情の天理が明らかになる日には、世界は自動的に統一がなるのです。軍事的な会談や平和的な会談を通しては、統一は出来ません。
この地球上には30億に近い人類がいます。そしてその中で20億に近い人類が、宗教的文化圏内で暮らしています。ですから世界人類の3分の2が、宗教文化圏内で暮らしていることになります。このような宗教圏に共産主義が深く食いこんでゆけるでしょうか?そうは出来ないのです。
ゆえに新宗教主義が現れなければなりません。それでここに統一教会員は、新しい主義と思想を持って、世界的な王者として現れなければなりません。全人類が宗教を持ったなら、共産主義は草のように蹴散らされるのです。ではその次に、綴られた歴史と残された歴史を総合して、解決づけなければなりません。
それではいかなる人間が、主人になるのでしょうか? うわべだけ見れば強盗のように強奪してゆく人間が主人のようですが、違います。本来の主人はいかなる人間か? 誰よりも人を愛する人間が主人なのです。犬も愛する人に従います。愛の心がない人間は、主人になることはできません。
人類歴史の総結論
共産党は武力政治、強圧政治によって人類を死に追い込むのです。彼らは何をするにも昼やらないで夜やるのです。彼らの工作は全部、夜中に起こります。昼やることはないでしょう。夜は陰です。陰は滅びるのです。ですから共産党は滅びなければなりません。
こんな観点から、み旨の目的から見て、これから世界が留まることができる内容の母体は何か? 物質ではありません。歴史と共に血を流し、歴史と共に涙を流し、歴史と共に呻吟して、歴史と共に解怨の一日を願ってきた歴史的な、愛なのです。それゆえこの歴史的な愛を実体化した、一人の指導者が現れなければなりません。その指導者が誰か? キリスト教的に言えば、メシヤなのです。
このような内容を中心に見る時、人類は新婦としての準備をした後に、新郎として来られるメシヤを迎え、神のみ旨の通りに生きなければならないのです。知性人だと自認している人々は宗教は必要ないとしていますが、そうではありません。
それでは統一教会においては、何をしようというのでしょう? この時点で神の愛を感じなさいというのです。神の愛を感じるなら、どの程度に感じなければならないか? 歴史過程における全人間は望めません。その愛の力をもってしてはダメなのです。イエス様が主張された2千年前の愛のように、漠然とした愛ではダメなのです。より貴い愛、価値ある愛、実体的な愛、実証的な愛でなければなりません。それは何よりも強く、現実的な生活観念を持って、誰よりも神の愛を強烈に感じるという、姿勢を持たねばなりません。 愛を強く感じるには、どうしなければならないか? まず、愛の道がどのようにして付けられたかを、知らねばなりません。父母が子を愛することは、何によって教えられたのでしょう? 夫婦が互いに愛することは、言葉ではダメなのです。子供が父母の愛を感じる時も、子供を愛してきた父母の行路を、反対にたどることによって初めて「あ! うちの父母はこんなお方だったんだなあ 」となるのです。
それで逆にたどってきて、その愛を思い起こして見るのです。神を中心にして出発した愛は、どんなに理想的だったでしょうか? 人間が堕落しなかったなら、その愛は素晴らしく素敵な愛として出発したのです。神の心情は、この素晴らしい愛を中心として、自由天地の中で春の日に酔って生きる、夢を見る心情だったのです。しかしこのような神の心情は、出しぬけのつむじ風に出会って突然、氷のように凍ったのです。とり肌の立つ神の心、熱い火のようなその心に氷のかたまりが降り注いで、神は爆発的な悲しみに打たれたのです。ですから我々は、この愛を捜し求めなければなりません。今まで愛を捜し求めるための回復運動をしてきたのが、人類歴史だったのです。
人類歴史の総結論が何か? 簡単であります。神を中心とした本然の愛を、再び捜し求めるための運動なのです。これを捜し求めるために今まで、時代的に方法と手段と形態と概念を互いに異にして、人類歴史は流れて来たのですが、その目的は一つなのです。
神の愛
今日、私を中心にして見る時、神の愛が私と何の関係があるのか? 実質的には何の関係もありません。関係があるなら、どれくらいなければならないか? イエス様とイスラエル民族との関係よりもより深い、それ以上の関係があるという刺激を感じなければなりません。そうでなければイエス様の愛は感じられないのです。言い換えれば、イエス様に従った弟子たちよりも、イエス様をより愛するという心を持たなかったらダメだというのです。
統一教会はこのようなことを、歴史的に解明しなければなりません。即ち、どのように愛が発展してきたかを、歴史的に解明しなければならないのです。こうして歴史的に解明され、証しされた事実を通して、今日この時点の我が個体を中心として、歴史がこのようであるから私はこうでなければならず、歴史がこのようであるから社会的に、私にこんな価値があるという基準を、生活において立てなければなりません。こんな生活自体が、神を愛することであり、イエス様を愛する立場に立つという基準を得ることなのです。こんな内容を誰もが知るようになったなら、世界は自動的に統一されるのです。
ここには何かの手段と方法が、必要ないのです。家庭でも愛する妻がごはんを作ってくれれば美味しいのです。またお母さんがごはんを作ってくれても美味しいというのです。子供を持つお母さんは、その子が便をして体にこすり付けてどんなに汚しても、憎くはないのです。むしろ可愛くて愛らしいというのです。そうじゃないですか?
