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19. 明治以後百二十年で日本は衰退の予言の意味
一九八八年が日本の運勢のピーク
日本は一八六八年に明治維新を迎えました。この時はちょうど日本の新しい夜明けであり、真の意味での国家としての出発点でした。文鮮明先生は、明治維新から百二十年目に当たる一九八八年が日本の運勢のピークであり、それ以降は欧米の日本切り捨てにより危機に瀕することを、二十年以上も昔から予言されていました。
第二次世界大戦後は、アメリカの保護のもとで、今日の繁栄を築きあげてきました。欧米に「追いつき追い越せ」と言いながら、馬車馬のように働いてきたのです。特に石油ショックを越えた一九七六年ころから八八年までの十二年間は、日本人自体も信じられないくらいに急速度に経済が発展していきました。誰もが日本の経済の将来を楽観し、明るい未来を夢見ていました。株や土地の価格は無限に上昇するものと錯覚し、市場は異常なほどに膨らんでいたのです。一九九〇年、株価の暴落をきっかけに一気にバブルは弾けてしまいました。不況の時代の到来です。国の勢いを経済だけで計ることはできないかもしれませんが、一つの指標になることは間違いありません。
この不況に直面して、これまで日本経済を支えてきた基盤がいかに脆弱であったかをまざまざと私たちは思い知らされました。将来の経済発展の希望がなければ、企業は設備投資も先行投資も控えるでしょう。大半の企業がそう考えれば、経済全体が活性化する力を失い、限りなく縮み込んでしまいます。最近、日本の企業は生き延びることに精いっぱいで自信を失っているようです。企業の勢いが日本の国の力の源泉でした。企業が活力を失えば、国の勢いも失われます。文先生の予言のように、日本は衰退せざるをえないのでしょうか。
予言には、必ず「そうなる予言」と、「そうならせないための予言」があると、私は理解しています。今回のこの予言は、おそらく後者であります。日本を衰退させてはならない。そのために天は文先生を通して、私たち日本人に警告を発しておられるに違いありません。
日本の奇跡的繁栄の意味
日本が戦後の焦土の中から、これほどまでに奇跡的に繁栄を享受できたのは決して偶然の出来事ではありませんでした。アメリカの保護、韓国動乱による特需、日本人の勤勉さなどいろいろな要件が考えられます。これらすべてが最適状況で絡み合って、今日の発展が生じたのでしょう。そしてそれは決して偶然の結果ではありません。内村鑑三の言葉で言えば、日本の天職を全うするために天が与えた環境と言えるのです。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説があります。人を殺したり、家を放火したり、さんざんの悪事を働いた大泥棒の男の話です。彼は生きている時、悪事の限りを尽くしますが、たった一つの良いことをしました。ある日、林の中を歩いていた時、一匹の小さな蜘蛛を見つけます。男は足を上げて踏み殺そうとしましたが、思いとどまります。「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみに取るということは、いくらなんでも可哀想だ」。彼は蜘蛛を助けたのです。
彼はその後、死んでやはり地獄の責め苦に遭って苦しみます。それを見たお釈迦様は、彼が生前行ったたった一つの善いことを覚えていて、彼を地獄から救うために、蜘蛛の糸を天上から彼のもとに垂らしてくれました。男は喜びます。この糸にすがって行けば、地獄を抜け出せるかもしれない、もしかしたら極楽までも夢ではない。必死に彼は細い糸を上っていきます。ところがふと下を見ると、何と数限りない地獄の罪人たちが、自分の上った後をつけて、蟻の行列のようによじ登ってきます。彼は思わず叫びます。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちはいったい誰に聞いて、上って来た。下りろ。下りろ」。その途端、蜘蛛の糸はぷつりと音を立てて切れてしまったという話です。この小説は芥川が年少者向けに書いたもので、よく教科書などに掲載されていますから、ご存じの方も多いのではないかと思います。
