愛天愛国愛人
4. 日本での生活始まる
憧れていた日本に失望
船から下船して、私たちは休む間もなく、すぐに父の郷里の千葉県香取郡津の宮へと向かいました。何度も汽車を乗り継ぎしましたが、どの汽車も米や野菜を抱えている乗客で満杯でした。東京をはじめ日本の主要都市は、空襲で焼け野原になっていました。人々は食糧に不足し、農家に直接出向いては物々交換をしてまた帰ってくるという有り様でした。汽車はそういう乗客でいつも満杯だったのです。
どの顔も私には心なしか、疲れているように感じました。敗戦のショックから立ち直るには、まだ時間が必要だったのでしょう。私は両親から常に口癖のように聞かされていた美しい日本、そして憧れの日本が廃墟同然になっている現実に直面して、心ひそかに誓っていました。「この日本を何とか再建したい。私にできることは何だろう」。
三日三晩汽車に揺られて、ようやく千葉に着きました。父の故郷は香取郡の佐原の近くです。あたりに利根川が流れる美しい所です。私はさっそく佐原中学校に転校の手続きをすませ、日本での生活が始まりました。約一年ほどして父が、銀行の残務処理をすませて、中国大陸から帰ってきました。久しぶりに家族揃って団らんの日々を過ごすことができました。
しかし、楽しい日々はそう長くは続きませんでした。日がたち、町の様子にも慣れてくると、日本の現実の姿が私の目にもはっきりと見えるようになりました。その日本は両親から聞かされていた日本とは違います。自然も美しく、人情に厚い親切な日本。そんな日本はどこにもありませんでした。今考えてみれば、日本はまだ敗戦のショックから立ち直ることができていなかったのです。日本人全体が自分の生活のことで精いっぱいでした。少年であった私の心には、人々の心がすさんで見えたのです。大陸帰りの者に対する日本人の態度が、冷たいように私には感じられました。憧れていた日本とのギャップのせいだったのかもしれません。私はすっかり落ち込んでいました。
利根川に、いっそのこと身を投げようと思ったこともありました。日本は確かに美しい、川の水もきれいだ。しかし、そこにいる人間の心が汚い。このことに気づいた時、私にとって憧れの日本に帰ってきた意味がなくなってしまいました。空しさが襲います。将来も、もう考えることもできない。私はすっかり厭世的になっていました。世をはかなみ、いっそのこと死んでしまえとまで思い込むようになっていたのです。
東京へ移転
そうした私の悩みのことは、家族の誰も分かりませんでした。私は誰に相談することもできず、自分の心の内にしまい込んで、耐える日々が続きました。佐原中学では、私は野球部に所属し、表向きには、けっこう楽しく生活していましたから、両親も私の本質的な悩みにまったく気がつかなかったようです。
そうこうしているうちに、父は一家を支えるために、ある建設会社の経理係の職を見つけました。会社が東京でしたので、私たちは佐原をあとにして、東京に移り住むことになりました。都会の生活の始まりです。
佐原中学から東京の慶応中等部に転校し、まもなくそこを卒業したあとは、そのまま慶応高校に進学しました。しかし、東京も私の心の安住の地ではありませんでした。敗戦後のどさくさとはいえ、日本の社会も日本人の心も乱れていました。毎日の新聞の社会面を賑わす強盗、殺人の記事に、私の心はますます憂鬱に沈んでいったのです。
大陸で両親から聞かされ、私の心の中に抱き続けた日本のイメージはもろくも崩れ去っていました。心はすっかり厭世的になり、何も手につかない日々が続きました。将来に何の希望も託すことができないままに、私の生活も徐々に退廃的になっていきました。
そのころ、私はふとしたことから、ヤクザとして有名なある組の幹部と出会うことになりました。彼からひどく可愛がられ、だんだん深みに入っていきました。ある日、その幹部がついてこいと言うので、のこのこついていくと、渋谷のガード下でヤクザ同士の乱闘が始まりました。ヤクザが数人刃物で刺しつ刺されつの血みどろの闘いをしているのです。腰もぬかさんばかりに仰天して、私は一目散にその場から逃げ去りました。そんなこともありました。
日に日にすさんでいく私に母が気づかないはずがありません。表情も険しくなります。ささいなことで、ふてくされたり、反抗したり、親も手に余すようになりました。母は心配して、眠れぬ夜が続いたそうです。
甲子園出場
だんだん生活もすさんでいく中で、唯一私が打ち込むことができたのは、野球でした。野球を始めたのは、日本に引き揚げてすぐ転校した佐原中学の時です。千葉県ではなかなか野球の盛んな学校でした。巨人に入った城之内投手など、二、三の有名な選手が出ています。国会議員で、精神障害の娘から殺害された山村新次郎議員も、佐原中学で同じ野球部でした。
東京に移って、慶応中等部でも野球部に入りました。ある日門の所で物思いに耽りながら、立っていたことがありました。大陸から帰ってきた者はどことなく違っていたようです。ボーッとしていたのです。その時、後ろから二、三人の部員が声をかけてきました。「君、君、体格いいですね。野球部に入りませんか」。私はそのままグラウンドに連れて行かれました。翌日野球部に正式に入部することになったのです。
あとで知ったことですが、その時野球部は私を入れて十人しかいなかったのです。なのにその夏の東京大会で優勝してしまいました。晴れて甲子園出場です。昭和二十六年ころのことです。それに続く翌年の春も連続出場しました。甲子園では残念なことに、出ると一回戦で敗退しました。十人しかいないチームではどうしようもありません。
先ほども話しましたが、私がバッターボックスに入ると、相手のピッチャーの投げる球が止まって見える。これは川上哲治が同じような体験をしていたそうです。だからすぱっと打てる。大事なときにこうして、ヒットを飛ばしたものですから、東京代表として甲子園に出場できたのです。その時の相手のピッチャーが大崎三男という人で、後の明大の主戦投手となり、阪神タイガースのエースになった男です。
満州から日本に帰ってきて、なかなか日本に馴染めない。日本のなんたるかが分からない。自殺を考えたり、ヤクザと付き合ったりといった私の退廃的生活でしたが、野球に打ち込んでいる時、私はしばし心の苦痛を忘れることができました。全身全霊を打ち込むことができたのです。陰鬱な時期における唯一の憩いの時でした。燃焼した青春時代でもありました。
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