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毎日新聞 2022/11/10 06:00(最終更新 11/10 20:06) 有料記事 3094文字
トウモロコシ畑の前に立つズラトコ・コカノビッチさん。「これが私たちにとっての富だ」と訴えた=セルビア西部ゴルニェ・ネデリツェで2022年9月23日、宮川裕章撮影
なだらかな丘陵にトウモロコシと小麦の畑が連なる。セルビアの首都ベオグラードから南西へ100キロのゴルニェ・ネデリツェ村は、のどかな農業地帯だ。地元の高校教師、マリヤナ・ペトコビッチさん(48)は「水はきれいだし、食べ物は新鮮。この自然を見てください」と周囲の森を見渡した。その一角のヤダル谷と呼ばれる地域に、脱炭素社会に不可欠な「宝」が眠る。
英豪資源大手リオ・ティント社は2004年、ここにリチウムとホウ酸塩の鉱脈を発見。約4億ドル(約570億円)を投じ、リチウム鉱脈開発事業「ヤダル計画」を進めている。リチウムは電気自動車(EV)のバッテリーや蓄電池の生産に不可欠なレアメタル(希少金属)。各国が「脱ガソリン車」を急ぐ中、欧州連合(EU)はリチウムの需要が30年に現在の18倍、50年には60倍に達すると試算する。
EU加盟国
ロシアのウクライナ侵攻で、戦略物資を自前で調達することの重要性を改めて認識した欧州。ティエリー・ブルトン欧州委員(域内市場担当)は「原材料をうまく獲得できなければ、移動手段の温室効果ガス排出量をゼロとする目標が危うくなる」と危機感を抱く。
「緑はここにある」
セルビアはEU加盟を目指している。EUにとっては重要資源の安全な供給元としての期待がかかり、リオ社も「リチウムこそ、クリーンエネルギーへの革命の先駆けとなる重要な原材料だ」と意気込む。同社はフル稼働時の鉱床の年間生産量を8億ドル相当と試算。セルビアの国内総生産(GDP)を2・8%押し上げる経済効果があるという。
現場近くで暮らす人たちにも経済再生への期待がある。農業だけで生計を立てるのは難しく、ベオグラードやドイツ、スイスなどに働きに出る人も多い。過疎化が進み、地元小学校の児童数は20年前の3分の1。開発予定地の買収交渉には既に50世帯のうち約半数が応じ、引っ越した。
リチウム鉱脈開発のため住民が移住した廃屋=セルビア西部ゴルニェ・ネデリツェで2022年9月23日、宮川裕章撮影
一方で、環境破壊への不安が、残った住民を悩ませる。リチウム生産は大量の水を使うことから農業用水や生活用水の不足が懸念されるほか、生産・精製の過程では硫酸ナトリウムなどの残留物が発生する。それらを処理する際に水質や土壌が汚染される危険が指摘されている。
セルビア政府は20年にこの地でのリチウム開発の許可を出した。だが、多くの環境活動家が乗り込み、反対運動は政治問題化。ベオグラードで21年12月に行われた抗議運動には数千人が集まり、政府は今年1月、開発に関するすべての許可と決定を取り消した。だが、4月の選挙で勝利したセルビア進歩党を率いるブチッチ大統領は開発の再開に前向きとも受け止められる発言を繰り返している。9月には訪問先の米ニューヨークで、許可取り消しを「政治的な失敗だった」と言い切った。
地元住民は、政府や企業が唱える「グリーントランジション(緑への移行)」に反発する。獣医兼農家のズラトコ・コカノビッチさん(46)は背丈より高いトウモロコシの茂みに分け入り、実を一つもぎとって記者に渡した。「これが私たちにとっての富だ。政府や企業は自然のため、グリーンのためというが、緑は既にここにあるじゃないか」
進む環境破壊
取材に応じるアレクサンダー・ヨバノビッチ議員=ベオグラード市内で2022年9月20日、宮川裕章撮影
リチウムなどのレアメタルは、EVの電池のほか、風力発電や太陽光発電機などの材料にも使われ、温暖化対策を進めるうえで重要な金属だ。欧州委員会が20年9月にまとめた「重要原材料行動計画」はリチウムなど30種類の鉱物を独自確保する重要性を明記。「バルカン地方西部をEUの供給網に組み入れることが重要」との記述もあり、セルビアを例に挙げている。
セルビア議会野党「モラモ連合」のアレクサンダー・ヨバノビッチ議員はこの欧州の方針に強く憤る。