私はこの小説を書いた芥川の意図がどうあれ、今日の日本の状況を警告しているように思えてなりません。蜘蛛の糸は男にとって、お釈迦様が救いのために与えてくださった恵みです。男の所有物ではありません。その男の救いを通して、ほかの罪人たちを救おうとするお釈迦様の願いがあったのかもしれません。ところが男は、自分の物でもないものを自分の物と錯覚して、自己の幸福ばかりを願って、他者を顧みない利己主義の邪念が頭をもたげます。その時、糸は切れてしまったのです。
今日の日本はどうでしょうか。戦後こんなに繁栄したのは、日本自体の努力だけでは説明しきれないものがあります。さまざまな要因が偶然に重なりあった結果であり、日本は運が良かったのだと片づけることは簡単です。しかし、運は運でも天運である可能性があります。もし日本が天運のゆえに繁栄したのならば、ことはそう簡単ではありません。日本の繁栄には意味があり、天命があるからです。この天命を知らずまた知ろうともせず、ただ繁栄による享楽をむさぼっているならば、かの男にあったように天運の糸は、ぷつりと音を立てて切れることでしょう。文先生が日本の将来を心配しておられるのはそういうことであろうと思われます。
明治維新以降百二十年の日本の繁栄は天の責任において守られた期間であります。一九八八年以後の日本は、衰退するのではなく、実は日本自体の責任において天から与えられた使命を悟り、それを遂行する必要がある時期ということではないでしょうか。
人間の人生にそれぞれ役割があるように、国家にも果たすべき使命があります。豊かさは天の恵みに違いありませんが、同時に重い責任を伴うものです。戦後の奇跡的繁栄は、天が日本に、ある使命を与えたと受け止めるべきであって、厳粛なものなのです。これを悟らなければ、天が日本を見離すという警告が文先生により発せられているのです。
しかし、残念なことは、今日日本の多くの政治家、財界人たちは、蜘蛛の糸を自己の所有と錯覚した例の男のように、自己の利益のために汲々としています。九〇年のバブルの崩壊は天が日本に与えた天運の糸が切れる前兆でないとは決して言えません。
アメリカは日本を不信しつつある
冷戦が終わって、今日世界に二つの顕著な特徴があるといわれています。一つは経済です。米ソ対立構造が崩壊した結果、地球規模の戦争の可能性がきわめて少なくなりました。そのため世界の指導者たちは、国の安全保障よりも、経済の発展に関心を向け始めました。
もう一つは、地域主義の傾向です。ヨーロッパは、欧州連合(EU)を作り、EFTA(欧州自由貿易連合)国家や東欧諸国を巻き込んで、一つにまとまりつつあります。アメリカはカナダとメキシコとの間に北米自由貿易協定を成立させました。こうした経済主義と地域主義の傾向は、日本にとって有利に作用するとは必ずしも言えない面があります。むしろ、日本を孤立化させる可能性すらあります。
冷戦時代、アメリカの第一脅威はソ連でした。しかし今日ソ連が崩壊し、ロシアはアメリカの脅威でなくなりました。むしろ、これまでアメリカの保護下にあって、軍事的支出を抑えて、経済大国になった日本がアメリカの第一脅威になっています。そのことは最近のアメリカの世論調査で明らかです。アメリカの一般国民は徐々に日本を警戒し始めています。そうした国民の対日感情をアメリカ政府は無視できなくなりました。最近の日米経済摩擦にはこうした背景があるように思えます。
異なった文化と歴史を持つ国同士が貿易を行うのですから、摩擦は避けられません。自分だけが絶対に公平だと主張できる国もありません。例えば、自由貿易を標榜するアメリカは明らかに管理貿易としか思えない数値目標を押しつけようとします。それを日本は管理貿易だと非難します。しかし、そう主張する日本はきわめて閉鎖的です。自由貿易によるメリットを最も多く享受してきたのは、おそらく戦後の日本でしょう。それがあってこれほどの経済大国になれたのですから、今度は自由貿易によるデメリットも受ける気概がなければ、単なる日本の国家エゴと見られても仕方ありません。
相手の問題点を相互に非難し合っても、何の問題解決にもなりません。要は、相互の問題点を解決するために何が必要なのかを忍耐強く求める姿勢です。それには相手との信頼関係の構築が不可欠です。この信頼関係は、相互の根気強い努力によって築かれるものです。果たして、日本はアメリカとの信頼関係を構築する努力をしているのでしょうか。