神の愛は、歴史過程によく現れているのです。ある民族を中心に見る時、熾烈な戦いに敗れ、追われる群れが命を失うそんな立場であっても、その国の主権を再び立て、新しい出発をしようとするのは、その背後に人間に対する神の愛が宿っているからです。数多くの民族が興り滅ぶその歴史の背後にも、時代ごとに変遷してきたキリスト教の歴史過程においても、今日世界的な文化が交流し、ぶつかる過程においても、必ず神の愛は宿っているのです。大韓民国の社会がどんなに腐敗しているとしても、ここには我々が知らないうちに、神の愛が宿っているのです。
これを見る時、腐敗した大韓民国にも世界に貢献できる要因があるのですが、それが神の愛なのです。従って皆さんは腐敗した世界の途上においても、神の愛が何千万倍も宿っていることを知らねばなりません。そしてこの神の愛は、この世の中を救うためであることを、実感的に感じなければなりません。
それゆえキリスト教は悪の世界から離れず、愛を叫んでゆかなければならないのです。しかしキリスト教はそんな内容を展開する宗教になることができず、それで終着点がないのです。このような社会を救えず、社会を指導する力量を失う宗教に傾いていっているのです。
これはある体制を持つ形態や、ある基盤によって出来ることではありません。骨髄から溢れ出る良心の本然の姿勢にわれ知らず包囲され、包囲するその力が、天運と方向を合わせ、この方向が歴史性に通じる感情を求めれば、ここに人間改造、人間再創造が起こるのです。
ですから人間は回生しても、手段と方法を通して回生したら絶対にダメなのです。良心的な人間であればあるほど、絶対的な真理を通して自分が回生することを望むのです。しかしそれ以上に心に深く望んでいることは、真の愛を通して回生することです。なぜそうなのでしょうか? 人間は死ぬ時も愛する人の胸の中で死にたく、愛する環境の中で死にたいのです。金銀財宝を積み上げて喜ぶ場ではなく、愛する心を通して信頼されるそんな場で、天的な因縁を結ぶのです。
愛はすべてが好むもの
今日我々が宗教を持つという意味は、宗教を持って社会の為に革新運動をしなければならないという意味です。内的にそのようにできる爆発的な心情を持たない宗教は、その使命を果たすことができません。宗教はあくまで言葉ではなく新しい環境を提示してきました。どんなに悪いところに行ってしまった民族であっても、その民族に真の愛の爆弾を投ずれば、彼らは必ず溶かされて同化するのです。皆さんの心もそうなのです。
先生は田舎で育ったので知っているのですが、首に綱をつけた子牛が鼻に鼻輪を嵌める前には、引いて行くのにとても力がいるのです。ところが子牛をつかまえて竹串を作って鼻に嵌め、手綱を引けば子牛は鼻から血をどくどく流して引かれるのです。その時から力を入れて引っ張らなくても子牛は引かれて行くのです。しかし鼻輪を付けた子牛でも、愛してやらない人間が引っ張る時には、うまく従わないのです。その子牛を愛している人間だけが、易々と引いて行けるのです。
これから世界を全て消化させるものが、何でしょうか? 共産主義でもなく、民主主義でもありません。それは愛です。愛も父母が自分の子を愛する愛だけではダメです。他人の家の子が死ぬのは胸が痛まない、こんな愛ではダメです。また一人の男と女が愛しあう時にも、二人だけが幸せならば良いという愛は、世界の人間とは何の関係もありません。それではどんな人間が必要なのか? 絶対的な世界において公平と平等に生きる人間が必要なのです。
世の中の人々の願いは何でしょう? お金をたくさん稼ぐことですか? それで人々はお金を稼ぐために故郷を離れてもやがて「アイグ-もう一度、故郷に帰りたい」と考えるのです。何で故郷に帰りたいのでしょうか? 故郷の山河が恋しいからです。愛する父母の懐に抱かれたいからです。それでごはんを見れば我れ知らず涙が出るのです。また故郷を想えばわけもなく胸がさわぎ、春の山を見るように心がうきうきしてくるのです。これはなぜ、そうなるのでしょうか? 父母、兄弟がいる故郷に愛の因縁を求めて行きたいからです。即ち、父母の愛、兄弟の情が慕わしいからです。
皆さん、家庭とう言葉をじっと考えてみるのです。この「家庭」の「庭」という字は何の「庭」の字ですか? ニワの庭でしょう。庭には色とりどりのきれいな花がたくさん咲いていて、家庭にも兄弟がいて父母がいるのです。それではこの花々が互いに良いという庭になるのか、互いに嫌だという庭になるのか? 家庭は互いに喜び、愉んで歌をうたい踊りをおどるところになっていなければなりません。ところが互いに争って闘ったら、その庭はどうなるでしょうか? 荒れ地になってしまいます。全部が滅ぶのです。
