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八 価値観の歴史的変遷
従来の西洋の価値観の変遷を歴史的に考察することにする。それは絶対的価値を探求したギリシア哲学とキリスト教価値観が、相対的な価値観に圧倒され、結局は無力化してしまった歴史的な経過をとらえるためであり、新しい価値観(絶対的価値観)によらなければ、今日の世界の混乱を収拾できないということを明らかにするためである。
(一) ギリシア時代の価値観
唯物論的価値観
紀元前六世紀に、ギリシアの植民地であったイオニア地方に、唯物論的な自然哲学が出現した。その当時、ギリシアは氏族社会であり、神話を中心とした時代であったが、イオニアの哲学者たちは自然現象に対する神話的な説明にあきたらず、世界と人生を自然法則を通じて説明しようとしたのである。イオニア地方にはミレトスという都市があったが、そこは非常に貿易が盛んで、商人たちは地中海の全域にわたって活動していた。彼らは現実的であり、行動的であった。そのような雰囲気の中で、人々は次第に神話的な考え方を捨てるようになったのである。
その貿易都市ミレトスに紀元前六世紀ごろから唯物論的な哲学者たちが出現した。彼らはミレトス学派というが、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスなどがその代表者であった。彼らは主として万物の根源(アルケー)に対して論じたのであった。万物の根本に関して、タレスは水、アナクシマンドロスは無限定なもの(アペイロン)、アナクシメネスは空気であると説いた。その他にも、ヘラクレイトスは火であるといい、デモクリトスは原子であるといった。そのような自然哲学(唯物論)とともに、客観的、合理的な考え方がはぐくまれたのである。
恣意的価値観(詭弁的価値観)
紀元前五世紀ごろ、ギリシアではアテネを中心として民主政治が発達した。青年たちは立身出世のために知識を学ぼうとしていたが、そのためには、特に弁論術が必要とされた。そこで青年たちに弁論術を教えて、一定の報酬を受け取る学者たちが現れた。人々は彼らをソフィストと呼んだ。
それまでギリシアの哲学は、自然を学問の対象と見なしていたが、自然哲学だけでは人間の問題は解決されない事実に気づき、人間社会の問題に目を向けるようになった。ところが自然の法則が客観性をもっているのに対して、人間社会を支えている法や道徳は国によって異なり、また時代によって異なっていた。したがって法や道徳には、客観性や普遍性がないとして、人々は社会の問題の解決において、主として相対主義や懐疑主義的な態度を取るようになった。プロタゴラス( Protagoras, ca.481-411 B.C. )の「人間は万物の尺度である」という言葉は、真理の尺度は人によって異なるということであって、真理は相対的なものであるという相対主義を示すものであった。
ソフィストたちの活動は、初めは民衆を覚醒させるという一種の啓蒙的な効果を与えた。しかし、次第に懐疑論の立場を取りながら、真理は全く存在しないとまで主張するように至った。そして彼らは、弁論の方法のみを重んじ、詭弁を弄してでも議論に打ち勝とうとするに至り、のちに詭弁家ともいわれるようになった。
絶対的価値観
そのような状況のもとにソクラテス(Sorate, 470-399 B.C. )が現れて、そのような現状を大いに嘆いた。彼は「ソフィストは知った風をするけれども、実際は何も知ってはいないのだ。人間はまず自分が無知であるということを知らなければならない」と指摘しながら、まず自らの無知を知ることが真の知に至る出発点であることを力説した。そして道徳の根拠を人間の内面に内在する神(ダイモニオン)に求め、道徳は絶対的、普遍的であると主張した。ソクラテスの説く徳とは、真実に生きるための知を愛求することであり、「徳は知である」というのが彼の根本思想であった。また彼は徳を知ったならば必ず実践しなくてはならないと言って、知行合一を説いた。
それでは、人間はどのようにして真の知を得ることができるのであろうか。真の知は他人から来るものではなく、自己自身によって悟るものでもない。他人との対話(問答)を通じて、自分も他人も共に納得できる普遍的真理(真の知)に至ることができるとソクラテスは考えた。そして彼は絶対的、普遍的な徳を確立することによって、アテネを社会的混乱から救おうとしたのである。
プラトン(Plato, 427-347 B.C. )は、移り変わっていく現象界(感覚界)の背後に、不変なる本質の世界があると見て、それをイデア界(叡知界)と呼んだ。ところが人間は魂が肉体にとらわれているために、普通、感覚界を真なる実在の世界であると考えている。人間の魂は肉体に宿る前はイデア界にあったが、肉体に宿ることによってイデア界から離れてしまったのである。したがって人間の魂は絶えず真の実在であるイデア界に憧れる。プラトンにおいて、イデアの認識とは、魂が以前に知っていたことを想起することにほかならなかった。倫理的なイデアには、正義のイデア、善のイデア、美のイデアがあるが、中でも善のイデアは最高のイデアとされた。
