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17. 共産主義崩壊の予言
共産主義は七十年を越えられない
一九八九年秋、ポーランドにおいて東欧初の非共産主義政権が樹立されるや否や、ワルシャワ条約機構内の共産党政権が次々に崩壊していきました。その後冷戦のシンボルであった東西ドイツが統一し、共産主義世界のメッカたるソビエト連邦までも崩壊してしまいました。これら一連の世紀の大事件は、驚きと戸惑いをもって報道されました。私の知人で国際政治を教えるある著名な大学教授は、従来の古い教科書が使えなくなったと言って嘆いていました。予想を超えた世界的規模の大変革に向かう心構えができていなかったのです。
私は、この一連の報道に接しながら、「とうとう来るべきときが来たな」という感じで受け止めていました。というのも、二十年以上も昔から文先生は聖書の奥義の深い理解に基づいて、「共産主義の活動期間は七十年を越えることができない」と予言しておられたからです。ロシア革命が起きて、ソ連が建国したのが一九一七年です。それから七十年ですから一九八七年がソ連の崩壊期ということです。ゴルバチョフ大統領が登場したのが一九八五年で、彼の推進したペレストロイカとグラスノスチ政策が定着したのがこの八七年でした。この時から五年もたたないうちに、ソビエト連邦は跡形もなくこの地上から消滅してしまいました。
聖書の中に、イスラエル解放の指導者モーセが民族とともに紅海に差しかかった時、杖を手にとって海を分ける奇跡の話があります。少しオーバーな表現かもしれませんが、東欧諸国の民主化のドミノ現象から始まった共産主義世界の崩壊過程は、私にとってまさにモーセの奇跡を見るような感じでありました。
共産主義の本質は憎悪と無神論
共産主義はなぜ崩壊したのでしょうか。すでに数多くの見解が出されています。一つは計画経済の限界。共産主義世界では、中央政府が末端の工場の生産までも管理していました。こうした計画経済が、効率的に機能するはずがないことは明らかです。
また政治的には、共産党一党独裁で国民に政治的な自由を与えず、反対する者を次々に粛清してきました。その結果、自由を抑圧された国民の不満は頂点に達していました。
さらに民族問題です。共産主義によって民族問題が解決したというのは建前で、実のところそれは力で抑えつけられた安定であったことが今日明らかになりました。そのほかにも軍事費の突出による経済の破綻や赤い貴族といわれたノーメンクラツーラの存在などが挙げられています。
しかし、これらのどれも私には表層的な指摘に思えてなりません。私が長年「勝共」を叫びながら訴え続けてきたことは、「共産主義の本質は憎悪と無神論である」という点でありました。この本質をしっかりとらえておかなければ、共産主義崩壊とそれに続く新しい時代、つまり二十一世紀の方向を見誤ることになりかねません。
共産主義理論を構築したマルクスは十八歳の時、「絶望者の祈り」と題する詩を書きました。その一部を紹介します。
神が俺に、運命の呪いとクビキだけを残して何から何まで取り上げて、
神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。
高い所に君臨しているあの者に復讐したい。
俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は建てたいんだ、
…………………………
この詩に流れる神への復讐心こそ、マルクスが『資本論』を書き上げる際の心情的下敷きになったものなのです。マルクスが育った十九世紀のヨーロッパは、イギリスで始まった産業革命の波及により、豊かな富を満喫していました。しかし、一方では自由競争の名を借りた弱肉強食の世界がはびこり、貧富の格差が拡大し、資本家の労働者に対する搾取が目に余るようになりました。
正義感の強いマルクスは、こうした状況の中で弱者解放のための思想構築を始めたのです。それゆえに彼の思想は、資本家に対する怨念と富める者つまり恵まれた者に対する憎しみに溢れています。さらにそれはこうした現状を見て見ぬふりをするキリスト教会と、神に対する憎悪となっていきました。
