18. 東アジアの時代到来予言の意味
文明は「アジア太平洋文明」で結実
文鮮明先生が一九四五年に韓国で宣教活動を開始して以来、一貫して語り続けてこられた文明史に関する見解があります。文明の出発はナイル川、チグリス川、ユーフラテス川を中心とした河川文明でした。それから文明はギリシャ、ローマ、スペイン、ポルトガルなどの地中海文明に移行しました。そしてさらにイギリス、アメリカを中心とした大西洋文明を経由して、今日はアメリカ、日本、韓国、さらには中国大陸に至るアジア太平洋文明として結実しつつあるという文明史観です。
一九四五年と言えば、太平洋戦争が終了し、日本をはじめアジア各国は焦土と化していました。敗戦国日本は占領軍の統制下にあり、韓半島は三八度線を境に北側がソ連軍、南側は米軍のそれぞれ管理下にありました。中国は国民党と共産党の内戦が四九年まで継続しました。東アジアはまさに絶望的状況下にあったのです。当時にあって、誰が今日の日本の繁栄あるいは東アジアの発展を想像することができたでしょうか。しかし文先生はその当時少人数の弟子たちを前にして、「アジアの時代が来るということは、神の経綸の中にあった」と、東アジア時代の到来を熱っぽく語り続けていました。
内村鑑三に見る日本の天職
内村鑑三は明治時代に生きた日本の代表的クリスチャンです。科学者でもありました。彼の学問する姿勢は、人間を取り巻く森羅万象から神の意図を探ろうというものです。そのため彼はあらゆるものに関心を向けました。彼が書いた『地人論』という論文の中に「日本の地理とその天職」という一文があります。ここで彼は日本の地理を論じながら、神が日本にいかなる使命を与えたかということを述べています。そこに大変面白いことが書かれているので紹介いたします。
日本の海岸線を見ると、太平洋側に入り組んだ湾が多いと内村は言います。こうした海岸は良港に適していると論じながら、結局日本の港は東に開いているとしています。一方日本海側は比較的平坦な海岸線で、良港は少ない。しかし例外が下関や長崎などの西の外れの海岸線であり、これらの港は西に向かって開かれていると言います。このことから内村は日本の天職をこう断じます。日本の位置はアメリカとアジアの間にあり、この両大陸を太平洋上において連結することである。つまり日本の天職は西洋と東洋の媒介者であるということです。
内村のこの地理学から見た日本の天職論が、ずいぶん時代遅れであることは間違いありません。飛行機が世界中を飛び交う時代に港の良しあしで、日本の天職を論ずることはできないことは明らかです。ただ時代が明治であったことを勘案してください。私は内村の考えがその根拠はどうあれ、今日でも十分通用するものであると考えています。否むしろ今日こそ通用すると言ってもいいかもしれません。
ギリシャ・ローマの文明はキリスト教と合体してヨーロッパ文明を形成し、それがイギリスやアメリカで結実してきました。内村の見解に則して言えば、こうした西洋文明を吸収する役割を担っているのが日本であるということになります。それから日本は吸収した西洋文明を韓半島を通して大陸につなげなければならないのです。しかしそれだけではありません。日本は中国大陸や韓半島から受け継いだアジアの文明をアメリカやヨーロッパに伝える使命があるとも言えるでしょう。
東アジアの経済成長とアメリカの役割
第二次世界大戦が終了してから今日に至るまでの日本の繁栄や最近の東アジア諸国の経済的成長を見れば、内村の見解はかなり妥当なものだと言っていいでしょう。戦後、日本は軍事的にも経済的にも、アメリカの傘のもとに入りました。戦後の繁栄はその結果であることは議論の余地がありません。つまりアメリカの保護下の繁栄でした。アメリカも共産主義勢力のアジア侵攻を防ぐ一つの防波堤として日本を必要としていたのです。
日本が西洋文明の結実を継承するうえでこうした環境がプラスに作用したのは言うまでもありません。誤解を恐れずに言えば、敗戦によりどん底に落ち込んだがゆえに日本はアメリカから素直にすべてを吸収できたのではないでしょうか。敗戦体験により日本人は戦前の傲慢さを捨て、謙虚になることができたに違いありません。その体験により日本が文明史の大きな流れの一翼を担うことができるようになったとすれば、これも神の経綸であったと見れないこともありません。
日本に引きずられるようにして、アジアNIES(新興工業経済地域)、アセアン(東南アジア諸国連合)地域の発展は目を見張るものがありました。経済学者はこれを雁が群れをなして飛ぶ姿になぞらえて、「雁行型経済発展」と呼んだり、「重層的追跡発展過程」と言っています。これに脅威を感じたヨーロッパの国々がEC(欧州共同体)(現在はEU=欧州連合)統合を加速させたと言われています。この群れに今日では共産主義国家であった中国やベトナムが加わり始めたのですから、西洋人から黄禍論が出てきても不思議ではありません。二十一世紀初頭には中国が世界一の経済大国になるという予測まで飛び出しました。
こうした東アジアの国々の経済成長を牽引したのは日本です。特に八五年のプラザ合意以降における円高傾向が、日本の生産基地のアジア移転を促しました。しかしそれだけでアジアがこれほど急成長したわけではありません。アジアの国々の製品を快く買ってくれる国が必要でした。それがアメリカです。アメリカがアブゾーバー(吸収者)の役割を担ってくれたおかげなのです。つまりアメリカの保護のもとで、成長の先陣を切った日本が他のアジアの国々を引っ張っているという図式です。日本の繁栄にしても東アジアの成長にしても、アメリカの存在が決定的であったことは間違いありません。