プラトンは人間のもつべき徳として、知恵、勇気、節制、正義の四つの徳を挙げた。特に、国家を統治するものは知恵の徳をもつ哲学者でなくてはならないと考えた。それがすなわち善のイデアを認識した人であった。プラトンにおいて、善のイデアはすべての価値の根源であった。プラトンはソクラテスの精神を引き継いで、絶対的な価値を探求したのである。
(二) ヘレニズム・ローマ時代の価値観
ヘレニズム時代とは、アレクサンドロス大王(Aleksandros, 356-323 B.C. )がペルシア帝国を滅ぼしてから、ローマ軍がエジプトを征服して、地中海世界を統一するまでの約三世紀間をいう。この時代は、ひたすら個人の安心立命を求める個人主義の風潮が支配した。ポリス国家の崩壊により、国家を中心とした価値観は役に立たなくなってしまい、ギリシア人たちは不安定な社会情勢のもとにあって、やむなく個人の生き方に重点を置くようになったのである。それと同時に、国家の枠を越えた四海同胞主義(コスモポリタニズム)が高まった。この時代の代表的な思想が、ストア学派、エピクロス学派、懐疑派であった。
ところがこのような個人主義の風潮の中で、人間は自己の無力さを痛感するようになった。そこでローマ時代に至ると、人間は人間以上の位置にある、何かの存在に頼ることを願うようになり、次第に宗教的な傾向が見られるようになった。新プラトン主義がその結実であった。
ストア学派
宇宙万物にはロゴス(法則、理性)が宿っており、宇宙は法則に従って秩序整然と運行している。同様に、人間にもロゴスが宿っている。ゆえに人間は理性によって宇宙の法則を知り、「自然に従って生きる」べきであるというのがストア学派の主張であった。
ストア学派は人間が苦痛を感じるのは情欲があるためだと考えた。そこで情欲を離れてアパテイア(apatheia )――何ものにも惑わされない、完全に平静な心の状態(離欲状態)――に到達すべきであるといって、禁欲を説いた。すなわちアパテイアが最高の徳であった。
ギリシア人であれ東方の人であれ、みな宇宙の法則に従わなくてはならない。ストア学派において、ロゴスは神であった。したがって、人間はみな神の子として同胞なのである。そのようにして四海同胞主義(コスモポリタニズム)を打ち立てた。ストア学派の創始者はキュプロスのゼノン( Zeo, 336-264 B.C. )であった。
エピクロス学派
禁欲を説いたストア学派とは反対に、快楽を善として説いたのが、エピクロス(Epikouros, 341-270 B.C. )を創始者とするエピクロス学派である。エピクロスは現世における個人的快楽がそのまま徳と一致すると考えた。しかしその快楽は肉体的な快楽を意味するのでなく、「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこと」を意味していた。エピクロスは苦しみのない平静な心の状態をアタラクシア(ataraxia)――離苦状態――と呼び、これを最高の境地とした。
懐疑派
人間は事物に対してあれこれと判断しようとするから苦しいのであって心の平安を求めるためには、一切の判断を停止せよとエリスのピュロン(Pyrrho, ca.356-275 B.C. )は説いた。これを判断中止(エポケー、epoke■)という。人間にとって真理は認識できないのだから、一切の判断を差し控えることが望ましいというのが懐疑派の主張であった。
ストア学派のアパテイアも、エピクロス学派のアタラクシアも、懐疑派のエポケーも、みな個人の心の平安を求めようとする試みであった、ここに至り、ソクラテスやプラトンの探求した価値の絶対性は疑問視されるようになったのである。
新プラトン主義
ヘレニズム時代に続くローマ時代においても、ギリシア哲学はそのまま継続していったが、ヘレニズム・ローマ時代の哲学は、究極においてプロティノス(Ploinos, 205-270 )の新プラトン主義に到達した。
プロティノスは、一切のものは神から流れ出たとする流出説を唱えた。すなわち、初めは神の完全性に近いヌース(理性)、次に霊魂、そして最も不完全な物質というように、段階的に神から流出すると主張した。従来、ギリシア哲学は神と物質が対立する二元論の立場であったが、プロティノスは、神が一切であるとして、一元論を主張したのであった。
