+神をたたえよう。神は偉大、すべては神を造られた。
今日は年間第8火曜日です。
永遠の丘の希望なるイエズスの聖心と信仰深い聖母マリア、そして諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようにお祈りします。
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マルコによる福音
<今この世で、迫害も受けるが、福も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。>
そのとき、10・28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10・28-31)
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ソン・ヨンミン(使徒ヨハネ)神父様の「今日の黙想」です。
「贈り物」と「賄賂」の違いをご存じですか?
贈り物には、贈る人の喜びと愛が込められていなければなりません。シラ書の言葉のとおり、「喜びの心で」、「いつも楽しげな顔をして」、相手の喜びを自分が先に味わうことが大切です。しかし、「賄賂」には、相手のことではなく、自分の利己的な欲望が潜んでいます。自分にどのような利益が返ってくるのかを計算し、もし期待したほどの見返りが得られなければ、怒りや恨みを抱くことになります。それが、贈り物との決定的な違いです。
もちろん、何の条件もない純粋な贈り物というものは存在しないかもしれません。たとえ自分が純粋に贈ったつもりであっても、いつか相手が何らかの形でその贈り物に対するお返しをしてくれることを期待するのが正直な気持ちでしょう。そう考えると、私たちはもしかすると賄賂のような贈り物をやり取りしているのかもしれません。
イエス様の弟子たちは、イエス様をメシアと確信し、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし、同時にそれに見合う世俗的な報酬を密かに期待していたのです。そして、彼らはイエス様に対して、自分たちは何を得られるのかを率直に尋ねます。果たして、弟子たちが求めていたものと、彼らが実際に得ることになるものの間には、どれほどの違いがあったのでしょうか?
イエス様は、条件付きでご自分に従った弟子たちに、新たな条件を提示されます。それは、「イエス様のために、また福音のために」すべてを捨てた者が得る驚くべき報いについての約束です。興味深いのは、この祝福が、イエス様の最も側近であった弟子たちだけでなく、「誰でも」、イエス様のために、また福音のために生きるすべての人々に祝福を約束されていることです。
私たちは、信仰生活を通して何を得ようとしているのか、自らに問いかける必要があります。もしかすると、私たちが神様に捧げる祈りや善行、教会での奉仕が、あまりにも多くの条件がついた賄賂になってはいないでしょうか?
私たちの計算とは異なる神様の計算によって、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」その中で、私たちはどちらの側にいることになるのでしょうか?
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頂いたすべてのものからいつも喜んで感謝の奉献ができますように!聖霊、来てください。パクアグネス