|
毎日新聞 2023/9/27 東京朝刊 有料記事 3059文字
丸井グループの運営する百貨店「有楽町マルイ」=東京都千代田区有楽町で2023年9月、中井正裕撮影
「当グループの過去5年間の人的資本投資は320億円。そのリターンは10年間で560億円です」。上場企業が公表する有価証券報告書(有報)に2023年3月期からこんな「人的資本情報」が記載されている。従業員をコストではなく、企業価値を生み出す投資対象と位置づける経営手法を浸透させる狙いだが、多くの企業が開示した内容は「期待外れ」だったという。一体、何が起きているのか。
丸井グループの社内公募型「Well-being推進プロジェクト」では参加メンバーが相互に講師役を務める=丸井グループ提供
ハードより高収益PR
社員一人一人のチャレンジに向けて「打席数」を評価指標として設けます――。ファッションビル「OIOI(マルイ)」で知られる丸井グループ(東京都)の23年3月期の有報には、事業内容や財務データに並んで、ユニークな目標が掲げられた。目標とするチャレンジ数は5000回。同社は「たくさん実験して、早く失敗することで、成功のためのノウハウを蓄積する文化を育み、イノベーションを創出し続ける企業を目指します」と説明する。
00年代に業績不振に見舞われた丸井グループは「社員の自主性を高め、創造力を発揮してもらうことで新たな成長の芽を育てる」という斬新な人材育成に取り組み、復活を果たした。
10年以上取り組んでいるのが、社員が自ら手を挙げて社内プロジェクトに参画する「手挙げの文化」づくり。新規事業プロジェクトやビジネス研修、グループ内異業種への職種変更などに社員が自ら応募する仕組みで、23年3月期は社員の約8割が手を挙げたという。働きやすくやりがいのある企業へ風土改革が進んだ結果、アニメ事業や、業務提携するベンチャー企業に投資する「共創投資」など新たな成長の芽が育ち、株価はこの10年間で2倍超に上昇した。
23年3月期から有報での開示が始まった人的資本情報では、人材育成方針とその目標や実績、女性管理職比率や男女賃金格差など多様性(ダイバーシティー)に関する指標の記載が義務づけられた。さらに、人材戦略に基づく企業の成長ストーリーを説明することも奨励されている。他社にはない独自性を示し、投資家との対話につなげることが大きな狙いだ。
丸井グループは2023年3月期の有価証券報告書で「人的資本投資」の内訳と総額を開示した=同社有価証券報告書より
丸井グループは「人的資本投資」の対象を通常の教育・研修費のほか、新規事業や共創投資に関わる人件費、異業種への職種変更1年目の人件費などと定義。23年3月期の人的資本投資は総額91億2800万円と、人件費全体の26%を占めた。さらに24年3月期から5年間で計650億円以上に拡大する計画だ。
人的資本投資の効果(リターン)は、アニメ事業や共創投資など新規事業が生み出す利益に設定。その額は17年3月期から10年間で560億円に上ると見積もった。店舗など固定資産への投資よりも人材投資の方が収益性が高いというストーリーをアピールする。
積極的に人的資本情報を開示し、差別化を図ろうとする企業もある。IT企業のサイボウズ(東京都)は「100人いれば100通りの働き方があってよい」という方針のもと、労働時間と場所を選択できる「働き方宣言制度」や副業自由化、最大6年間の育児・介護休暇、子連れ出勤などユニークな人事制度を次々と打ち出す。
昨年立ち上げた「サイボウズの舞台裏」という自社メディアでは、人事制度の誕生秘話や給与評価の方法を事細かに発信する。青野誠人事本部副本部長は「成功している取り組みだけでなく、人事制度における失敗や運用の苦労こそ、多くの人に知ってもらいたい」と話す。05年に28%まで上昇した離職率は、現在、従業員数が増え続けるなかでも3~5%程度で推移する。
欧米投資家、ソフト重視
企業の成長のために、工場や機械など生産設備(ハード)より、人の技術や経験(ソフト)を重視する「人的資本経営」は世界的な流れになっている。
気候変動やデジタル化など社会や経済が急速に変化するなか、08年のリーマン・ショックでは目先の利益を追った大企業が経営危機に陥った。
このため欧米投資家は、企業の成長力を評価するのに、収益力や財務状況だけでなく、「ESG(環境、社会、企業統治)」に代表されるソフトを重視するようになった。「人材」も企業の成長力の源泉と位置づけられ、生命保険協会の調査(23年4月公表)では、投資家の72%が「人材投資」を中長期的な投資基準として重視していると回答している。
人的資本の基準整備も進んでいる。国際標準化機構(ISO)は18年12月、人的資本の情報開示のガイドラインに関する初の国際規格「ISO30414」を発表。米証券取引委員会(SEC)はISOのガイドラインを受け、20年に上場企業に人的資本や多様性の情報開示を義務化した。
一方、日本企業は人材への投資を重視してこなかった。上司や先輩が日常業務で若手を指導するオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)が常識で、「人材に投資する」という視点が乏しかったためだ。
厚生労働省によると、10~14年に日本企業が従業員の能力開発にかけた平均金額は、国内総生産(GDP)比で0・1%。米国2・08%、フランス1・78%、ドイツ1・2%など他の先進国と比べて大きく見劣りする。
日本経済の実力を示す潜在成長率は1990年代以降低迷し、21年は0・4%まで減少。デジタル化や働き方の多様化に乗り遅れたことで、日本企業の生産性が欧米に比べて低い水準にとどまっていることが要因とも指摘される。
この状況を打破しようと、日本政府は大企業を中心とした約4000社に人的資本情報の開示を義務づけた。欧米投資家に評価されるような企業改革を促し、国際競争力を高める狙いだ。
日本、根強い横並び意識
では、実際に日本企業はどのような人的資本情報を開示したのか。
「ふたを開けてみると、まったく不十分だった。ほとんどが似たり寄ったりの横並びだ」。人的資本の研究やコンサルタントに20年以上関わってきたパーソル総合研究所上席主任研究員の佐々木聡氏は苦笑する。
女性管理職比率や男女賃金格差などの指標は多くの企業が公表したものの、目標を設定していないケースが多く、目標と実績をそろえて公表したのは「1割程度」にとどまったという。
さらに、丸井グループのように「人材戦略をどのように企業価値の向上につなげるのか」というストーリーを説明している企業はごくわずかだったという。
その予兆はあった。パーソル総合研究所が22年、従業員数1000人以上の上場企業の役員層、人事部長に実施した調査で、人的資本情報の開示で何を重視するか聞いたところ、「他社の動向」が77・7%と、本来の目的であるはずの「株価への反映」(70・1%)や「ESG関連の格付けスコアの向上」(69・4%)を上回った。
佐々木氏は「人的資本について経営陣に相談しても、『他社のマネをすればいいじゃないか』と相手にされなかったという話をよく耳にする。多様性、リスキリング(学び直し)など海外から来た価値観や経営手法にアレルギーを持つ日本企業の経営者は少なくない」と指摘する。
そのうえで「人的資本情報は開示することが目的ではなく、企業価値の向上や、投資資金の呼び込みにつながらなければ意味がない」と警告し、「横並びの姿勢では海外投資家に見放されてしまうという危機感を経営者がどれだけ肌で感じているかが今後の鍵になるだろう」と語った。
人的資本情報は、旧来の日本型経営を変え、「失われた20年」を脱する一手になるのか、パフォーマンスに終わるのか。企業の本気度が問われている。【本橋敦子】