共産主義は単なるイデオロギーではありません。人間の理性と感情に訴える「疑似宗教」の様相を呈しています。しかし、憎悪を下敷きにした「疑似宗教」で世界を救うことができたのでしょうか。「プロレタリアート解放」の旗印のもとに行われた革命は、以前よりはるかに無慈悲な権力階級の出現を許したにすぎなかったのです。結局憎悪は新たな憎悪を生むだけであり、復讐による行為は新たな敵を作るだけであることは、共産主義世界の歴史を見れば明らかです。
また、マルクスの憎悪の究極的対象は、十八歳の時に作った詩に明らかなように、神であります。悩める貧民の救済に沈黙を続ける神に対して、絶えず憎悪の感情を燃やしたのです。彼は共産主義理論の中で神を完全に葬り去ろうとしました。社会的弱者に救いの手を差し伸べない神を思想の中で抹殺しようと試みたのです。唯物弁証法、唯物史観は神を除外して世界を説明しようとした理論にほかなりません。ロシア革命の成功は、マルクスによる神暗殺理論(無神論思想)の勝利のように思われました。しかし神を殺した共産主義世界は一世紀も生きることができずに消滅してしまいました。
神を憎悪し、神を抹殺した共産主義の人間観は、ダーウィンの進化論に基づいています。人間の人間らしい第一の基本条件を労働(生産活動)とします。つまり猿が労働することによって人間になったのであり、人間の精神活動も物質である脳の作用から派生した二次的なものにすぎないと言うのです。こうした人間観からは、人間の存在そのものに対する尊厳性を保証する哲学が出てこないのは明白です。
共産主義者はこのような人間観に基づいて、労働者の側に立つ者のみの人格を認め、反対する者の人格を否定しました。共産主義の世界で数多くの人々が粛清されたのも、こうした無神論思想が背景となっていることは間違いありません。
共産主義の特徴の一つに計画経済があります。この計画経済は、つまるところ人間理性に対する過信の結果と見てさしつかえないと思います。市場経済を神の見えざる手に委ねようとした自由経済と対照的です。
しかし、人間の理性が国家のすべての経済活動を管理することは不可能です。ソ連の経済破綻はそのことを物語っています。神を否定した結果、不確かな人間の理性に対する過剰な期待を生みました。しかしそれは裏切られる運命にあったのです。科学の進歩や社会の発展は、常に従来の人間理性の否定の上になされてきました。人間理性をよりどころとする計画経済は、社会の進展について行くことができなかったのです。
人間の本質を無視した共産主義
私がここで申し上げたいことは、結局、共産主義理論は人間の本質を無視して成り立っているということです。神を否定した人権思想、憎悪を根に持つ労働者の団結。これらはすべて欺瞞です。人間の尊厳は崇高なる神から賦与されたものであると考えるのが本来の人権思想です。また憎悪に裏づけられた労働者の解放は、復讐を引き起こします。虐殺と粛清は新たな憎悪と復讐を生み出すばかりで、本質的な社会の変革は不可能です。レーニンによるロシア革命も、毛沢東による中国共産革命も、当時の弱者であった労働者や農民を解放した結果、新たな不満分子を生み出したにすぎなかったのです。革命は幻想でした。本質的には何も変わっていなかったのです。それは人間の本質を無視したためです。
私が日本で勝共運動を始めたのは一九六〇年代後半でしたが、そのころ日本では大学界を中心として共産主義旋風が巻き起こっていました。共産主義を学ばざる者、学生にあらずという雰囲気でした。そういうムードに逆らいながら、当時私ども勝共の学生たちは、学内で学生啓蒙を続け、共産主義者たちと論争を繰り返していました。共産主義者たちの見解は、人間が不幸なのは社会の体制、つまり資本主義体制の矛盾による、よってこれを打倒しなければならないというものです。社会革命論です。
それに対して、勝共の学生たちは、人間が不幸なのは人間自身の精神のあり方に問題がある、つまり人間の精神、あるいはエゴイズムが変わらないと幸福にはなれないというものでした。こうした精神変革論は、当時はきわめて少数派で、大半の学生は共産主義の社会革命論に同調していました。
しかし、今日の共産主義世界の崩壊は、結局当時の共産主義者の見解より、我々が主張していた精神変革論に妥当性があったことを教えています。共産主義は実は何も変えることができなかったのです。それは、社会を構成する人間自身を変える哲学ではなかったからです。
宗教の役割
共産主義の本質は憎悪と無神論であると述べてきました。その共産主義が崩壊したということは、その本質自体に問題があったと言えるでしょう。無神論を掲げた共産主義による世紀の実験は完全な失敗でした。その教訓は、人間の力だけに頼って理想世界を実現することはできないということです。