もちろんアメリカの理不尽な要求に盲目的に追従することが、アメリカとの信頼関係を築く道ではありません。二十一世紀に向けた世界の将来ビジョンを描きながら、日本がどのような貢献ができるのかを明確にして、国家戦略を練ることがまず先決です。国家エゴを越えて日本が世界のためにできることをはっきりと主張し、その観点から時にはアメリカにノーと言い、時にはイエスと言うべきなのです。現在日本は場当たり的な判断を繰り返し、かえって世界から不信感を持たれてしまっています。日本が世界のために貢献できることに対し、日本自身が主体的に、積極的に取り組み、それを主張することがまず必要です。
隣国との間の信頼関係
どの国も孤立しては存在できません。特に日本のような資源のない島国にとって、孤立化は生存を危うくします。ドイツの元首相シュミット氏は、「経済大国日本は本当の友人となる国を持っていない」と指摘したことがありました。戦後、日本人はわき目も振らずに働き、高度成長を続けてきました。その結果、国家として最も大切なことを忘れていたのかもしれません。それは友人を作ることでした。特に、経済的にも安全保障的にも、密接な信頼関係を作らなければならないのは、隣国です。アメリカが日本の存在を煙たく感じ始めた今日、日本は真の友人についていや応なく考えざるをえなくなりました。
日本の隣国は韓国と中国であることは言うまでもありません。しかし、日本にとって不幸なことは、これらの国々の両方とも今世紀に入って日本から迷惑を被った被害者であるということです。過去の悪い記憶を持つ韓国や中国の人々にとって、日本に対する不信感はいまだ消えていません。状況が許せば、日本は再びこの地域を支配しようとするだろうという警戒心を持つ人は、韓国や中国に少なくないようです。
加害者である日本は、そうした隣国の態度に腹を立てる資格はありません。むしろ彼らの対日感情を理解する必要があります。問題は彼らの怨念を解消させるような努力を日本がどれほどしてきたかということです。歴史を水に流そうとする日本と、歴史に限りなくこだわろうとする韓国や中国との間の溝はかなり大きいものがあります。しかし、その溝を埋める努力を加害者である日本自体が行わなければ、「東アジアの時代」は絵に描いた餅に終わるでしょう。
地域主義が世界の潮流になりつつある現在、東アジアはまだそのビジョンも枠組みも作れずにもたついています。東アジアの核になるのが、日本と韓国と中国であるならば、何はさておきまずこれらの国々の間の信頼関係が最も重要です。経済交流も安全保障も相互信頼の上に築かれるものであるからです。
ドイツは第一次、第二次の両大戦の戦争犯罪国家です。戦後ドイツは日本と同じように、国家を立て直すために経済成長に励みました。しかし、ドイツが行った努力は日本と全く異なるものでした。ドイツはヨーロッパの隣国との信頼関係を築くことを第一優先としたのです。そのために、ドイツはナチを徹底して追放しました。二度とこうした戦争は起こさないというドイツの強い意思を隣国、つまりかつての被害国家に示しました。
次に経済相互主義です。ヨーロッパの国々との間で貿易不均衡を起こさないように神経を遣いました。フランスに百万ドル売れば、フランスから百万ドル買う努力をしたのです。経済的な脅威を与えないためです。
戦争犯罪国家ドイツはヨーロッパで生き残るために、戦後、けなげな努力を続けてきたのです。ドイツ人はドイツ人であることを恥じ、ヨーロッパ人であろうとさえしました。こうした意識が、ヨーロッパ共同体構想を実現させた本質的な要素です。フランスを表に立て、ドイツはあくまで表に出ず、陰でフランスを支えながら共同体構想を推進してきたのです。ドイツは隣国を友人にすることに成功したと言ってもいいでしょう。
日本はどうでしょうか。同じ敗戦国家であり、戦争の加害者である日本は、戦後経済的に発展したという面ではドイツと同じでも、そのあり方にはずいぶん差があります。日本は隣国に友人を作ることに無関心でした。シュミット氏がそのことを鋭く指摘できたのは、ドイツが戦後隣国に友人を作ることに心を砕いてきたからなのです。