人間の魂は、一方では感性的な物質世界に流れていくと同時に、他方ではヌースから神へと戻ろうとしている。そこで人間は感性的なものから離れて神を直観することにより、神と一つになるべきであって、そうするのが最大の徳であるとされた。そうして忘我(エクスタシス)の状態において神と完全に一つになるといい、それを最高の境地であるとした。ギリシア風の哲学はプロティノスと共に終わりを告げたが、新プラトン主義は次に現れるキリスト教の哲学に大きな影響を与えた。
(三) 中世の価値観
キリスト教信仰を哲学的に基礎づけたのがアウグスティヌス(Augustinus, 354-430 )であった。アウグスティヌスによれば、神は永遠、不変、全知、全能であり、最高の善、最高の愛、最高の美なる存在であり、宇宙の創造主とされた。プラトンにおいて、イデアの世界はそれ自体で独立した世界であったが、アウグスティヌスはイデアを神の精神のうちに存在するものと見て、すべてのものはイデアを原型として創造されたと主張した。また世界は、神から必然的に流出したものとする新プラトン主義に対して、神はいかなる材料も用いることなく、全くの無から自由に世界を創造したという創造論を主張した。それでは人間は、なぜ罪深い存在なのであろうか。人間始祖のアダムが、自由を悪用して神に背いて堕落したためである。堕落した人間は神の恩寵によってのみ救われる。アウグスティヌスは神を信じ、神の救いを希望し、神と隣人を愛することが真の幸福へ至る道であるとして、信仰、希望、愛の三つの徳を勧めた。
キリスト教神学を確立したトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274 )は、徳として神学的なものと倫理的なものを挙げた。神学的徳はキリスト教の三元徳、すなわち信仰、希望、愛であり、倫理徳はギリシア哲学の四元徳、すなわち知恵、勇気、節制、正義である。神学的徳は人間を至福へ導くものであるが、その中でも愛が究極的なものであって、神と隣人を愛することによって、人間は至福を受けるにふさわしいものとなる。一方、倫理徳は、理性の秩序に服することである。倫理徳は神学的徳に至るための手段と見なされた。
(四) 近世の価値観
中世が過ぎて近世に至ると、取り立てて目新しい価値観は現れなかった。近世の価値観は、ギリシア哲学やキリスト教の価値観の延長または変形であると見ることができよう。
デカルト(Descartes, 1596-1650)は、従来のあらゆる定立された価値を疑うところから出発した。しかしそれはいわゆる懐疑主義ではなくて、懐疑を通じて、さらに確かなものを見いだそうとする試みであった。その結果、彼は「われ思う、ゆえにわれあり」という根本原理に到達した。彼は人間の理性を判断の基準と見なしたのである。ここに人間は理性によって情念を支配しながら、確固たる意志をもって行為すべきであるというデカルトの道徳観が生まれた。
パスカル(Pascal, 1623-1662)は、人間を偉大さもあれば愚かさもある矛盾的存在であると見た。そのことを彼は「人間は考える葦である」と表現した。人間は自然の中では最も弱いが、考えることによって最も偉大なのである。しかし人間の真の幸福は、理性によるのではなく、信仰によって、すなわち心情によって神に至ることにあると主張した(13)。
カント(Kant, 1724-1804)は、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』において、それぞれ真、善、美はいかにして成立するかを論じ、人間はこのような価値を実現すべきものであると説いた。特に善の価値の実現、すなわち道徳において、人間は実践理性からくるところの「何々すべし」という無条件的な命令(定言命法)に従って行為すべきことを主張した。
ベンサム(Bentham, 1748-1832)は、苦痛のない快楽の状態を幸福であるといい、「最大多数の最大幸福」の原理に基づいて功利主義を主張した。彼は快苦を量的に計算することによって、人間の行為の価値を決定することができると考えた。ベンサムの功利主義は産業革命を背景にして生じた価値観であり、形状的な価値観であるといえる。
キルケゴール(Kierkegaard, 1813-55)は、人間は美的実存段階、倫理的実存段階を経て、宗教的実存段階に至らなくてはならないと実存の三段階を説いた。すなわち人間は快楽の中に生きるのではなく、また倫理を守りながら良心的に生きるだけでも不十分であり、信仰をもって神の前に立って生きなければならないと説いたのである。キルケゴールは真なるキリスト教の価値観を復興しようとしたのである。
ニーチェ(Nietzsche, 1844-1900)は、十九世紀末のヨーロッパをあらゆる価値が崩壊しつつあるニヒリズムの時代であると見た。ニーチェにとって、キリスト教は強者を退けて人間を平均化する奴隷道徳であり、ニヒリズムを招来させた最大の原因であった。そこで彼は「権力への意志」を基準とする新しい価値観を提示したのである。神なき世界を力強く生きようというのが、ニーチェの主張であった。
