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去る12月1日は世界エイズデー。日本エイズ学会は毎年この日の前後に学術大会を開いています。今年の学術大会で最も大きな話題だったのが、本連載で何度も取り上げているエイズウイルス(HIV)の暴露前予防(Pre-exposure prophylaxis、以下「PrEP」<プレップ>)です。薬を毎日1錠飲む、あるいは性行為の前後に合計4錠飲むだけでHIVに感染しなくなるというのですから、「夢の予防法」のように思えます。しかし、本連載で繰り返し指摘しているように、この予防法は手放しに誰にでも推薦できるものではなく問題が多数あります。私は今年の学術大会でそれらの問題点について報告しました。今回はその報告からポイントをまとめてみたいと思います。
高すぎて、手が届かない先発品
まずは「社会的な動き」について紹介しておきましょう。実は今年8月、大きな動きがありました。8月28日、ギリアド・サイエンシズ社が厚生労働省に申請していたHIV感染症治療薬ツルバダの「PrEPとしての使用」が承認されたのです。HIV予防薬の承認は国内初でした。
ツルバダは、PrEPの定番の薬です。しかし薬価は、以前の1錠3862.8円から大きく値下がりしたとはいえ、今も1錠2442.4円(税抜き)もします。この金額を毎日負担できる人はほとんどいません。治療薬として使う場合は保険適用されるのですが、PrEPの場合は保険適用外です。「ツルバダがPrEPとして承認された」と聞いたとき、我々関係者は大変喜びました。供給が安定する上、ようやく安く販売してもらえるのではと期待したからです。ところがふたを開けてみると、治療用もPrEP用も値段は同じでした。
ギリアド・サイエンシズ社が開催したメディアセミナーで、HIV流行終結に向けた課題について語るケネット・ブライスティング社長=東京都千代田区で2023年10月5日、金秀蓮撮影
さらにツルバダのPrEPへの使用が承認されたことで、別の問題も起こりました。ツルバダが高価なため、当院ではこれまで海外で発売されている廉価なツルバダの後発品に頼っていたのですが、以前にも述べたように(「なぜHIVの暴露前予防薬は認可されないのか 二つの厚生局の相反する対応」)、近畿厚生局は輸入を認めず、関東信越厚生局は許可するというよく分からない状況でした。
大阪に位置する当院も関東信越厚生局経由で仕入れていたのですが、これまで関東信越厚生局が後発品の輸入を認めていたのは「国内で流通している先発品のツルバダはHIVの治療にのみ承認されておりPrEPとしては承認されていないから」というのが理由でした(関東信越厚生局に電話で確認しました)。しかし、PrEPとしての使用が承認されたため、もはや関東信越厚生局経由でも輸入ができません。
品質や安定供給に不安が残る海外後発品よりも先発品の方が望ましいのは事実です。しかし、PrEP用のツルバダがほとんどの人には手が届かないほど高価である以上、今回の承認は何の意味もありません。それどころか、安価な海外後発品の輸入ができなくなり、PrEP用の薬が入手しにくくなってしまいました。率直に言えば、こんなことになるのなら初めから申請しないでほしかったわけです。
輸入後発品では解決しない問題
HIVのPrEPが必要な人は少なくありません。後述しますが、HIV陽性であってもきちんと治療を受けている限り、性行為をしても相手が感染することはないのですが、特定のパートナー以外と性交渉をもつ人たちが一定数存在し、そういう人たちにはPrEPは貴重な予防法です。
では、このような人たちは現在どうしているかというと、ツルバダとよく似た「デシコビ」という薬でPrEPを実施しています。デシコビもHIVの治療薬ですが、日本ではPrEPとしての使用は承認されていないため、関東信越厚生局は依然輸入を認めています。後発品は安価ですから「これくらいなら費用を負担してPrEPをしたい」と考える人が少なくありません(当院では30錠で税込み5500円。ツルバダの約1/15です)。
しかし「輸入後発品のデシコビが入手できるなら問題はないか」というと必ずしもそうではありません。
まず、女性には使えないと考えるべきです。なぜなら、米国疾病対策センター(CDC)はPrEPとしてのデシコビの使用を認めているのは男性に対してだけであり、女性には「推奨しない」としているからです。
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もうひとつの問題はデシコビは「on demand PrEP」には使えないという点です。on demand PrEPとは、薬を毎日1錠ずつ飲むのではなく、性交渉の前後に3回(合計4錠)内服する予防方法です。この方法が有効とする意見があるのは事実ですが、それはツルバダを使用するのが前提であり、デシコビを用いての方法はきちんと検証されておらず、推奨している国や機関はありません。
on demand PrEPはすすめられない
なお、当院ではデシコビはもちろん、ツルバダを使ったon demand PrEPも推奨していません。理由は三つあります。
