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発達障害のある「葉っぱ切り絵」作家・リトさんの作品「君とまた笑顔で会える日を楽しみにしてます」=東京都品川区で2022年3月4日、内藤絵美撮影
前回は、糖尿病の呼称変更の話題に乗じて、2002年に「統合失調症」という新しい病名が誕生したときの経緯を説明しました。
この名前、もとは「精神分裂病」といいました。ドイツ語の「Schizophrenie」に当てた訳語で、1937年に日本精神神経学会が採用を決めました。
さらに、精神分裂病より前にもうひとつ別の病名があったんですが、こちらは精神医学に詳しい人以外は知らないかもしれません。「早発痴呆(ちほう)」っていうんですけど、聞いたことありますか?
これはSchizophrenieの前に使われていた「Dementia praecox」の訳語です。近代精神医学の父、エミール・クレペリンが、自身の学説に基づく疾病分類を作った際に使用したものです。
19世紀末、この病気の概念が出来立てホヤホヤの頃でしたから、病名の方もすぐにひっくり返る。世紀をまたいだとはいえ、精神科医のオイゲン・ブロイラーが唱えた新しい名称 、Schizophrenieが天下を取るまでに、そんなに年月はかかりませんでした。
統合失調症の三原俊弘さんが小学4年の時に描いた牛の絵=島根県出雲市で2022年10月6日、目野創撮影
日本の近代精神医学は、明治時代からドイツを手本にしてきましたから、用語もあちらの最新の動きに合わせて変えてきたのでしょう。「精神分裂病」という名称も、最初はさしたる抵抗もなく受け入れられたのだと思います。
しかし、それは次第にまがまがしいイメージをまとってスティグマ(負の烙印=らくいん)化し、患者さんや家族は偏見や差別に苦しむことになったのです。
この状況を改善すべく、日本精神神経学会が病名変更に踏み切った経緯については前回に説明したとおりです。
精神科のおかしな病名
上に述べましたが、ドイツ精神医学は日本の精神医学の源流であり、私が医学生だった70年代終わりぐらいまでは本流でした。ところが、米国精神医学会の発行する「精神疾患の分類と診断の手引(DSM)」の登場によって、流れは大きく変わりました。
とくに80年に刊行された第3版(DSM-3)以降、このシリーズが日本の精神医学、精神医療に与えた影響は絶大でした。現在では、精神科の医者が診断の際に使う病名は、ほとんどが米国からの輸入品です。
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米国精神医学会の「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、略称DSM)」=著者提供
もちろん、それらは一つ一つ日本語に訳され、医学用語としても行政用語としても通用するものになっています。しかし、翻訳の過程でおかしな名前の病気がたくさん生まれてしまったようにも思えます。
たとえば、いま話題の発達障害がどうなっているか、DSMの最新版、DSM-5-TR(第5版改訂版)で見てみましょう。
発達障害を意味する「神経発達症群(Neurodevelopmental Disorders)」というカテゴリーには、次のような名称が並んでいます。順に見てみると、知的発達症(知的能力障害)、コミュニケーション症群、自閉スペクトラム症、注意欠如多動症、限局性学習症、運動症群、他の神経発達症群。
「群」とあるのは、いくつか似たような障害を集めたグループぐらいの意味に考えておいてください。それはいいとして、そもそも「神経発達症」とは? その他の病名も、どんな障害か字面を見ただけで想像できるのは「知的能力障害」と「注意欠如多動症」ぐらいではないでしょうか。
神経発達症とは、すなわち神経が勝手にどんどん発達してしまう病気である。限局性学習症は限局的な分野ばかり学習したくなり、運動症においては運動しょう運動しょうと運動したくなる……。
こんなことばかり言っていると、同業者ばかりか患者さんからも嫌われてしまうので、やめておきましょう。
どうしてこんな名前になったかというと、「障害」と訳していたところを「症」に置き換えたからです。
DSM-5までは、「○○症」に旧名の「○○障害」が併記されていたのですが、最新の改訂版では、知的能力障害をカッコに入れて残した以外はみな「症」に統一されました。
旧名ならば、○○の機能が障害されているという本来の言葉の意味が通じますから、こちらの方が親切といえば親切。それでも、無理を押して「○○症」で統一を図ったのは、やはり「障害」の二文字を使うのを避けたかったからでしょう。
「障害」の二文字の重さ