お金が欲しくて、親父の何文も入っていない巾着の金まで奪って自分の財布にしまう息子がいたなら、彼はひどい息子です。それではいけません。このように物質は限られています。限界線を越えることが出来ません。しかし愛の包みは、ほどけば無限大です。
ですから愛を中心にして見る時、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、氏族の愛、民族の愛世界の愛、天宙の愛の、縦的な基準がみな異なるのです。ここで異なることは、誰もみな良いというのです。
植物もよい音楽を聞けばよく育つのですが、悪い音楽を聞けば絶対に育たないのです。皆さんが一度、実験をしてみなさい。従って争い合うひどい声を聞けば、皆さんもよく育たない植物と同じようになってしまうのです。しかし愛が宿るパンソリを聞いて育てば、素晴らしくなるのです。この素晴らしく生きることができる何かを持っている心が、愛なのです。
み旨が行く道は愛が行く道
思春期がなぜ素晴らしいか、分かりますか? 素晴らしくなるから素晴らしいのです。思春期の時には何だか味もなく、勉強も知らないと投げ出して、いつも心が騒いでいて、自分が人工衛星のように飛んで行くのではないかと心配するほどです。このようになったら、どんなに素晴らしいでしょうか?
人間の最高の目的は何でしょう? 所願が何でしょう? 人間は地のために、全部が大地を抱きしめて地上で生きたいとするのですが、結局はどこに行くの? お墓に行くのです。それで人間は愛が宿るお母さんの懐を恋しがるのであり、愛する兄弟の懐を恋しがるのであり、愛する妻の懐を恋しがるのです。そのどれも愛なくしてはなりません。ですから最高の真理は、愛を中心として行くことです。ここにおいてキリスト教が、世界的な宗教にならざるを得ないことが証明されるのです。こんな内容は、仏教にはありません。儒教にもありません。
イエス様は新郎・新婦に対する御言もされ、また兄弟に対する御言も話されました。即ち宇宙の頂点は、世界人類がみな兄弟ということです。ですから人類は愛の俵の中で絡み合って、自分のための愛ではなく、他の為の愛を求めなければなりません。また家庭よりも宗族の為に、宗族よりも民族の為に、民族よりも国家の為に、国家よりも世界の為の愛を求めて行かなければなりません。これがみ旨の道であり、愛の行く道なのです。
忠臣は国の為に、自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、宗族を無視して行かねばなりません。これが忠臣の道理です。また孝子は自分一身を無視し、自分の妻子を無視し、父母のみ旨に従って行かねばなりません。ですからみ旨の行く道は、愛が行く道です。自分個人よりも大きなことをまず愛する道が、み旨の行く道であり、愛の行く道です。
こんな観点から天地を推し量って見れば、イエス様は万民のメシヤにならねばなりません。イエス様は十字架で怨讐の槍に突かれ、嘲弄とあざ笑いの中で、無念にも惨めに死んでゆく最後の場においても「父よ、彼らをおゆるしください(ルカ23:34)」と祈祷されました。
それゆえ我々はイエス様の愛以上の愛を持たねばならず、自分に因縁のある人間だけを愛するのではなく、怨讐までも愛することができなければなりません。また我々は光明だけを求めるのではなく、漆黒のような暗黒も良しとする雅量と肝を持たねばなりません。そうすればその背後に、悪の勢力を払いのける神の愛が宿るのです。
であればキリスト教を中心とする、世界的な文化世界を創造することが出来るのです。ところでこんな事実は、外的に現れることはないのです。この内容を解明することがまさに統一教会の願いであり、信仰なのです。
ですから皆さんは自分よりも家庭を、家庭よりも宗族を、宗族よりも民族を、民族よりも国家を、国家よりも世界を、世界よりも天地をより愛するという心を持たねばなりません。さらには天地よりも神を、より愛するという心を持たねばなりません。このような心を神は願っておられるのです。