ひとつは米国CDCが「on demand PrEPを推奨しない」としていることです。
二つ目は日本のガイドラインの記載が「HIV感染リスクの低減に安全かつ有効である」という表現にとどまっているからです。「安全かつ有効」という文字だけを取り出せば有用な予防法にみえますが、「リスクの低減」という表現に注意が必要です。「リスクの低減」とはすなわち、「感染のリスクは下がりますが、感染しないと言っているわけではありませんよ」という意味です。
「感染リスク低減」は、例えば新型コロナウイルスやインフルエンザならありがたい話です。だから、「感染しない保証はなくてもリスクが下がるのなら有用だ」と考えてワクチン接種をするのです。他方、HIVは「絶対に感染したくない感染症」です。インフルエンザや新型コロナであれば「感染しても軽症で済む」と言われれば納得できますが、HIVの場合は軽症も重症もありません。いったん感染すれば生涯消えることはなく死ぬまで薬が手放せなくなります。内服を続ける限りエイズ発症を防げますが、HIVに関連する心血管疾患や認知症のリスクは生涯続きます。
私がon demand PrEPを推奨しない三つ目の理由は「実際に失敗例がある」です。2023年12月に公表されたシンガポールの論文に、ルール通り(性交渉の2~24時間前に2錠、最初の服用の24時間後に1錠、2回目の服用の24時間後に1錠の合計4錠服用)ツルバダ(と同じ薬)を内服したのにもかかわらずHIV感染した複数の事例が報告されています。
パートナーの治療でPrEPは不要に
これら三つの理由から私自身はon demand PrEPを推奨しません。
では、従来の毎日1錠飲む方式のPrEP(これを「daily PrEP」と呼びます)はどうかというと、私が推奨するのは、「パートナーが無治療または治療を始めて間もないHIV陽性者であり、血中ウイルス量が多いとき」です。この場合はコンドームなしの性交渉(unprotected sex)で感染しえますからPrEP(daily PrEP)が有効です。しかし、HIVの薬を開始し数カ月も経過すれば血中からウイルスがほぼ検出されなくなりコンドームなしの性交渉でも感染せず、PrEPは不要になります。この状態を「U=U」(undetectable<検出限界値未満> = untransmittable<HIV感染しない>)と呼びます(ユー・イコールズ・ユーと発音します)。
このU=Uの概念は国連合同エイズ計画(UNAIDS)が2018年7月に発表しました。
HIV/エイズに対する理解と支援のシンボルである「レッドリボン」にちなみ、赤くライトアップされた東京都庁舎=2022年12月2日午後7時50分、高木昭午撮影
この発表でHIV陽性者がどれだけ救われたかが想像できるでしょうか。
なにしろ、それまではHIV陽性者は「新たな感染を生み出す」として、社会の一部から忌み嫌われ、これが差別につながっていたのです。現在はU=Uが発表され、適切な治療を受けていれば他人に感染させることはないことが認められています。理論上、これで差別はなくなります。PrEPも不要になるはずです。
実は私はUNAIDSのU=U発表を聞いたとき、これで一気にPrEPが下火になると予想しました。ところが、実際には私の思惑は大きく外れ、その逆にその頃から「東京ではPrEPを処方するクリニックがあるのに、なぜ谷口医院ではできないのだ」というクレームに近い要求が増え、(近畿厚生局ではなく)関東信越厚生局経由での輸入を開始せざるを得なくなったのです。
問題だらけのPrEPをまとめておきます。
・HIVの予防に用いるPrEPの薬は、国内の製品は高価すぎるために安価な海外後発品に頼らざるを得ない
・PrEPに使うツルバダは「日本に先発品があるから」という理由で近畿厚生局は後発品の輸入を以前から認めていなかった。関東信越厚生局は「日本で流通しているツルバダは治療薬として承認されたものでありPrEPの薬としては承認されていないから」として輸入を認めていた
・2024年8月、日本でツルバダがPrEPの薬としても承認されたため関東信越厚生局経由でも後発品が輸入できなくなった。現在、ツルバダをPrEPとして使用するには1日約2700円が必要
・ツルバダと同じようにPrEPとして使うことができるデシコビは、関東信越厚生局経由でなら後発品も含め、クリニックでの輸入が可能。比較的安価で処方できる
・しかしデシコビは女性には推奨されていない。またon demand PrEPとしても使えない
・on demand PrEPはツルバダを用いた場合もリスクがある。米国CDCは推奨しておらず、日本のガイドラインにも「感染リスクの低減に」と表現されているだけで「感染を防げる」とは記載されていない。失敗例も報告されている
特記のない写真はゲッティ
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谷口恭
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 月額110円メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。