旧約聖書に出てくるバベルの塔の話をご存じと思います。人間たちが自己の力を過信して、天の頂に達する塔を建てようとしました。しかしそのことは逆に天の怒りに触れ、人々の心が互いに通じ合えなくなって、塔も崩れてしまったということです。共産主義の実験とは、近代的な装いを整えて現代に現れたバベルの塔の再建運動であったようです。それらは天の怒りに触れ、脆くも潰えてしまいました。
人間は常に環境を規定しながら生活しています。文字を書こうとしたら、鉛筆と紙を用意します。それらはそれらを必要とする人間によって規定されているのです。こうした環境世界を規定する人間の能力が、今日までの素晴らしい文明を作りあげてきたことは言うまでもありません。しかし、私たちが生きるうえでもっと大切なことがあります。それは私たちが環境を規定して生存してきたように、もしかしたら私たち自身も何者かによって規定されている存在なのかもしれないということです。
人間が己の意志で己の生命を出発させたのではない以上、私たちを規定している存在、つまり私たちの原因的意志があるはずだと考えるべきではないでしょうか。自己の環境世界を規定することには熱心で、自己を規定している存在に対する配慮を忘れることは、傲慢というものです。無神論を徹頭徹尾貫いた共産主義は、人間の傲慢さが生み出した最高傑作とも言えます。
それに対して、宗教の道は「人間以上の存在(神)」とのかかわりを第一義に置きます。自己の無力さを自覚し、神に帰ることを説きます。神あるいは仏による救済なしに自己の存在はありえないことを悟るのです。つまり「生きる」ということの本質は「生かされている」ということなのです。ですから感謝の心で生きることを教えます。生かされている喜びを他者と分かち合うことが愛なのです。キリストはそれを隣人愛と呼び、お釈迦様は慈悲と呼び、孔子は仁と呼びました。これらはみな同じものです。
仏教哲学の権威であられる中村元先生(東京大学名誉教授)は、仏教の本質は無私と慈悲であると言っておられました。自分以上の存在に帰依することにより、己を無くするということ、また慈しみの心をもって他者に接するということが仏教の本質だということです。
キリストも同じようなことを言っています。一番大切なことは神を愛すること、二番目は隣人を愛することと言っています。これら宗教の先達たちが示した道は共産主義の生き方と全く対極に位置します。共産主義の本質は無神論と憎悪です。理想実現の方法は社会革命です。
宗教は神あるいは仏に帰依することを説き、愛や慈悲を教えます。理想実現の方法はまず自己の内的変革です。共産主義が崩壊した今日、こうした価値観を有する宗教が大きな役割を果たす時がやってきたと言っても過言ではないと思います。
二十一世紀は宗教の時代
二十世紀とは一体どんな世紀だったのでしょうか。アメリカのカーター政権の時の特別補佐官だったブレジンスキー教授(ジョンズ・ホプキンス大学)は、『大いなる失敗』という本の中で、二十世紀は共産主義の誕生と死滅を目撃した世紀であると言っています。まさに世界は、共産主義によって翻弄されました。神を否定し、人間理性を過信した理想主義の結末は、あまりにもあっけないものでした。その達成した成果はあまりにも小さく、もたらした犠牲は多大なものでした。教授は共産主義について、こう述べています。「おおかた二十世紀の最も異常な政治・思想上の脱線現象として記憶されるにすぎないだろう」と。
私たちは共産主義の死滅を目撃しました。そこから何か後世に残しうる教訓を酌み取らなければ、また同じ失敗を人類は繰り返します。冷戦の敗者は決まっても、勝者をまだ特定することはできません。
教授はこの本の最後に、「二十世紀、人類は共産主義と遭遇し、大きな被害を受けた。苦い経験ではあったが、非常に重要な教訓を、学んだ。政治によってユートピア社会を建設しようという試みは、現実の複雑な状況と基本的に相容れないものである」と結んでいます。
政治によるユートピア実現は不可能です。社会の体制を変えても、人間自身のエゴイズムが変わらなければ、形を変えて悪がはびこります。競争社会における利己主義者は、平等社会に変わったら今度は怠けて同等の賃金を得ようとするでしょう。本質は何も変わっていません。
キリストは「神の国は一人ひとりの心の中にある」と言いました。ユートピアは精神の問題であり、心のあり方で決まります。そしてそのことを問題にしてきたのが、宗教そのものなのです。