「リチウムがEUの利益になるのは分かる。それならなぜ自国で採掘しないのか。EUは私たちの痛みを感じることなく、ガチョウの毛をむしり取るようにセルビアを扱っている」
取材に応じるセルビア科学芸術アカデミーのネナド・コスティッチ氏=ベオグラード市内の自宅で2022年9月10日、宮川裕章撮影
ヤダル計画の詳細な環境影響評価が示されていないことも、住民の不安を増幅させている。セルビア科学芸術アカデミーのネナド・コスティッチ氏は、リオ社の採掘技術について「化学的見地から非常に問題がある」と指摘。硫酸の大量使用や、汚染物質の発生、鉱物に含まれる炭酸塩と硫酸が反応することによる二酸化炭素(CO2)の排出などが懸念されるといい、「温室効果ガス削減を大義とする計画が温室効果ガスを発生させる矛盾がある」と語る。
取材に応じるベオグラード大のラットコ・リースティッチ教授=ベオグラード市内で2022年9月21日、宮川裕章撮影
生態系への影響を不安視する声もある。ベオグラード大学のラットコ・リースティッチ教授(森林学)によると、周囲一帯には450種類以上の動物、植物が生息。そのうちの145種類が法律で厳格に保護されているといい、「有害物質が混じった廃棄物をためる貯蔵地が川沿いに予定されている。2、3年に1度ある豪雨による増水で廃棄物が河川に流れ出すと、広範な地域の飲料水に影響が出る恐れがある」と警鐘を鳴らす。
こうした指摘を、リオ社はどう受け止めているのか。担当者は「地下のリチウム鉱体と地表は分離されており、計画が進んでも、地元住民は妨げられることなく農業を続けられる。この鉱山は、欧州の高い操業基準と、厳しい社内基準を満たすように設計、計画されている」と主張する。
西欧の偽善
しかし、反対する住民や科学者の不信感は根強い。
特に、リチウム鉱床がEU加盟国でも確認されていることに反対派は憤る。ドイツのメルケル前首相は退任を控えた21年9月にベオグラードを訪問。記者会見でヤダル計画に言及し「世界が関心を持っているように、私たちも関心を持っているのは明らかだ。私たちはセルビアを含めた自動車業界に多額の投資をしている。未来の移動手段やバッテリーのために、リチウムがどれだけ重要なのか、理解している」と述べた。
取材に応じるミロスラブ・ミヤトビッチ氏=ベオグラード市内で2022年9月20日、宮川裕章撮影
反対派にはこのメルケル氏の発言が「西欧の偽善」に映る。実はドイツでもリチウムが採掘されており、ヤダル計画より環境に配慮した方法が採用されている。計画に反対するミロスラブ・ミヤトビッチ氏は「外国企業がセルビアに引きつけられるのは、規制の厳しい国でできないことを政府が許しているからだ」と指摘する。
ヤダル計画の予定地近くに住むペトコビッチさんは「グリーンへの移行というが、EVに乗って空気がきれいになる恩恵を受けるのは、EVをたくさん買う西欧の人たちだ。私たちの環境を犠牲にして西欧の人が潤うのは、現代の植民地主義だ」と切り捨てた。
欧州委員会のブルトン委員は「私たちは欧州以外からの輸入を好み、現地での環境や社会への影響には目をつぶってきた」と認める。そのうえで、戦略物資を独自に調達する経済安全保障の観点から、欧州内での鉱床開発にいかに投資を呼び込むか議論すべきだと主張する。
慣れ親しんだ自然への愛着を語るマリヤナ・ペトコビッチさん=セルビア西部ゴルニェ・ネデリツェで2022年9月23日、宮川裕章撮影
セルビアのブチッチ大統領や与党議員は、ヤダル計画の許可を取り消したことについて「大きな過ちだった」とする発言を繰り返している。野党のヨバノビッチ議員は「それこそが計画が水面下で継続している証拠だ」と語る。反対派は、リチウムの採掘自体をセルビアで禁止する法律の制定に向け動き出している。
グリーン経済を標ぼうし、脱炭素社会への移行を急ぐ先進国。その陰で環境破壊などの高い代償を強いられる国々。ヤダル計画予定地近くに住むコカノビッチさんらは7月、セルビアのほか、ポルトガル、ドイツ、チリ、スペインでリチウム開発に反対する団体を招き、「ヤダル宣言」を採択。「経済的利益を目当てにした不公平なエネルギー転換事業がもたらすリチウム開発の拡大に抵抗していく」ことを確認した。【ゴルニェ・ネデリツェ(セルビア西部)で宮川裕章】