神は欲心が多いのです。神は6千年前に、人間の前に愛の基準を立て、神のみを愛せよとされたのです。これは天理ですから、独裁ではありません。イエス様もやはり、誰よりもわたしを愛さなければ、わたしにふさわしくない。わたしの弟子とは言えないと語られたのです。天理がありますから、愛の基準もあるのです。このような過程を経てくれば、天地の運勢も歴史の過程において歴史を動かすことが出来るので、神は人間にあらかじめ祈祷するようにし、苦労をかけられないのです。それで仕方なく人間に何千年もの間、耐えて見せられたのです。
ですから神は恵みを受けることを願う人々に、死んでまた死んでゆけとされ、天地のみ旨を守ってこられ、育ててこられたのです。良くですか? 悪くでしょうか? 良かったのです。
み旨の行く道は理想の道
統一教会の先生は神を、私の神としたいのです。他の人の神にしておきたくはないのです。こんな欲心は罪ではありません。善なのです。先生が神を私の神として皆さんを愛すれば、皆さんも喜ばねばなりません。ところが先生が愛そうとする韓国が、先生に最も反対するのです。気が滅入ることです。
み旨が行く道は理想の道です。理想は必ず愛を中心にして座を占めねばなりません。そうすればここに永遠なる安息の基台が生じるのです。しかし未だいずれの環境においても永遠に安息することができる安定圏が造成されていないのです。ですから宗教人は、可能性がある立場で、そこに向かって行かねばなりません。ところが可能性のある立場で、行こうと考える宗教人がいないのです。統一教会は可能性があると考え、可能性を感じて行かねばなりません。皆さんはこれを感じて行きますか? 感じなかったら皆さんは、また荷物をまとめてこれを捜し求めなければなりません。先生もやはりそうなら、また再び荷物をもとめて捜しに行くのです。
神のみを愛せ。主のみを愛しなさい、という言葉は人間の前に愛の動機となると同時に結実になるのです。それでキリスト教が2千年という長い歴史過程において犠牲になってきましたが、今まで残ったのです。
皆さん、終わりの日が近づいています。いよいよ最後の決勝点が近づいています。ゴ-ルインしなければならない時です。ですから最後の1歩を残しておいて「私が駆けたようにみな駆けてる」と駆けて来る人々に「あなたたちは今駆けているが、私はこんなに駆けて来た」と見物していてはダメです。その人間がどんなに千里の道を駆けて来たとしても残った一歩のために、万里の道を行くということ知らねばなりません。
終わりの日になってキリスト教が世界を主管できる、ゴ-ルインする最後の決勝点に到達するにもかかわらず、彼らは休んでいるのです。即ち、キリスト教は万宇宙の前に誇ることができる勝利の権限を持っているのに、彼らは決勝点で休んでいるのです。休んでいて「アイゴ-、ここがどこだ! 駆けている時は分からなかったがここに何があるんだ」と目的を見失ったまま、他の事をしているという事実を悟るようになるのです。しかし統一教会は、現在のキリスト教とは違います。同じであってはいけないのです。
それでは現下のみ旨の行く道が、どんな道なのか? 善の道です。それでは善とはいかなることか? 欲心を満たすことか? 他人の財布のものを持ってくるのが善ですか? 違います。善は与えることです。愛の心で飽和状態になることです。しかし愛はこの飽和性を越えるのです。飽和状態ではそれ以上は上がれないのですが、愛はその基準を、その飽和性を突破して越えて行くのです。我々統一教会員は愛によってこの活動範囲を越え、神の懐までこれを連結させ、因縁を結んで神を喜ばせなければならないのです。
本然の愛を求めて行かねばならない人生
数十億の人類は生まれる時も愛を中心にして生まれ、死ぬ時も愛を中心にして死ぬのです。即ち愛の中で生まれ、愛を中心に生き、愛の中で死ぬのが人間というものです。このように人間は変わることのない愛に依存して生き、変わらない愛がとどまる所に安息するのです。ですからそんな愛がとどまる所なら、岩間であっても大手を広げ、いびきをかいて安心して昼寝ができるのです。
皆さんは父母の愛によって生まれたのでしょう? 真の愛によって生まれたら、真の世界で愛を抱いて生きなければなりません。これが理想的な人生です。ところが人間は誤った愛の一致点を通して生まれたので、誤った愛の圏内で生き、誤った中で死んでゆくのです。ですから人間は本然の愛を、追い求めて行かねばなりません。
キリスト教で言うところの、復活をしなければなりません。本然の愛の中で生まれず、本然の愛の中で生きず、本善の愛の中で死ぬことが出来ないので、再び生まれ、再び生きて死ぬことができる道を開拓しなければなりません。我々の人生は、本然の愛を追い求めなければならないのです。