靖国神社に英霊を祭るのは、日本人として当然のことです。しかし、同時に考えなければならないことは、かつて日本の被害を受けた国々がそれをどう見るかということです。彼らは、日本は戦争を反省していない、またやるかもしれないと見るでしょう。フランスとドイツの関係で言えば、ドイツ人がナチを神として祭っているようなものなのです。英霊を祭る日本人にそんな意識がないと言っても、通用しません。日本はあくまで加害者であったことを忘れてはならないのです。
また、日本は自国の企業を保護するため、輸入を徹底的に制限し、世界に日本の商品を輸出してきました。その結果が膨大な貿易黒字です。アジアの国々からは経済侵略だとも言われています。日本の発展は、隣国にかえって脅威を与え、友人を作りにくくしています。
日本はこのことに気が付くのが少し遅れてしまいました。冷戦が終了して、アメリカの保護が徐々になくなりつつある今日、日本は隣国との信頼関係の重要性を悟らなければなりません。欧米が結託して、本気で日本を叩く日が来ないと誰が言えるでしょうか。文先生が危惧しておられるのは、欧米の日本切り捨てであることは先程述べた通りです。どのような状況になろうとも、絶対に不可欠なのは、隣国と信頼関係を結び真の友人を作ることです。
本当の危機は教育の危機
九〇年以後株価が低迷し、日本経済は不況のどん底にあえいでいます。しかしそれは日本の本質的な危機ではありません。危機の前兆であり、一つの警告に過ぎないものです。最も深刻な危機は、教育の問題です。
二十一世紀はあと数年で確実に訪れます。そしてその世紀は私たちの時代ではありません。私たちの子供たち、あるいは孫たちの時代です。子供たち、孫たちがどんな人間になるかが、二十一世紀を決めると言っても過言ではないのです。つまりどんな教育を私たち大人が子供に与えるかが、次の時代を決定するということです。
私たちは、二十一世紀に生きる子供たちに何を残してあげられるでしょうか。高度成長を続けることによって得た財産だけだとしたら、あまりにも寂しい気がします。先日、北極圏に住むエスキモーの若い女性の記事が新聞に載っていました。彼女は、自分の祖父や父親から繰り返し繰り返し聞かされてきたことを語っていました。それは極地圏に住むエスキモーとしての誇りを失わないこと。そして人に対して常に奉仕をすること。この二つだったそうです。これが民族の伝統です。
私たち日本人は、戦後死に物狂いで働き、確かに高度成長を達成しました。男たちは、企業に奉仕し、家庭と教育に関心を向けてきませんでした。「企業戦士」という言葉が出てきたほどです。しかし、大切なものを置き去りにしてきたようです。子供に残す精神的財産です。
お金は人生にとって、大切な一つではあっても、絶対に大切な要件ではありません。その絶対に大切なものが何であるかを示すのが価値観です。私たち日本人の中で、自分の子供にこうした価値観を自信をもって教育している人がいったいどれほどいるでしょうか。この価値観は、言葉ではありません。生き方の問題です。自分の生き方を通して、子供に精神的な財産を残し、それが何代も何代も語り伝えられて伝統となります。戦後の五十年は、お金を得ることには成功しました。しかし、それは精神的財産の代償によって成り立っていたものであることに、そろそろ気が付かなければなりません。
高度成長の落とし子たち
戦後、日本人は豊かになることを目標にしてきました。戦前の人々にとって、貧困はまさに恐怖でした。豊かになった今、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
このたびの不況は、企業戦士たちが自己の人生をもう一度考え直すきっかけになった面も少なくありません。それまで、残業に続く残業の毎日でした。しかし、不況は彼らから仕事を奪いました。残業する必要のなくなった戦士たちは、六時前後には帰宅するようになりました。彼らの多くは、その時家庭に自分の居場所がないことに気づいたそうです。夕方から家にいると、なんとなく妻や子供たちから邪魔者扱いされている自分を発見したようなのです。自分にとって、家庭とはいったい何だったのかを考え、深刻に悩んでしまいました。
彼らは家庭の幸せのためにと思って、一生懸命働いてきたのです。しかし、ふと気が付いてみると家庭の中に自分がいない。妻や子供たちの心の中に自分が存在していないことに気づいて愕然としたのです。彼らはビジネスの戦場では勝っても、人生の戦場では敗北したのかもしれません。
