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毎日新聞 2023/12/9 東京朝刊 有料記事 2077文字
自警団員らによる惨殺の現場に、事件を物語る史跡や記録は何もなかった=千葉県野田市三ツ堀の香取神社で11月24日、井上英介撮影
関東大震災から100年の今年、映画「福田村事件」が公開された。発災5日後の1923年9月6日、香川県から来た薬の行商の一行15人が千葉県福田村(現野田市)で自警団員らに襲われ、妊婦や子供を含む9人が殺された。15人は被差別部落の出身だった。この史実に基づく森達也監督の作品だ。
震災では「不逞鮮人(ふていせんじん)が混乱に乗じて放火した」「井戸に毒を投げた」などのデマが広がり、朝鮮人数千人が殺されたが、日本人が襲われたこの事件を私は知らなかった。作品は、終盤の襲撃場面に向けて加害側の村人たちと被害側の行商団員を淡々と描く群像劇だ。作品を評価する人には申し訳ないが、見終わってげんなりした。事件や背景の差別の構図を伝えようと、いかにもいそうな人物たちが説明臭いセリフを言う。よくある再現ドラマじゃないか……。
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突き詰めれば映画の評価は個人の好き嫌いだが、それではすまない問題もある。被害者の描かれ方だ。行商の子孫は作品を見てどう感じたのか。今も差別に苦しむ香川の犠牲者の故郷を訪ねた。その末裔(まつえい)に当たる男性は怒りを含んで私に言った。「行商を面白おかしく描き、ばかにしていると思った」
部落差別は現に存在し、男性の詳細は明かせない。彼は映画のおかしな描写を列挙した。行商のリーダーが道中、怪しげな山伏姿で薬を売るシーンもその一つだ。「がまの油みたいなニセ薬を売る設定だが、事実に反する。当時の行商はまっとうな商売をしていた」と言う。
男性の住む地域は差別を乗り越え生き抜くために、困難を伴う行商に活路を求めた歴史を持つ。男性の祖母や母は反物から呉服を仕立てて売り歩き、各地に得意客がいた。「祖母は懸命に働いて家を何軒も建てた。呉服も薬も信用が命。まがい物を売るなど考えられません」
森監督は作品について映画の公式パンフレットで、凶悪な加害者と善良な被害者の構図ではなく「条件が重なって善良な人が善良な人を大量に殺す。人間は冷酷で残虐だから凶暴になるわけではない」と語る。だが、男性は「村人たちは善良だったのか」と問う。内面に朝鮮人や部落への差別、行商蔑視が折り重なっていなかったか、と。
野田市で事件の掘り起こしに長年取り組む元同市職員の市川正広さん(80)はこれを「複合差別」と呼び、襲撃の背景として重視する。研究者の間では、行商が讃岐弁で朝鮮人と間違われたというのが定説とされてきたが、市川さんは「加害者側が言い訳に使った理屈だ」と単純な讃岐弁誤認説を否定する。
いやしかしこの映画はフィクションで、史実に即す必要はない――という意見もあろう。これについて森監督はパンフレットで「フィクションとは言っても史実のエッセンスを大切にした」と語る。一方、ジャーナリスト池上彰氏との対談では「100%フィクションだ」と語った(毎日新聞11月5日朝刊「負の歴史 目を背けぬ」)。
完全なフィクションだと主張しても、事件名をタイトルにとり、「史実に基づく創作」などのことわりもない。そもそも、実際に起きた知られざる事件という史実の迫力が観客を引きつけたのではなかったか。
大河ドラマに「史実と異なる」と苦情を言うのは滑稽(こっけい)だが、この事件は違う。被害者や末裔は差別され告発の声を上げられず、今も事件を抱え込む。実際、映画製作で香川の現地を取材する森監督の様子がテレビで放映され、これをきっかけに末裔の男性らの自宅がネット上でさらされる悪質なアウティングが起き、傷ついた人もいる。事件の影響は現在進行形だ。
この国の負の歴史を直視しようとする監督の問題意識は評価する。「善良な人びとが不安や恐怖で正気を失い、集団で暴走する」というテーマも大切だ。しかし、それを描くために「福田村事件」を借り、史実を矮小(わいしょう)化したという印象が、私の中でどうしてもぬぐえない。
森監督本人にそんな感想を伝えると、こんな答えが返ってきた。「史実にインスパイア(触発)されているが、会話など細部は創作だ。あの惨劇はどこでも起きうると訴えたかった。その意味で事件名をうたえば問題を矮小化しかねず、別のタイトルにすべきだった」。大切なのは福田村事件という史実の重みか。特定の事件を超えた人間にかかわる普遍的なテーマか。やりとりは平行線だった。
取材に応じた末裔の男性は事件から100年の9月6日、初めて野田市を訪れた。市川さんらの奔走で建立された犠牲者の慰霊碑に詣で、事件現場となった神社に立ち寄って驚いた。鳥居近くの石碑に、自分たちが地域で信仰してきた神の名が刻まれていた。男性の地元とこの神社につながりはない。一行のうち6人は、殺害された9人と離れて石碑のそばで拘束されていたとされる。「ふるさとの神が6人を守った……そう思えて鳥肌が立った」と振り返る。
私は一人の書き手として、男性に鳥肌を立たせたものを大切にしていきたい。
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喫水線(きっすいせん)は、水に浮かぶ船の側面と水面が交わる線。(徳島支局長・大阪本社元編集局次長)(第2土曜日掲載)