本来の愛の道が何でしょうか? 理想が宿る道です。それではその理想とは何か? 神が本来、人間を創造された時の創造理想です。愛は最高に不可思議なものです。
人間は神を占領しても安心できないのです。男はみな盗賊です。先生も男ですからこれを否定できません。神を占領しようとしてこれで良いと、満足できないのです。人間の欲心は、どこまで占領したいのでしょうか? 神の心の包み、心情の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願っているのです。永遠のこの愛を完全に占領したら、人間の欲心もその時にやむのです。人間は神の愛を占領するための、競技に出場する勇士です。
今まで大韓民国で先生は悪口を言われ、いろんな噂を聞きました。しかしその噂を世の中の人々が問題視すれば、神を占領する条件を立てることになりますから、それは悪いことではないのです。それで先生は難しい道も耐え、我慢して、統一教会を率いているのです。言い換えれば、サタンを始めとする悪の世界のひどい迫害と、苦しみを堂々と克服する人間にならねばならないのです。
この世的に見れば無価値なおばさんが、統一教会に入ってくれば他人の為に祈祷してあげるのです。彼らの心の中には愛によって他人を許し、愛を望み、その愛の前に永遠に宿りたいという心があるのです。ところがその愛を盗もうという人間がいたら、その人間は愛の盗人です。それでは神はそれを嫌われるでしょうか? 神もそれを良しとされるのです。愛の盗賊の中での大盗賊が、まさに神様なのです。
ある人間が「ああ ! 苦労される神様」と神を抱え「私を愛して下さい」と言ったら、彼は間もなく愛を失ってしまうのです。失ってしまったものは、永遠に自分のものではありません。人間は元来、神の愛の中で生き、神の愛の中で死ぬべきなのです。今まで先生がどんなに辛くても耐え、この道で闘ってきたのは、この道で死なねばならぬことを知っているからです。
我々がどんなに外的に、もらい食いをして乞食になったとしても、滅びはしません。神の怨讐を打つための作戦ですから、幾日か御飯をもらって食べてもそれが罪でしょうか?それよりもより大きな事をしようとしているのです。このような事を、皆さんは知らねばなりません。先生がプサンに避難する前、埠頭で労働して事業して金を稼いだのですが、他の人々が金を稼ぐのと目的が違うのです。先生は出来ない事がありません。塩田で塩を積み上げることも良くやったのです。やってみない事がないのです。野良仕事もやってみました。皆さんもこんな事をやってみなければなりません。
先生は金が一文もない人間ですが、天下の誰も羨んでみたことがありません。アメリカの大統領も羨ましくはありません。(中略)
先生は難しい時は、絶対に祈祷しません。死ぬような事が起こったら、アボジに生かして下さいと言い、良い時はさよならというようなことは、しないのです。
統一教会が立てる愛の基準
皆さんは服を着て自慢し、笑って暮らしていますが、その全てが臨時に借りて着て、臨時に暮らしているのです。言い換えれば皆さんの暮らしは、旅人の歩みのようなものであり、皆さんが暮らしている家も、旅館やホテルのようなものに過ぎないのです。我々には無限大の価値があります。それは自分を呼ぶ声も聞こえず、知ることも出来ないのでどんなに哀れなことでしょうか?
人間は愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死んでゆくべきなのです。その愛とは何か? 金をやれば出入りする愛ではありません。存在の起源をふるわせる愛であり、存在の事由を主管する愛であり、存在の結実を現実化する愛なのです。この愛は生まれ出た時から死ぬ時までの絶対的な愛です。それで人間は世界を統一したいのであり、玉座に座って万民の前に誇り、同時に愛する人と共に暮らしたいのです。ここまでが人間的な欲望です。
しかし統一教会の欲望は、一段階あがるのです。統一教会の欲望は二人だけの愛ではなく、二人の人間を合わせ、その中で神に侍り、神主義を成して30億人類を集めようというのです。こうして本然の世界を求め立て、神を中心に人類を結びつけ、全て愛するというのです。統一教会が立てようという愛が、こんな愛なのです。分かりますか?
