|
毎日新聞 2023/9/27 地方版 有料記事 3184文字
大正十二(1923)年九月二日 やがて鮮人騒擾(そうじょう)の報が伝わり始めた。曰(いわ)く鮮人が爆弾を投擲(とうてき)する為(ため)にかく大火となったと云(い)ふ(略)など虚伝頻々として伝わる(当時は事実としか思へなかった)
九月五日 逃亡鮮人惨殺の報が頻々として来る、不時に際して人心の真を知ることが出来る当時其(その)行動に対し是々非々する各自其真を吐露するので其人を知ることが出来た、夜陰雨蕭々(しょうしょう)として降る
妻沼(めぬま)町(当時。2005年に熊谷市と合併)が関東大震災(1923年9月1日)から5年後の28年に編んだ「妻沼町誌」に収録された、町の日誌と思われる記述である。「鮮人」という差別的な語感を伴う言葉を使って、震災翌日には、利根川を挟んで群馬県に接する小さな県境の町にも、朝鮮人虐殺につながるデマが広まっていたことが分かる。
それから3日後に出てくる「惨殺」の2文字。素性は伏せられ「其人」と書かれた犠牲者は、秋田県出身の21歳の青年だった。「夜陰雨蕭々」という叙情的な一文に、書き手の感情が託されているように思われた。
東北弁がわざわい
関東大震災下での朝鮮人虐殺。千葉県福田村(現野田市)では、朝鮮人と間違えられた9人の日本人が自警団の手で殺害された。これを題材にした劇映画「福田村事件」(森達也監督)の公開で知られるようになった。
9人の遺体は利根川に投げ捨てられた。そこから直線距離で約50キロ上流の妻沼町では、福田村での惨劇の前日に、事件が起きた。
初報となった東京日日新聞(現在の毎日新聞)23年10月18日付紙面によると、9月5日午後5時ごろ、この青年は町内を歩いているところを警戒中の自警団に捕まった。「日本人だ」と説明しても、自警団は納得せず、派出所に連行した。所長の巡査部長が調べ、秋田県出身の製缶工、戸森友次郎と分かった。所長が派出所を取り囲んだ自警団にその旨を説明している最中、恐怖に震えていた青年がうれしさのあまり「万歳」と叫んだのを生意気だとばかりに、30人余の自警団員に引きずり出され日本刀などで惨殺された。
歴史の波間に消えかかっていたこの事件のあらましを8月24日付で報じた。取材に協力していただいた妻沼聖天山(しょうでんざん)歓喜院の鈴木英全院主(81)から「記事を読んだ知人から手紙が来た」と連絡が入ったのは6日後のことだった。
送り主は元県警警察官で、県郷土文化会理事を務める郷土史家の佐藤繁さん(81)だった。手紙には犠牲者の名前がしたためられ、「結局悲劇は東北弁がわざわいしたようです」と書かれていた。妻沼派出所での勤務経験があるという。
見知らぬ者は標的
佐藤さんを訪ねた。61年に奉職し、定年で退職するまでの間、地域部門を歩んできた。69年から9年間、妻沼派出所に詰めた。「現在は移転しましたが、私が勤務した当時の妻沼派出所は、事件があった場所に戦後建て替えられた施設でした。タブーというわけではないでしょうが、事件のことは警察内で一切耳にしなかった」と、話し始めた。
事件を知ったのは、着任してほどなく、妻沼町の町史編さん室長の奈良原春作氏(故人)と懇意になってからだった。「秋田の方言が理解できなかったことが事件の発端だったと言っていました。奈良原さんは僕が驚くかと思ったようだけど、『どこでもあったんだ』と、すんなり納得できたんです」
その時、佐藤さんは少年時代、母親の本家の当主から聞いた話を思い出していた。震災直後、当主が15歳ごろの話という。川越市の新河岸川にかかる養老橋を渡っていると、自警団から「見慣れないやつだ。朝鮮人だろう」と言われて、松の木に縄で縛られた。「殺される」。恐怖で震えていると、見知った人が現れて救出された。