DSMシリーズの翻訳はとても大きなプロジェクトらしく、DSM-5のときには日本精神神経学会が14の関連学会・委員会から代表者を招いて精神科病名検討連絡会を組織し、17回にわたる連絡会議を開いたそうです。
連絡会は、病名や用語の邦訳にあたってガイドラインを作成し、翻訳を担当する者にはそれを順守して訳出するよう指示したとのこと。その基本方針は、だいたい次のようなものでした。
①病名や用語はわかりやすく患者さんの理解と納得が得られやすいものであること、②差別意識や不快感を生まない名称であること、③国民の病気への認知度を高めやすいものであること、④直訳がふさわしくない場合には意訳を考え、カタカナをなるべく使わないこと、⑤病名のdisorder を「障害」ではなく「症」と訳すこと。
以上は、「DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引」(医学書院、2023年)からの抜粋ですが、①から④には統合失調症の呼称改正のときの経験が生かされているように思います。なのに、結果的には「神経発達症」のようなわかりにくいものだらけになってしまった。なぜでしょう。
その理由が⑤にあるというわけです。つまり、原語の“disorder”をこれまでずっと「障害」と訳してきたが、それでは時代に合わなくなってきた。DSM-5の翻訳の折には、児童青年期を専門にする委員から、病名に「障害」とつくと患者さんや家族に大きな衝撃を与えるという理由で「症」に変えるよう提案がなされたといいます。
舞台に立つ、発達障害児の藤井陽斗さん演じる佐賀ハルレンジャー(中央)と師匠のなつレンジャー(左)、ウマカバン=佐賀市で2020年2月9日、池田美欧撮影
子どもの臨床に携わる私の同業者たちは、「障害」の二文字の重さをよく知っています。とくに発達障害においては、以前から「害」の字を「がい」と仮名にしたり、さまたげるという意味の「碍(がい)」に変えたりして、少しでも「衝撃」を小さくしようとする動きも見られました。
ですから、これを「症」に取り替えてしまえば、子どもや家族ばかりでなく自分たちも荷物が軽くなってお互いのためになると考えたのでしょう。しかし、一律に全取っ替えしたのは芸がなかったし、新しい病名もユーザーにとっては不親切なものになってしまいました。
あらためて「発達障害」とは
統合失調症という病名は、病気の本態を端的に説明しています。この病気では、脳の認知機能の障害により周囲の世界を構成している物事の意味がまとまりを欠いて、それまで当たり前だったことがよくわからなくなってしまいます。
これは患者さんの側から見れば、意味をまとめあげる力、すなわち統合する力が弱っているということになるでしょう。その状態を表す名前が「統合失調症」なのです。
ボランティアが抱くセラピー犬と触れ合う統合失調症の患者さん=鹿児島市の鹿児島精神衛生協会・社会復帰施設診療所で2002年12月27日、内田久光撮影
旧名の精神分裂病だと、分裂してしまったら元に戻らない感じがしますが、統合失調症は失調ですから、いまは弱っているけど回復したら元に戻るという含意があります。実際に、この病気は昔よりずっと治しやすい、治りやすいものになっています。
さて、現在の「発達障害」にはもっと良い呼び方はないでしょうか。
これまでのなりゆきを振り返ると、そもそも“disorder”に「障害」の訳語を当てたのが間違いの始まりではないかとも思えます。
ちょっと英語のおさらいをしておくと、disorderの“order”は順序、秩序、整頓、等級、命令、注文……と、辞書を引けばたくさん意味が載っていますが、語源は「隊列を組んだ兵士の集団」にあるそうです。
この頭に反対、逆、剥奪、分離、否定などの意味を持つ接頭語の「dis」が付いて“disorder”、すなわち「隊列から外れている」状態ということになります。日本語の「障害」とは、言葉から受ける印象がだいぶ違いますよね。
人間、人それぞれ発達の仕方は違うわけで、どういう「隊列」を作るかによって、集団全体の何%かに列に加われない人が出てきてしまいます。それを個人の発達のせいにして「〇〇障害」と呼ぶのはいかがなものか。だって、隊列は社会の要請によって作られるのですから。
だとしたら、これはもう、翻訳の問題ではすまないって話になりますね。
特記のない写真はゲッティ
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山登敬之
明治大学子どものこころクリニック院長
やまと・ひろゆき 明治大学子どものこころクリニック院長。同大文学部心理社会学科特任教授。1957年東京都生まれ。精神科医、医学博士。専門は児童青年期の精神保健。おもな著書に「子どものミカタ」(日本評論社)、「母が認知症になってから考えたこと」(講談社)、「芝居半分、病気半分」(紀伊國屋書店)、「世界一やさしい精神科の本」(斎藤環との共著・河出文庫)など。