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毎日新聞 2024/1/11 東京朝刊 有料記事 3045文字
ロシアのミサイル攻撃を受け煙を上げる集合住宅=ウクライナの首都キーウ(キエフ)で2日、ロイター
昨年、ウクライナ戦争の終結も見えないなかで、10月にイスラエルとイスラム組織ハマスの戦争が勃発した。アフリカでは、スーダンで内戦が発生し、収束の兆しがみえない。アフリカ西部では、イスラム過激派の勢力が拡大するなかクーデターで各国の政治体制は不安定化している。日本周辺では、北朝鮮のミサイル開発がいっそう進み、中国では政治も経済も不透明感を増している。次から次へと新たな危機が起こり、世界の行方はますます混沌(こんとん)としているようにみえる。
今後の見通しについて誰も正確な見取り図は書けない。しかし、混乱のさなかであるからこそ、決定的に重要事態、すなわち構造的重要性が何であるのか、逆にいえば、何を防ぐことで決定的に悪い構造的変化を起こさなくて済むかを確認しておくことが必要だと思う。
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質違うウクライナ
その観点から現在進行中の最重要な国際紛争は、ウクライナでの戦争である。10月のハマスによるイスラエル攻撃に端を発してパレスチナ自治区ガザ地区を中心に中東での戦火が続いたため、世界的にウクライナにおける戦争への注目が低下した。しかし、ウクライナへのロシアの侵略と、長期に継続してきたイスラエル・パレスチナ紛争、さらにはスーダンなどの内戦は、国際秩序への影響という観点からみると質的に異なるものだと考えるべきである。
当然のことながら、人道的観点からいえば、いかなる戦争も同様に防ぐことが望ましい。ロシアのウクライナ侵攻が発生した2022年、正確な数字を確かめることは困難であるがエチオピアでおきていたティグレ紛争=1=は、ウクライナでの戦争と同様に犠牲者数の多い紛争であった。国際紛争のデータベースとして定評のあるウプサラ大学紛争研究所の推定によれば、22年、ウクライナ戦争の死亡者数の最良推定値は約8万人であったのに対して、ティグレ紛争の死亡者最良推定値は約10万人であった。
それにもかかわらず、欧米メディアを中心に世界のメディアはティグレ紛争よりもウクライナ戦争について報道を集中させた。そして今、欧米メディア、そしてアラブメディアの関心はガザに焦点があたっている。しかし、メディアの取り上げ方いかんにかかわらず、ロシアのウクライナ侵略は現在の国際秩序への挑戦という観点からは、継続的に最重要の紛争だとみなさなければならない。
第二次世界大戦後、国際紛争を解決する手段として武力行使をしてはならないという戦争違法化の規範が国際秩序の根幹であるとの認識が広まり、国際紛争の解決を国際司法裁判所などの手続きにゆだねる動きが広まってきた。もしウクライナ戦争にロシアが勝利することになれば、戦争違法化という規範は圧倒的に弱まってしまう。その意味で、ウクライナ戦争こそ、現在進行中の武力紛争のなかで国際秩序に最も大きな影響を与えうる戦争なのである。
これに対して、内戦や長期にわたる複雑な戦争では、責任の所在を見極めるのは極めて困難だ。平和構築をしていくことは常に重要であるにしても、個々の内戦によって、国際秩序全体が大きく揺らぐことは、少なくともこれまではなかった。内戦は局地化させて地道な和平交渉に持って行かなければならないが、責任の所在がはっきりしている侵略は断固として失敗させなければならない。
米中の価値観相違
しかしながら、国際秩序に影響を与えるものは現実に起こっている武力紛争のみではない。何が望ましい秩序であるかに関する価値観も極めて重要である。とりわけ重要なのは、大きな影響力を持つ国々の間の価値観の相違である。端的にいって、世界の第1位と第2位の経済大国であり軍事大国である米国と中国の価値観の相違である。
冷戦後のかなりの時期、米中の価値観は徐々に近づいていくのではないかとの期待があった。中国の指導者たちも、中国で民主化が遅れているのは発展段階が低いからだという言い方をしていた。しかし、17年ごろから中国型の発展モデルの方が世界の開発途上国には役に立つのだというようになってきた。米国は、中国を世界経済に迎え入れることによって、いずれは中国も民主化するかもしれないとの期待のもと「関与政策=2」を続けてきたが、トランプ政権時にこれを放棄し、バイデン政権は、中国を「唯一の競争者」とみなすようになった。
露が勝てば影響大
この米中競争の構図は、現在の混沌とみえる世界のなかでも全く変わっていない。そして、この米中対決の具体的な争点こそが台湾海峡である。台湾海峡を挟んで、相違する価値観を体現した政治体制が向き合っている。NGOフリーダムハウスの自由度に関する詳細スコア(100が最も自由)では、台湾は94で、中国は9である(ちなみに日本は96、米国は83)。もし、台湾海峡で武力紛争が発生すれば、最も圧制的な政治体制と最も民主主義的な政治体制との争いになり、しかも2超大国同士の戦争につながりかねない。現在、平和が保たれている台湾海峡こそ、混沌とした世界のなかの最重要の対立ポイントなのである。
現在のところ、米中双方はウクライナ戦争もイスラエル・ハマス戦争も両国関係の大きな争点にすることを賢明にも避けてきた。しかし、ウクライナ戦争の帰趨(きすう)は、米中対立にも大きな影響を与えうる。仮にもロシアがウクライナで勝利するということになれば、中国の台湾へのアプローチに大きな影響を与えうるからである。岸田文雄首相がロシアの侵攻直後に語った「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」という言葉は依然として的確な指摘でありつづけている。
もちろん、世界が直面しているのは、ここまで述べてきたような地政学的な問題にとどまるわけではない。極度の貧困人口(1日2・15ドル未満の生活をしている人口)は、依然として7億人近くいるといわれる。気候変動に由来する自然災害は増加し、持続可能な開発目標(SDGs)の多くも30年までの達成が危ぶまれている。これら地球的課題を解決するためにも、国際社会は地政学的状況を緊張緩和の方向に導いていかなければならない。=次回(2月8日)は遠藤乾・東京大教授です
■ことば
1 ティグレ紛争
東アフリカのエチオピア北部のティグレ州で2020~22年に起こった紛争。北部ティグレ州を拠点とするティグレ人民解放戦線と政府軍の内戦となり、食料不足などの人道危機が深刻化した。政府軍を率いたアビー首相はノーベル平和賞受賞者だが、強硬姿勢をとり続けていた。22年に和平合意が結ばれたものの経済状況は厳しく、国外脱出を目指す人も少なくない。21世紀で最も凄惨(せいさん)な戦争の一つ。
■ことば
2 関与政策
相手国に問題視される傾向が認められる時に警戒的な態度や敵対的な行動をとったりするのではなく、接触を図って協議を重ね、問題解決の糸口を探す外交政策を指す。米国の歴代政権はニクソン大統領の1972年の訪中以来、中国と関係を保ちながら変化を促す政策をとってきたが、2020年7月、ポンペオ国務長官(当時)は「失敗に終わった」と決別を宣言した。
■人物略歴
田中明彦(たなか・あきひこ)氏
1954年生まれ。東京大教養学部卒、米マサチューセッツ工科大大学院博士課程修了。東京大教授を経て2017年4月~22年3月、政策研究大学院大学長、22年4月から国際協力機構理事長。専門は国際政治学。著書に「新しい中世」「ポストモダンの『近代』」。