「『危うかった』と話す、苦しげな表情は忘れられない。あの当時、日本人だろうが、朝鮮人だろうが見知らぬ者は片っ端にやられたんだろうね」。ましてや、交通網がほとんどなかった時代、妻沼町で東北弁を耳にしたことのある人はほとんどいなかったと思う、と付け加えた。
隠されていた歴史
殺害現場となった派出所があった場所は更地となり、路線バスの折り返しの駐停車場に使われている。周辺には商店や民家が並ぶ。事件のことを知らないか訪ねて回ったが、皆一様に首を振った。間近に位置する聖天山歓喜院の鈴木院主も、最初の取材では「初めて聞く話」と言った。
日本人の誤殺という衝撃的な事件である。加えて自警団の町民14人が検挙、起訴されている。なぜ、という疑問がわく。
「地元の人の口から事件について聞いたことはなかった」と振り返るのは、熊谷市教育委員会の元市史編さん室長で、現在も協力員を務める山本喜久治さん(71)である。
その理由についてこう読み解く。「妻沼だけではないのですが、県内の虐殺事件に絡む裁判では、各町村が弁護費用などを全面的に支援していました。地域から犯罪者を出したくないという意識は相当あったでしょう。それが語られない、隠されていた歴史につながったのではないか」
県内では県北部の熊谷、本庄、神保原、寄居、妻沼などの各町村(当時)で虐殺事件が起き、犠牲者は約200人とされる一方で、自警団員ら100人を超える人たちが訴追された。興味深い新聞記事がある。裁判の模様を報じる東京日日新聞23年10月23日付埼玉版紙面である。「騒擾事件の寄付被告」の見出しで「(前略)妻沼村(実際は町)もまた村民の寄付出費をしており、総数百十四名は何(い)づれも町村営被告の観がある」。「町村営被告」とは言い得て妙である。
例えば、当時の新聞報道では、86人の朝鮮人が殺害された本庄の虐殺事件で起訴されたのは33人。実際にはもっと多くの人たちが関わったとみられる。
妻沼の事件にしても、「自警団員三十余名のため惨殺された」(東京日日新聞23年10月18日付紙面)とあるが、起訴されたのは前述のように14人である。町の立場から見れば、被告人たちは「町の犠牲者」という逆立ちした贖罪(しょくざい)感があったのかもしれない。
不当な差別的感情
それにしても、殺害された秋田の青年は警察官の手で日本人と証明されたはずである。同編さん室の近現代史担当の水品洋介さん(45)は「異常心理」という言葉を使った。「経験したことのない大災害が起き、『朝鮮人が火をつけた』というデマが流れる。でも、当時は事実として伝わった。極度の興奮状態の中で『やっちまえ』という異常心理にあったと思います。『日本人だ』と言われても、彼らは最後まで朝鮮人と信じて手を下したのではないか」。そこに群集心理が重なった。むろん、朝鮮人に対する不当な差別的感情があったことは忘れてはならない。
「みこしは暴れたら止められない」。元警察官の佐藤さんの言葉が頭をよぎる。群集心理の恐ろしさをたとえた言葉という。「興奮状態の渦に巻き込まれたりしたら、こっちが大けがする。雑踏警備を経験した者でないと、群集心理の怖さは分からない」
◇
彼岸の中日に当たった9月23日、聖天山歓喜院の塔中寺院、花蔵(けぞう)院。鈴木院主ら6人の僧侶による読経の声が響いた。並べられた真新しい塔婆の中に「関東大震災犠牲物故者精霊」、そして「関東大震災時デマ犠牲者戸森友次郎殿精霊」と書かれた2枚があった。事件から100年を数える中での初供養である。
鈴木院主は言った。「心が痛みます。二度とあってはなりません」。知った者の務め。そう言っているように感じられた。30人の参列者を前に、事件のあらましを伝え、人を差別する心の愚を説いた。
祈りは戸森に届いただろうか。利根川に捨てられた遺体は見つかっていない。【隈元浩彦】=随時掲載