イエス様もそうですから、キリスト教を中心にして世界を復帰してきたのです。従って今は、世界がキリスト教圏内にあって、イエス様の愛を是認しているのです。キリスト教の2千年の全てが今、終わりの日に到るまでに人間を復活させて、その中において神に侍り、神に人間をまとめて結びつけ、愛の園を成そうというのです。これが地上天国でありキリスト教の第一の理想です。
それでは自身の血統的な縦的関係を無視して、横的な関係をより重要視しする愛の感情をどのように爆発させるか? 今まで人間は縦的な愛の道に従って来ました。しかし我々が指導してきたこの縦的な愛の道を、世界の道にまで発展させなければダメです。ですから世の中が大騒ぎするのです。従ってこんな縦的な愛、自身の血統的な愛を分離させておいて、この愛を尊重視する新しい愛の包みを解かねばならないのです。言い換えれば、自身の妻より、息子娘よりも、より世界人類を愛さねばならないのです。
神の立場から見る時、全人類は公平です。自分が愛する息子娘と世界人類は、神の前にはみな公平なのです。それゆえ自分が成すべき責任と使命を背負い、より尊くより価値ある存在に従って愛することを願う人間が、神側の人間なのです。ですからこんな愛を発展させるためには、自分の親戚、宗族、民族を超越して、世界を愛さなければなりません。 イエス様は民族を越えて、世界を愛された人です。ですからイエス様は世界の主人になるのであり、人類はイエス様を中心にして、この世界を復帰しなければなりません。
み旨の道は愛の道であり、善の道
み旨の行く道は理想の道です。しかしこのみ旨の道は、苦労の道なのです。創造主である神の理想は何ですか? それは人間が愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死ぬことです。ここにおいて、このような命の道を行く人間は永遠にその愛と共に、この道の主人になり、そうでない人間は流されて行くのです。ですから人類はこのような愛を持たねばなりません。
それでは統一教会員はどうか? 愛の中で再び生き、愛の中で死ぬのです。自分の家庭の愛ではなく、天と地の愛を抱えて生きて死ぬというのです。
本来、人間始祖アダムとエバの所望は、天と地を一つにすることだったのです。彼らはそのために生まれたのです。今日の人類もこんな愛の因縁の中で生まれ、その愛を実践するために生きなければならないのに、人間はこれを知るよしもないのです。
それで神は第二のアダムとして、イエスを送られ、愛の因縁を相続させ、この愛を実践させるようにされたのです。そのための足場として、イスラエル民族を立てておかれたのです。しかしイスラエル民族がイエス様を不信することによって、この愛の本質を失ってしまったので、神は活動舞台を再び霊界に移されたのです。こうして再び世界的に、この愛を展開させるためにイエスが来られるのであって、その日がまさに再臨の日なのです。即ち、神が願う愛によって一つの世界を成すために、イエスは再臨されるというのです。 それではこの愛が、どこに行くのでしょう? 愛が行く道は善が行く道であり、み旨が行く道なのです。それゆえ皆さんは自身を犠牲にしたとしても、家庭をみ旨の前に立てることができる愛を持たねばなりません。大きなもののために、小さなものを犠牲にしなければならないのです。自分個人の縦的な愛を犠牲にしたとしても、世界的な愛を発展させる人間にならねばなりません。こんな人間が地球上に生じ始めたら、この時から地上天国という理想世界が成就し始めるのです。分かるの?
ここに初めて来た人は統一教会をよく知らないでしょう? 統一教会は大韓民国が嫌っている教会です。ところで誰が分かって言っているのでしょうか? 統一教会が悪いといって、そのように言う理由がありますか? 初めて統一教会に来た人々は「アイグ-、これはえらいことだ、統一教会の文先生がえらいことだ」と言うのです。しかし統一教会がどんな教会か知らないで、悪口を言うのです。その人々は今まで、自分の家庭のために国の禄を食んで、国を利用して大風呂敷を広げて座っている連中です。
孝忠ではなくて忠孝です。そうでしょう? 孝誠を尽くして仕えなければならない父母を捨てて、忠臣の道を行くのが天理です。それゆえみ旨が行く道においては、より大きな価値のために、より小さな価値を吸収して犠牲にするのです。そうすれば統一が成るのです。統一がいいですか? 悪いですか?(いいです)ところでなぜ、既成教会の人々は統一教会を憎むのですか? 頭は統一で下は教会なので、従兄弟ですから・・・。
皆さん! 宣伝できますか? 皆さんは宣伝することを知らないでしょうが。宣伝を知らないでしょう? それで反対の風がここに吹き寄せて、同じように絡みつけば統一されるのです。分かりますか?(ハイ)
統一はどのようにするのか? み旨に従ってやるのです。韓国人よりもアメリカ人をより愛そうとすれば恨めしいですか? 恨めしくないですか? 恨めしいでしょうが、韓国人を犠牲にしても、西洋の人々を生かさなければなりません。そしておばさんたちの髪の毛を切ってカツラを作って売ったとしても、外国人たちを助けてやるのです。どうを、恨めしい? なぜ黙っていますか? 皆さんはどこまで入って行かなければならないの?
