+神をたたえよう。神は偉大、すべては神を造られた。
今日は年間第6火曜日です。
すべて依り頼む者に対して恵みゆたかなるイエズスの聖心とよろこびの源聖マリア、そして諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようにお祈りします。
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マルコによる福音
<ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい>
そのとき、8・14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。(マルコ8・14-21)
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キ·ギョンホ神父様の黙想文「神を悲しませるパン種」です。
私たちは生きていく中で、お互いに喜びだけでなく、ときには傷や悲しみを与えてしまうこともあります。しかし、自分のせいで悲しんでおられる神様の存在を意識したことがあるでしょうか?
今日の福音の中で、イエス様は弟子たちに 「お前たちはそんなにも頑ななのか?」(マルコ8:17) と嘆かれ、 「まだ悟らないのか?」(マルコ8:21) と問いかけられます。なぜイエス様は嘆かれたのでしょうか?
イエス様は 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15) と言われます。パン種に気をつけるとは、彼らの偽善と悪しき模範に倣わないように、という戒めでした。しかし弟子たちは常にイエス様のそばにいながらも、現世の心配や自分自身のことにばかりとらわれて 「命のパン」として来られたイエス様を認識できなかった のです。彼らは 空の鳥や野の花をさえ顧みられる神様(マタイ6:25-34) を信頼せず、すでにパンの奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、パンが一つしかないと心配していました。このような愚かな態度が、最終的にイエス様を十字架へと追いやることになるのです。
一方、神様は罪に満ちた人間の心を見て「人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6:6) とあります。しかし神様は、ご自分のもとで正しく、傷のない生き方をしていたノアとその家族だけは生かされることを決められました。
しかし、罪を犯したのは人間なのに、なぜ人間だけでなくすべての生き物もその罪の罰を受けなければならなかったのでしょうか?
この世界に存在するもの、見えるものも見えないものも、すべては有機的につながっています。そのため、どんなに小さな罪であっても、世界全体を汚すのに十分な影響を与え、一つの体の部分が苦しめば、他のすべての部分も痛みを共有するのです(1コリント12:26)。しかし、ノアは神様を知り、その掟に忠実に従っていたため、自分と家族、そしてすべての生き物を救う 新しい創造の出発点 となることができたのです。
私たちも「信仰の箱舟」に身を委ねることで、世のあらゆる心配や恐れから解放され、神のいのちにあずかるべきです。
信仰とは、私の人生の根幹、基準、方向を神様におき、主を 「私に永遠の命を与えてくださる方」 として、また 「私の人生において最も重要な存在」 として受け入れることです。 いのちのパンそのものである主 は、すべての人を養い、さらには 七つの籠いっぱいに余るほどの計り知れない豊かさ をもたらしてくださいます。
しかし私たちは愚かにも、目の前にある「パン種」、すなわち 頑固さ、所有欲、肉の精神 に心を奪われ、真に見るべき宝に目を向けることができないまま生きてしまうことが多いのです。信仰とは、純粋で愛に満ちたまなざしで全てを見つめ、神様の御言葉とイエス様の教え、そしてその行いを 「今、ここで」実行すること です。信仰とは、善そのものであり、あらゆる善の源である主のうちで成されるすべてを 「良いこと」として喜んで受け入れる生き方 なのです。
もし、万事を信仰の目で見ることができなければ、無用な心配や不安の中で迷い続けることになるでしょう。
そうです!信仰とは、古い習慣や固定観念、偏見、先入観を捨て、神様の目で新たに世界を見ることです。
イエス様に徹底的に倣うということは、その心、人々への接し方、物事の見方を自分のものとすることから始まります。 主のまなざしで世のすべてを見るならば、すべての人と出来事が 感謝の理由となり、新たな創造の機会となるのです!
さらに、理由のない苦しみや試練、不当な扱いや誤解、絶望的な瞬間、自分の長所と短所、他者への感情などを、主のまなざしで「もう一度」「新たに」見つめ直すべきです。 それこそが、私たちが生きる道であり、今日も 私たちの罪と悪しき思いを見て嘆かれる神様の御心を理解する 神の子としての姿勢 なのです!
「本当に、私の人生のどの部分が、私の心のどんな思いや考えが、主を悲しませているのだろうか?」
愛と真理そのものである主よ、あなたのまなざしで、すべてを新たに見ることができる「信仰の目」を私に与えてください!
主よ、私の中にある誤った思い、偽善、頑固さ、高慢、所有欲、貪欲、権力欲、嫉妬、妬みといった「パン種」を取り除いてください!
私たちの罪と不信のゆえに、あなたが嘆かれ、後悔されることがないように、今日もあなたのもとに留まり、あなたの御言葉を渇望し、ただあなたのうちに満たされる者となることができますように!
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私たちは毎日の聖書を読み、愛を実践し、主の香ばしいパン種のキリスト者となれますように!聖霊、来てください。パクアグネス