物質的な豊かさは、それを超える確かな価値観を明確に持っていないと、かえって悲劇を生むことになりかねません。企業戦士の話は、その一例です。しかし、もっと深刻な悲劇は、子供たちの問題として起こってくるということです。
価値観を子供に植えつけるのは親の責任です。親から、人生において大切なものを生き方として教えられなかった子供は、快か不快かを判断の基準に置くようになります。価値観のない子供は、人間の原初的な欲求を満たすことだけに関心を向け始めるのです。しかし、人間社会を生きる上では、たとえ快であっても、やってはいけないことがありますし、不快であっても、やらなければならないことがあるはずです。それを教えるのが価値観です。
最近では、財布に数万円を常に持ち歩いている中学生、高校生が珍しくなくなりました。彼らは日本の高度成長が生み出した落とし子たちです。彼らは日本の消費文化の中にどっぷり漬かってしまっています。彼らは一番欲しい物はお金だと、何の恥じらいもなく答えます。お金のために売春すら始める女の子も多くなりました。世の中にはそういうムードを、「進んでいる」と言って楽しむ傾向すらあります。日本は確実におかしな方向に向かっています。戦後貧困を逃れて、豊かさを追求するため、最も大切なものを忘れてきた歪みが、今になって噴出しているのです。
子供たちを取り巻く環境
社会と学校と家庭が現実的に子供たちを取り巻く環境です。これらは健全な子供を育成する環境にはなっていないのが現状です。商業主義に毒されたマスコミは部数の拡大や視聴率の向上のため、性情報を氾濫させています。いまだ抵抗力のない子供たちは、こうした性情報により、必要以上の過剰な刺激を受け、心はむしばまれています。
偏差値一辺倒の価値評価で測られる子供たちは、優秀な子であればあるほど受験地獄へと駆り立てられています。形の上では偏差値をなくしたとしても、依然として評価の中心は偏差値のようです。学校はそれに対してなすすべを持ちません。せいぜい土曜日を休みにするくらいが文部省の対策です。しかし現実は受験戦争に油を注ぐだけに終わるでしょう。子供の成長は知識だけで測れるものではありません。もっと全人的なものです。評価を偏差値に特化させることによって、子供にとってもっと大切な感受性、道徳性などを犠牲にしている傾向があります。
こうした偏差値一辺倒の教育は、実は親に一番の責任があります。どんな子供になってもらいたいのか。自分たち自身が、人生の明確な目的を持たずに、豊かになるために一生懸命働いてきただけなので、子供に人生の目的を示してあげることができないのです。ただ一流企業に入ればいい。そんな低級な目的しか示しえない現状です。子供の無限の可能性を信頼し、ワクワクするような気持ちでそれを発見し、伸ばしてあげるような接し方がどうしてできないのでしょうか。
また、先程の企業戦士のように、家庭は子供に温かいぬくもりを保証する場ではなくなってきました。学校で偏差値の競争で疲れ、塾でさらに厳しい追求と競争の嵐にもまれ、夜遅く帰る家庭は冷たい家庭だとすれば、子供はどうなってしまうのでしょうか。
子供が大人になっていく過程において必要なものは、自立する精神と他者に対する思いやりの心です。これらは家庭において育まれていくものです。家庭における愛の欲求不満は、子供の自立を妨げます。愛されたいという幼児の衝動が常に付きまとうからです。自立の精神は愛する心です。親から愛され、愛の雰囲気の中で育った子供は、自然に他者を愛する心を持つようになります。それが思いやりの心でもあるのです。
愛の欲求不満をいだき続ける子供は、社会の過剰な性情報の氾濫の中で、肉欲的な手段で欲求不満を満たそうとします。思春期にかかるころは特にその危険性があります。今の日本の社会は子供たちを保護する環境にはなっていません。私たちは、現在に生きていながら、未来に責任がある立場です。その責任は教育を通して果たされなければなりません。そしてそれは今生きているすべての者が背負うべき責務なのです。国家や社会はそのために最善の環境を準備しなければならないのは言うまでもありません。今日日本の教育環境は、日本衰退の本質的危機を示しています。今子供たちは病んでいるのです。ゆえに日本の将来は病んでいると言えるのです。