|
毎日新聞 2023/11/25 東京朝刊 有料記事 1018文字
<do-ki>
亡くなった池田大作創価学会名誉会長に一度だけ会ったことがある。当時30代。困難を承知で池田氏への直接取材をあれこれ仕掛けていたら、本紙コラムニストの故岩見隆夫氏が聞き手となるのを条件に、インタビューが実現した。名刺を渡すと「ずいぶんご熱心で」と言われ、副会長の一人が「一生の勲章ですね」と笑った。握った手はとても柔らかかった。
担当でもない創価学会を取材し始めたのは、それより10年以上前。担当だった公明党取材に行き詰まったからだ。当時の故市川雄一書記長は、朝日新聞、共同通信、NHK以外は冷遇すると広言。苦し紛れに支持母体へ回り込んだのだ。記者に限らず誰にでも厳しく、若手有望株だった現在の山口那津男代表や北側一雄副代表への指導は特にきつかった。
Advertisement
池田氏は若い頃、創価学会の政界進出を号令した戸田城聖第2代会長の参謀室長だった。市川氏は政界に入る前、池田第3代会長の参謀室長を務め、この特別な肩書に強い誇りを持っていた。
市川氏は小沢一郎氏との「一・一ライン」で自民党を下野させ、細川護熙首相の非自民連立政権で公明党から4人の大臣が誕生。池田・市川路線の頂点だったが、自民党や反学会勢力の反撃で再び野党となり、新党合流・分裂、自自公連立という曲折をたどる。
市川氏は舞台裏へ退き、沈黙。「守りに入った池田氏に切られた」と言われたものだ。市川氏から当時オフレコで聞いた言葉は忘れられない。「今でも自分が参謀室長を解かれたとは思っていないんです。私だからこそ学会を守れるという自信がある」
自公連立がこれほど長く続き、「宗教政党」創設者として大成功したはずの池田氏だが、その政治手法にはトラブルや目算狂い、迷走や失敗もつきまとう。
作家の松本清張氏を仲立ちに、共産党との共存を約した創共協定はその一つ。交渉を担当した故上田耕一郎共産党副委員長に後日談を聞いたことがある。
「熱心だったのは池田氏。驚いたことに、実は宮本顕治委員長(当時)に憧れていて、提携したら社会的に尊敬されると信じていた」。なのに公表後、自民党や右翼、公安まで猛批判が起き、池田氏はあっという間にほごにした。
7歳下の市川氏が語っていた自身の回想と重なる。「川崎市の工場街で荒れていた不良少年が、この間違った戦後社会を変えたい、ひと暴れしたいと思ったら、共産党と創価学会のどっちに入るか。どっちでもよかった。そういう時代だったんです」(専門編集委員)