真善美の価値を統一的に取り上げながら、価値を哲学の中心問題として扱ったのは新カント派のヴィンデルバント(Windelband, 1848-1915)であった。カントは事実問題と権利問題を区別したが、それを受けてヴィンデルバントは事実判断と価値判断を区別した。そして、哲学の任務は価値判断を扱うことにあると主張した。
事実判断は事実を客観的に認識する命題であり、価値判断は事実に対して主観的な評価を下した命題である。例えば、「この花は赤い」とか「彼は……をした」というのは事実判断であるが、「この花は美しい」とか「彼の行いは善である」というのは価値判断である。そして今日に至るまで、自然科学が扱うのは事実判断であり、哲学が扱うのは価値判断であるというように、事実と価値は完全に分離して扱われるようになったのである。
今世紀に至ると、「言語の論理的分析」を哲学の方法として採用する分析哲学が生まれた。分析哲学は価値論に関して次のような立場を取った。①価値は直覚によって知る以外にない。②価値判断とは発言者の道徳的賛成・不賛成の感情の表明にすぎない。③価値論は価値言語の分析のみに意義がある。そのように分析哲学はおしなべて、哲学から価値観を排除しようとするものであった。
デューイ(Dewey, 1859-1952 )によって代表されるプラグマティズムは、生活に対する有用性を価値判断の基準とした。したがって真善美のような価値概念も事物を有効に処理するための手段であり、道具でしかないと見なされるようになった。このような立場において、何が価値であるかは人によって異なり、たとえ同一人物においても時によって異なるのである。そのようなデューイの立場は相対的な価値多元論であった。
最後に、共産主義の価値観を挙げる。共産主義の価値観としては、例えばトゥガリノフ(B.P. Tugarinov )の次のような定義がある。「価値とは歴史的に特定な社会または階級に属する人々に、現実のものとして、または目的ないし理想として有用であり、必要であるところの、自然および社会の現象である(14)」。すなわち共産主義においては、プロレタリア階級にとって有用であるということが、価値の基準であった。ここにおいて、ブルジョア的な価値観とされる、既存の宗教的価値観を否定し破壊することが、共産主義の価値観の前提になっていたのである。そして共産主義における道徳とは、共産主義社会建設のために行う集団生活を推進するためのものであって、献身、服従、誠実、同志愛、相互扶助などがその内容であった。
(五) 新しい価値観の出現の必要性
このように歴史上に多くの価値観が現れたが、それは絶対的な価値を樹立しようとした試みが、みな崩壊してきた歴史であったと見ることができる。
古代ギリシアにおいて、ソクラテスやプラトンが真の知を追求し、絶対的な価値を樹立しようとした。しかしポリス社会の崩壊とともに、ギリシア哲学の価値観も崩壊してしまった。次にキリスト教が神の愛(アガペー)を中心として絶対的な価値を樹立しようとした。キリスト教の価値観は中世社会を支配したが、中世社会の崩壊とともに、次第に力を失ってしまった。
近代に至り、デカルトやカントはギリシア哲学と同様に、理性を中心とした価値観を樹立した。しかし価値観の根拠となる神の把握が曖昧であり、その価値観は絶対的なものとはなりえなかった。一方、パスカルやキルケゴールは真なるキリスト教の価値観を復興しようとしたが、確固たる価値観を樹立するには至らなかった。
新カント派は価値の問題を哲学上の主要な問題として扱ったが、価値を扱う哲学と事実を扱う自然科学を完全に分離してしまった。その結果、今日、多くの問題が生じている。科学者たちが価値を度外視して事実のみを研究した結果、人類を大量に殺戮する兵器の開発、自然環境の破壊、公害問題などを招くに至ったからである。
功利主義やプラグマティズムは物質的な価値観であり、完全に相対的な価値観となった。分析哲学は価値不在の哲学であった。そしてニーチェの哲学や共産主義は伝統的な価値観に対する反価値の哲学であったということができる。
ギリシア哲学やキリスト教を基盤とした伝統的な価値観は、今日では、それ以上、効力のないものと見られるようになった。伝統的な価値観は脆弱化し、自然科学から分離され、ついには哲学の領域からも排除されるに至ったのである。そして今日、社会混乱は極に達しているのである。ここに伝統的な価値を蘇生せしめながら、絶対的価値を樹立することのできる新しい価値観の出現が切に要請されている。新しい価値観は唯物論を克服し、正しい価値観でもって科学を導くものでなくてはならない。価値と事実は性相と形状の関係にあるのであり、事物において性相と形状が統一されているように、価値と事実も本来一つになっているからである。そのような時代的要請に答えようとして現れたのが本価値論なのである。