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暮れになると、各地のオーケストラが合唱付きでベートーべンの「第九」(交響曲第9番)を演奏する。必ずしもクラシック音楽が好きでない人々にとってもベートーベンの名は最大の巨匠として知られている。天性の才能に加えて難聴、貴族社会からの身分差別と失恋、経済的苦境や問題ある家族などとの闘い、刻苦勉励して傑作を世に送った生き方は日本人の琴線に触れたのか、年配の方に熱烈なファンが多い。
一方、若いクラシック好きの間では一番好きな作曲家にベートーベンを挙げると初心者かナイーブな性格と思われるので、少なくとも表立ってはファンと言い難い雰囲気があった。しかしながら改めて聴き直してみると、圧倒的な完成度や表現の力強さはやはり大作曲家であると認めざるを得ない。
酒浸りの父に貴族との悲恋
アジアで最初に「第九」が全曲演奏されたのは1918(大正7)年6月、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった俘虜(ふりょ)収容所でのことだった。歌ったのは第一次世界大戦で捕虜になったドイツ人たちで、国際法の優等生たらんとした収容所の守備兵にも好評を博したという。その後、昭和初期にかけてクラシック音楽の定番として全国に普及。太平洋戦争中も友邦ドイツの曲ということで演奏は制限されず、逆に学徒出陣を励ます曲の一つともされた。戦後は帰還した兵士が戦場に散った英霊を慰めるため、毎年暮れになると演奏されるようになったらしい。
アジアで初めてとなる「第九」の全曲演奏を成し遂げた徳島オーケストラと合唱団の集合写真=鳴門市ドイツ館提供
同じく年末の定番曲であるヘンデルのオラトリオ「メサイア」やバッハの「クリスマス・オラトリオ」も名曲だが、宗教色の薄い分、「第九」の方が大部分の日本人には受け入れやすかったのだろう。
バロック音楽を完成の域に高めたバッハ、ヘンデルの両巨頭に続き、古典派様式を築いたのはハイドン、モーツァルト、そしてべートーベンであるが、均整の取れた古典派から、さらに人間の感情表現を重んじるロマン派につないだのがベートーベンである。
100年前の同時刻に行われた「第九」アジア初演を再現する演奏団=徳島県鳴門市大麻町の市ドイツ館前広場で2018年6月1日午後7時56分、大坂和也撮影
そんな楽聖は1770年12月、旧西ドイツの首都であったボンに生まれた。父親は宮廷歌手ヨハン、母親は宮廷料理人の娘マリア・マグダレーナ。父方の祖父は優れた音楽家で宮廷楽長も務めたが、父は才能が無く、ベートーベンが生まれた頃には酒浸りの毎日だったという。
しかし、わが子には期待するところが大きく、深夜に帰宅すると、眠っている幼いベートーベンをたたき起こしてピアノの前に座らせ、厳しいレッスンを授けたといわれる。彼としては、十数年前に天才少年としてヨーロッパ中に鳴らしたモーツァルトのように息子を売り出そうとしたのだろうが、音楽教育家としても一流であったモーツァルトのような教育はとてもできなかった。そこでベートーべンは父の手を離れて、宮廷オルガニストのネーフェに系統的な音楽教育を受け、22歳でウィーンに出てからはモーツァルトの敵役である作曲家サリエリに師事した。
だが、彼は師匠の優雅な作風は受け継がず、演奏会では「巨大な演奏力」により、未発達であった当時のピアノフォルテの弦をたたき切ってしまう。その暴力的ともいえる演奏を、モーツァルト没後、新しい時代の音楽を求めていたウィーンの聴衆は涙を流して熱狂的に歓迎した。貴族夫人や令嬢のピアノ教師としても引っ張りだこになり、浮名を流し始めたのもこの頃だった。
数年後の1798年、絶頂期にさしかかったベートーべンを聴力障害が襲う。28歳の頃だった。最初は左耳、次いで右耳の耳鳴に始まり、30代には絶え間ない耳鳴のため自殺を考えるようになる。難聴はさらに進行し、45歳の頃には完全に聴力を喪失し、会話帳に頼るようになった。メトロノームの発明者であるメルツェルはベートーベンのためにラッパ型の補聴器をいくつか試作したが、大仰な割に効果がなく、ベートーベンはこれを使用することを好まなかった。
梅毒、耳硬化症、骨パジェット病…入り乱れる難聴の原因