死ぬような最高のどん底まで、入って行かなければなりません。えらいことでしょう? でなければ世界主義者ではありません。
統一教会は世界主義者になる道を教えているのです。ちょっと前に日本の娘さんが来ましたが、その娘さんは韓国の人々を信じて、お金も本部教会に任せておいたのです。韓国にいる従姉妹の家にも行かないで、ハンドバック一つ持って韓国の統一教会を訪ねて来たのです。統一教会の文先生が何の能力がありますか? ところが先生が食事していると、まるで自分の家の奥の間に座った嫁が、孫をつれて還暦祝いをした人のようにゆったりして、どっさり食べるのです。誰がそうしなさいと教えたのか、先生にも分かりません。
皆さんは怨讐の中の怨讐を殺してやりたいと思っても、愛して原理をしきりに入れてやらなければなりません。今日、我々が抱いて行くことは、こんな原則です。ですから統一教会の人々は、世の中の人々とはタネが違うのです。それで悪口をたくさん言われるのです。しかし先生は他人に後ろ指を差されても、黙々と涙を流して、世の中にみ旨を知らしめようと全力を注いでいるのです。
涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に
今、先生は韓国を離れ、外国に行こうとしています。外国の人々を生かすために、統一教会の人々の鼻に縄をつけて引っ張って行くのです。こうして万民が生きれば、先生は死んでもかまいません。これが罪ですか? 善ですか? (善です)それでは皆さんの鼻に縄をつけて引っ張って行きます。先生は今まで、神の前に抗議したことはありません。このようにして皆さんを率いてきたのです。途中、監獄にもしきりに出入りしました。今は監獄について知らないことがない博士です。監獄でひどい鞭にも打たれました。ですからもしも誰かを打つなら、無慈悲に打つ人間です。道に外れた人間ぐらい処理するのは問題ありません。音もなくズバリとやるのです。
先生は何事もやると決心すれば、3年以内にやるのです。皆さんが先生にこっそり、しこりになったものを解こうとひと芝居やろうとしても、先生はすでにそんなことは皆なやったのです。このように言うと皆さん、気分はいいですか? 悪いですか?(いいです)なぜいいの? 皆さんは先生を、どんな立場でいいと言うのですか? 同じ韓国の人間としての立場でいいと言うのですか? でなければ神の立場でいいと言うのですか?(両方です)(笑い)皆さんは先生は悪いと思うのでしょう? 慇懃に神の手先だと、だから悪いというのです。
世界的な闘いをするにおきまして、今までは統一教会の負けです。前半戦は統一教会が負けていました。しかし第2次戦である後半戦に入ったら勝利するのです。勝利の基準がこちらに傾いているのです。それで多くの人間が必要なのです。(中略)
先生は韓国でだけ活動するのではありません。アメリカ、ドイツ、日本でも活動しなければなりません。いつかはそこの人々を全て復帰するという、腹を持っているのです。飛び回る蜜蜂が蜜の味を一度味わえば、蜜の板にしっかりひっついているのです。どんなに離そうとしても離れません。鳥の羽ではらっても離れません。同じように甘い神様の愛の味を一度知れば、自分の国も神のみ旨の前に捧げるのです。決死的に復帰させようと努力するのです。世界を引受け、人類を引受け、国家を引受けるにおいて、最も重要なものが何でしょうか? それは神の愛です。めしに飢えて生きても、愛があればいいのです。
皆さん、鼻に縄を通されていいでしょうか? とんでもない? イエスもそんな道を行ったのです。先生もやはりそんな道を行きながら、多くの試練を受けました。皆さんはこれを知らねばなりません。(中略)
ここにいる人の中には、既成教会に通っていた人もいるのです。彼らは初めは統一教会が中身があるのかないのか、いろいろ叩いてみるのです。良く熟しているか熟していないか、叩いてみるのです。叩いてみて、とても良く熟していたのです。
その人々が統一教会の味を知ってみれば、春の園のような統一教会の味をみてみれば、子供からおばあさんまで列をなして手を振り、入ってくるのです。心の世界はこのよになっているのです。
統一教会に入って来れば誰が知らせるのですか? 神が知らせるのです。先生は神の作戦法によってやらせます。自分個人のために生きたらダメです。この民族を生かさねばなりません。従って涙は人類の為に、汗は地に為に、血は天の為に流さねばなりません。
「自分は今まで知らなかったが、この味を知って余りに余りに素晴らしい、胸がつまるようだ!」というほど、神の愛を感じなければなりません。
教会の組織にしばしばなじめなくて、教会と通じなくなって離れた人が多くいます。どんな激しい風が吹いてきても、これを制する人間にならなければなりません。そうでない人間は、統一教会員ではありません。
み旨の行く道に向かって誠精を尽くせ