二十世紀は共産主義の世紀でした。二十一世紀はその終了とともに始まるなら、共産主義の失敗を教訓としなければなりません。共産主義の本質は何度も繰り返しますが、無神論と憎悪です。その反省に立つならば、二十一世紀は「神の時代」あるいは「宗教の時代」または「心の時代」、そして「真実の愛の時代」と言えるのではないでしょうか。
東西問題と南北問題の根は同じ
さて、東西問題とは東ドイツと西ドイツに象徴される東側陣営と西側陣営との対立問題でした。いわゆる冷戦構造を言います。東側陣営つまり共産主義陣営の崩壊により、冷戦構造は崩壊し、東西問題は終わったといわれています。本当にそうでしょうか。確かに「計画対市場」とか「一党独裁対民主主義」といった経済・政治上の対立には決着がついたのかもしれません。しかし、共産主義理論そのものが人類に突きつけた問題提起はいまだ未解決のままです。
共産主義はそもそもなぜ誕生したのでしょうか。十九世紀のヨーロッパは、産業革命のおかげで莫大な富の蓄積に成功しました。しかしその富は一部の資本家に集中し、国民の大半は相変わらず貧困と過重労働に甘んじなければなりませんでした。「持てる者」と「持たざる者」との対立が決定的になりました。正義感の強い人間であればあるほど、「持たざる者」に同情し「持てる者」を憎悪しました。マルクスもその一人です。もしこの時「持てる者」が「持たざる者」を搾取することなく、彼らを労わり、彼らを家族のように扱って、適正な分配を行っていたらどうでしょうか。共産主義は生まれなくてもよかったのです。
人間の能力に平等はありません。それゆえに「指導する者」と「される者」、「金儲けのうまい者」と「下手な者」つまり「持てる者」と「持たざる者」に分かれるのは当然です。しかし問題はこうした不平等自体にあるのではありません。能力のある人間や社会の上に立つ人間あるいは恵まれた者たちが、そうでない人たちにどう接するかが問われているのです。宗教的な言葉で言えば、「神の祝福を受けた者」は「神の祝福を受けざる者」に対して責任があるということです。自分に与えられた能力と環境を最大限生かしながら、愛を実践することが恵まれた者たちの責任分担なのです。
神は恵まれた者たちの恵まれざる者に対する愛に期待して、恵まれざる者に祝福を与えようとなさっているに違いありません。金持ちは儲けた金で愛を実践すべきです。知識人は自分の知識をもって社会に貢献すべきなのです。「神の祝福を受けた者」がこうした己の責任を忘れ、自己の私利私欲に溺れるならば、「神の祝福を受けざる者」によって、滅ぼされていくのです。これが天罰です。
こういう観点から見るならば、共産主義は生まれる必要がなかったのです。「持てる者」が「持たざる者」に対して責任を果たしていれば、「持たざる者」の告発は避けられたはずなのです。さて、今日共産主義世界はほぼ崩壊しました。しかし、マルクスが提起した問題自体ははたして解決しているのでしょうか。「持たざる者」の告発がなくなってしまうような時代が来ているのでしょうか。
恵まれた者たちの責任が果たされているようには、私には思えません。厳密な意味で共産主義問題はまだ未解決なのです。共産主義を力や理論だけで撲滅することはできません。
勝共の目的は共産主義を撲滅することですが、それは勝共の理念で共産主義の誤りを正すとともに、愛の実践によってなそうというのです。それは共産主義という存在が意味をなくする社会を作ることなのです。すなわち、理念として共産主義がなくなっても、恵まれた者に対する告発がなくならない限り、形を変えた共産主義が再現するだけです。社会の上に立つ者たちの愛とモラルが問題なのです。
南北問題も問題の根っこは同じです。地球の北側にある先進国家と南側に多い後進国家の対立問題です。「持てる国家」と「持たざる国家」の問題は東西問題と全く同じ問題です。神から恵まれた国々が、いまだ恵まれざる国々に対して責任があるということです。結局、恵まれた国々の愛とモラルが問題になります。人類が二十一世紀に残していかざるを得ない最大の問題の一つに、この南北問題が挙げられています。
大切なことは、この問題はマルクスが人類に突きつけた問題の延長であるということです。共産主義問題が人間の本質に立ち返らなければ解決されないように、南北問題も本質的な解決が求められます。つまり精神変革、人間改造と言ってもいいでしょう。