ベートーベンの聴力障害の原因については古くからさまざまな仮説が提唱されている。音楽史の本ではメニエール病とするものもあるが、めまいや立ちくらみなどの前駆症状は全く見られない。発疹チフス説や外傷説についても、熱発や発疹、受傷のエピソードの記録はない。容貌魁偉(ようぼうかいい)な外観から先天梅毒もしくは後天梅毒による難聴とする説も提唱されているが、シューベルトやパガニーニのように梅毒に感染していたことをはっきり示す記録はない。
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もっともベートーべンはかなりの女性好きで、必ずしも品行方正ではなかったらしいが、追い求めたのは貴族の令嬢ばかり。娼婦(しょうふ)と親しかったシューベルトや、女性なら誰でも良かったとされるパガニーニとは好みが違っていたので、感染機会も少なかったと考えられる。
20世紀以降もさまざまな医史学者が原因を追究し、耳硬化症による感音性難聴▽代謝異常により骨が太く、軟らかくなる骨パジェット病▽自己免疫性感音性難聴▽肝硬変との関連から、さまざまな部位に肉芽腫(炎症細胞の固まり)ができるサルコイドーシス――とする仮説も提唱された。
ただ、今となっては確定診断が難しく、むしろ問題は耳が聞こえなくなると作曲活動にどのような影響が出てくるのかということに医学的興味が移る。先天的な聴力障害があれば、作曲活動は困難だが、ベートーべンの場合、聴力障害を発病したのはすでに作曲家として名声とスタイルを確立した頃であった。もともと他人の作品や評価に影響を受けにくい性格であり、ますます独自の境地を深めていったのかもしれない。いわゆる傑作の数々――交響曲では第3番「英雄」以降、ピアノソナタではハ長調「ワルトシュタイン」、ピアノ協奏曲では第5番「皇帝」、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー」などは聴力を侵された後に作曲しているので、雑音に耳を煩わされず内なる声のみに耳を傾けたことが大作品の完成につながったとする研究もある。
もっともこれはベートーべンのような大天才にして初めて可能になったことで、凡百の音楽家であれば独り善がりの駄作の山になった可能性もある。優れた作曲家であった「わが祖国」のスメタナや「レクイエム」のフォーレも晩年は聴力障害に悩まされ作品数は激減したが、ベートーべンは最晩年まで創作の量と質を維持している。驚異的な精神力のたまものだろう。
毛髪をゲノム解析すると…
ベートーべンは身長165センチと、がっしりとした体躯の持ち主で、若い頃は健康だったが聴力障害をきたした壮年期から、繰り返し腹痛と下痢に苦しめられたという。炎症性腸疾患やストレスによる過敏性腸症候群があったのかもしれない。
ウィーンに移り住んでからの暮らしも苦労の連続だった。当世一の作曲家という地位は確立しても内実は、有名人になった兄に金を借りにくる弟たちや素行不良のおいなど親族とのトラブル、また貴族の令嬢と繰り返した大恋愛と失恋に加え、ナポレオン戦争と革命騒ぎなどの社会混乱による作曲料収入の激減や楽譜印税の未払いなど経済面での問題が大きなストレスとなったのだろう。実際、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」や「不滅の恋人への手紙」など出されなかった手紙が多数残っている。特に耳が不自由になってからは周囲とのコミュニケーションを会話帳に頼っていたため、残っていれば膨大な1次資料になったはずだが、死後、心酔者であった秘書のシンドラーによって、偉人のイメージの妨げとなるようなものは多くが破棄されてしまった。
50歳を過ぎた1821年2月には、リウマチ熱に侵されて臥床(がしょう)しがちになり、温泉地として有名なバーデンに転地療養したが、黄疸(おうだん)の兆候が表れた。その後、回復したことから急性肝炎や慢性肝炎の一時的な増悪だったと思われる。病を押して「ミサ・ソレニムス」と二つのピアノソナタを仕上げ、翌年にはウィーンの楽壇に復帰した。そして「ディアベリ変奏曲」や交響曲第9番「合唱」をはじめ、いわゆる後期の「弦楽四重奏曲」など音楽史に残る傑作の数々を送り出した。作曲の傍ら、愛用のラインワインとモーゼルワインは欠かさなかったという。当時、ワインの保存のためにたるを鉛で密封することや、甘みとして鉛の化合物を添加することがあり、鉛中毒がさまざまな症状の原因だったとの説もある。