先生は今、外国に行かなければなりませんが、離れて皆さんに福をこうて行くのでしょうか、悪口を言って行くのですか? でなけれが情を残して行くのでしょうか、放って行くのでしょうか?(情を残して行くでしょう)先生は情を離れて行かねばなりません。考えてみて下さい。情を残して行ったら、アメリカの人々が喜ぶでしょうか? 嫁に行く娘はまわりをきれいにして行くのであって、ボロボロにして嫁に行くでしょうか? それがいいでしょうか? そのようにする人がいますか? 愛はみな同じなのです。ですから先生は、韓国への情を離れて行かねばなりません。
ついてくるものを離すには、どうしなければなりませんか? ついて来る子供がいたらゲンコツをくれてやらねばなりません。ゲンコツでダメなら刃ででも離さなければなりません。ですから離すのは離すのですが、どうやって離す? これを先生はいつも考えているのです。皆さんもこれを考えなければなりません。先生は一回りまわって、今まであった全ての事由を全部、忘れてしまうのです。新しく再出発する心を持ちたいのです。分かりますか? 今まで先生は韓国の人間を愛してきました。しかし今は、彼らから離れて行かなければなりません。従って皆さんは誠精を尽くして、一つにならねばなりません。
皆さんは誠精を込めた包みをくるんで、先生の前に来て「これが全てです。よろしくお願いします」としなければなりません。皆さんは特別に、ありったけの誠精を込めて祈祷しなければなりません。分かりますか?(ハイ)それでは誠精をどのように込めるのか?善は誠精についてくるので、7年路程を許されたアボジが何の条件もなしに7年の誠精を込められたので、皆さんはそれ以上の誠精を込めて、夜昼なく真っしぐらに駆けねばなりません。分かりますか? こんな誠精を込めるに、休む時がありません。
先生は1965年、韓国の聖地の土を世界120か所に分けて与えました。こんな過程で世界の地を連結させようと、日本に行きました。ところで日本で、先生に逢いたくて夢中になった人間が来ました。事実、先生は狂ったといえば狂っているのです。ところで何に狂っているかが問題です。神の国を創るのに狂っているのです。
それでは今、どうすべきか? 地上を連結させる立場になれば、その次に人間を連結させるのです。人間の中の真の人間、誠精を込めた人間です。先生は誠精を込めた人々の心と、統一教会の人々の心を互いに一致する方向に連結させようとしているのです。そのために先生は自ら、皆さんのお使いをすることまで躊躇しません。それゆえ彼らの誠精を中心に、そんな祈祷をしなければなりません。皆さん、祝福が何であるか知ってますか? 先生は祝福をしなければなりません。実権主義者たちの享楽的な関係は、人生を敗北させる決定的な状態に至っています。ところで女性たちはこのようなことを知りません。
先生が日本に行く時、一等の飛行機に乗って行かなければならないと、日本の人々は家を売っても一等の切符を買って、パッと飛べるようにしたのです。そのようにやったのです。我々統一教会は、普通の人間が理解できないことをやるのです。今先生は世界を巡回して回って、7年の峠を完全に終結させて越えなければなりません。分かりますか?
それゆえ皆さんはみ旨の行く道のために、誠精を込めなければなりません。言い換えれば犠牲を覚悟して、涙と血と汗を流す覚悟をしなければなりません。物心両面から世界の為に、全てのものを捧げなければなりません。
世界を復帰することが出来る秘法
神がアメリカを祝福されたのは、誰のためでしょうか? 皆さんはアメリカを愛された神の心と一致する心で、誠精を尽くさねばなりません。これが今日、皆さんに許諾されたことです。分かりますか?(ハイ)そのようにしたい人、手を挙げて。皆さんがこのように力強く手を挙げれば、先生は出て行けます。何の話か分かりますか? 先生が行く道の前に、皆さんが誠精を込めてくれれば、先生はしっかりと報います。他の人々はみな先生を悪く言いますが気にせず、追われることがあってもみ旨の為に誠精を込める人間は、びくともしないのです。先生は後ろ暗い人間の前では威厳を保つのですが、誠精を込める人間の前では気後れがするのです。ならば神様をがっちり結びつける秘法は何でしょうか? 鞭うたれ追われても、戻ってきてその鞭を忘れて再び訪ね、そうするより他に仕方がない事情があったと、アボジに許しを求めるのです。それでむしろアボジを慰める人間にならねばなりません。そんな人間がいたなら、ならず者のようなアボジであったとしても、心が溶かされるのです。こんな人間が「アボジここにお出で下さい」と言えば「どうりや わが息子よ!」とされるのです。こんな人間には神もとりこになるのです。そんな人間が神をがっちり縛りつければ、神は「がっちり縛られても良い、もっと縛ったくれ」とされるのです。これが世界を復帰する秘法です。
先生が皆さんにお願いしたいことは、み旨に従って行く道においては、自分のために祈祷することより、世界に広がっている日本、アメリカ、ドイツ等、外国の食口たちの為に祈祷して、誠精を込めることです。全世界人類の為に祈祷して、誠精を込める皆さんにならねばなりません。分かりましたか?
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