「アジア太平洋文明」の二つの意味
文鮮明先生が言われる「アジア太平洋文明」には、二つの意味があるように思います。一つには、今述べたように、日本をはじめとする東アジア地域が、アメリカ経由の西洋文明を継承する契機であるという点です。文先生は、二十一世紀はアジア太平洋時代を経由して、東アジアの時代となることを予見しています。その時代を作る要となるのが日本と韓国と中国です。文先生はよく「中国は長男で、韓国が次男、日本は三男」という言い方をされます。かつて日本は常に中国の文物を韓半島を通して受容してきました。中国や韓国は文化的には日本の先輩に当たるのです。
この両者から日本はどれほどの恩恵を受けてきたか計りようがないほどです。これからは、日本が韓国と中国にお返しをする番です。単なる経済的な進出では、形を変えた侵略と取られるのがおちです。感謝の気持ちと尊敬心を持ちながら、かつ共に栄える道を探ることが必要です。この三カ国の友好の度合いが、東アジア時代を決定づけることでしょう。
「アジア太平洋文明」のもう一つの意味は、地球文明に至る契機であるという点です。二十一世紀は東アジアの時代になるでしょう。それは、東アジアは世界の文明の最先端に位置し、二十一世紀の地球文明の牽引者となるということであって、世界の覇権を握るということではありません。
覇権の時代は冷戦の終了とともに終わりました。否終わらせなければなりません。東アジアの時代は経済力や軍事力が幅を利かす時代ではありません。アジア的なものの見方・考え方が、世界に浸透する時代でもあるでしょう。つまりアジアから欧米に向けて発信する時代なのです。アジア人の持っている良さが、二十一世紀に生きる世界の人々に必要となるということです。
つまり、アジア太平洋地域は西回りで来た西洋文明が東洋と出会うところであり、アジアに温存されていたアジア的な価値観が西洋と出会うところでもあります。西洋と東洋が出会う場です。これがおそらく地球文明の出発点であろうと思います。
アジア的なものの見方
アジア的なものの見方とはどんなものでしょうか。アジアと言っても大変広い地域にわたっていますし、考え方や価値観が多種多様に及びますから、これを説明するのは大変困難なことです。しかし、大まかな傾向があるように思います。それを西洋との比較でとらえてみることにします。
西洋のもののとらえ方には、分析的な傾向があります。物事の本質あるいは実体を正確に把握するには、より小さい単位の構成要素を探そうという姿勢です。こういうとらえ方を「要素還元主義」といって、特に物理学の方法論などに採用されています。物質の構成要素は分子である。では分子は何からできているかというと、原子だ。原子はまた素粒子から成り立っている。素粒子はクォークからできている。つまり最小単位の構成要素を探せば、全体を正確にとらえられるという発想です。これを分析的態度と言います。
しかし、東洋にはこうした分析的発想の経験はあまりないようです。むしろ物事をトータルに把握しようとする傾向が強いように思います。顕著なのは東洋医学でしょう。西洋医学ですと、胃が悪ければ胃を治そうとします。あるいは胃を取ってしまいます。東洋医学の発想は、胃が悪いのは体全体の問題が胃に表れたとみます。ですから、胃を治そうという発想ではなく、体全体のバランスを回復させようとします。体が本来持っている治癒機能を信頼するからです。西洋人にツボの話をしてもなかなか信じません。迷信だと言って退けてしまう人が多いようです。東洋人は体を全体的に把握し、相互の機能の有機的関連に強い関心を向けてきたように思います。東洋人は全体の中に個があると発想し、西洋人は個によって全体が成り立っていると発想しているようです。
こうした発想の傾向は当然、社会システムの中にも表れてきました。西洋では社会を構成している最小単位は、一個の人間であるということで、個人主義が発展していきました。ここから人間の自由や、基本的人権という発想が出てきたものと思われます。それに対して東洋に根づいていたのは、個人主義ではなくむしろ家族主義と言うべきものです。
個人主義も人間の自由という発想も、もともとアジアには馴染みの薄いものです。アジアでは家族を単位と考えるため、会社も国家も世界も家族の延長というとらえ方です。こうしたアジア的な発想が、個人主義をベースにした欧米の民主主義と摩擦の原因になることも少なくありません。
アジア的なものの見方は、へたをすると独裁や暴君を生む土壌となります。かと言って行きすぎた個人主義は、個人の単なるわがままを放置することにもなりかねません。その結末は、家庭の崩壊と社会の無秩序です。こうした全体と個の関係性は歴史的大問題でした。
しかし最近の傾向としては、西洋的なものの見方により、西洋自体が徐々に勢いを失っている現状から、アジア的な見方を見直してみようという動きがあるように思えます。
科学の分野でも生命現象は単なる分析的方法ではとらえられなくなりました。家庭は個人と個人の契約によって成り立つという発想では、崩壊を食い止めることはできません。家庭や社会や国家あるいは世界を強く結びつける理念を、時代は求めているようです。その時、個人主義を標榜する西洋よりは、家族主義を下敷きにして個よりも全体に重心を置く東洋の理念にモデルがあるのかもしれません。
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