1826年暮れに、ドナウ川沿いのグナイクセンドルフから無蓋(むがい)馬車でウィーンに戻る途中、風邪をこじらせ、翌年はベッドで迎えることになった。この頃から黄疸に加えて著明な腹水が見られるようになり、繰り返し腹水穿刺(せんし)を受けたが、非代償期(肝機能を維持できない状態)の肝硬変のため全身状態はさらに悪化した。それでも彼は、なじみの音楽出版社ショットに特上のラインワインを送ってくれるよう依頼した。
3月23日には友人のブロイニングとシンドラーに遺言を託し、「諸君喝采せよ 喜劇は終わった」というローマ劇の終句のパロディーを述べると、ぐったりと横になった。念願の1806年ものの極上リューデスハイムワインが届いたが、瓶を見せられたベートーべンは「残念、遅すぎる」とつぶやき、昏睡(こんすい)に陥った。3月26日午後5時45分、死去。見守ったのは友人の作曲家ヒュッテンブレンナーと弟の妻だったという。
遺体はウィーン総合病院病理部のワグナー博士と後の大病理学者ロキタンスキー博士の執刀によって剖検され、肝硬変と慢性膵炎(すいえん)、脾腫(ひしゅ)大、腎石灰化が確認された。内耳も解剖されたが、明らかに聴覚障害の原因となるような所見は見られなかったという。
それから200年近くの歳月を経た昨年には、英ケンブリッジ大を中心とした国際研究チームが興味深い発表をした。ベートーベンの毛髪をゲノム解析したところ、少なくとも死の数カ月前にはB型肝炎に感染しており、遺伝的にも肝臓疾患になりやすい体質だったとしている。一方で鉛中毒の初見はなく、聴覚障害や胃腸病に関する遺伝子の特定もできないとしている。
年齢を重ねるごとに内面的に
音楽評論家の吉田秀和は、ベートーベンをこう評している。
<十八世紀以来のヨーロッパ音楽の本質的な特徴の一つを、音による強靱(きょうじん)な建築性と考えるならば、ベートーヴェンの音楽は、そのほとんどが間然するところのない完璧さの典型である。そうして、それを可能にしたのは、極度の緊張をはらんだ力強い主題の設定の仕方と、そこから、実に理路整然と、しかも、強烈な効果をもった展開をひきだしてゆく主題の処理の仕方を、彼が見事に支配し駆使したからだ、ということになろう>
多くの作品においてベートーベンは数小節――有名な「運命」では「扉をたたく、たった4音」の主題を組み合わせ、あるいはいくつかの動機に分解して執拗(しつよう)なまでに反復し、展開、変奏する手法を用いている。その結果、作品を他に追随する者の無いレベルまで高めている。
この偏執的なまでの構成力には、聴力障害が関与しているかもしれない。56歳というまだまだの年齢にあって彼を天に召した病気は何であったかは不明だが、もし彼が、自らと並び、ドイツを代表する作曲家「ドイツ三大B」を構成するバッハやブラームスと同じぐらいに、あと10年の寿命を与えられたならば、どのような境地に達しただろう。実際、モーツァルトやバッハは生涯のいつの時点においても、その作品は様式的に完成されているが、ベートーべンは年を経るほど内面的になり、たとえば後期の「弦楽四重奏曲」など晩年の作品は前人未到の境地に達しているからである。
彼の後半生を苦しめた聴力障害も、21世紀の今日では人工内耳によって、かなりの聴力回復が可能となり、さらには再生医療の可能性についても報告されている。タイムマシンがあれば、ベートーべンに人工内耳を届けつつ、節酒などの生活指導をしたいものである。
<参考文献>
・吉田秀和「LP300選」(新潮文庫)1981/2/1
特記のない写真とイラストはゲッティ
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早川智
日本大学総合科学研究所教授
1958年、岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。著書に「ミューズの病跡学Ⅰ音楽家編」、「ミューズの病跡学Ⅱ美術家編」「源頼朝の歯周病―歴史を変えた偉人たちの疾患」(診断と治療社)など。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。