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毎日新聞 2024/1/24 東京朝刊 有料記事 1022文字
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東京都文京区の訪問歯科クリニック院長、萩野礼子(あやこ)さん(46)は自称「食いしん坊の歯科医」だ。
単なる美食家ではない。調理師の資格を持ち、かっぽうまで経営している。東日本大震災の後、歯科医として働いた福島県での経験がきっかけとなった。
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当時は東京医科歯科大の付属病院に在籍し、外来診療の傍ら、通院が難しい患者を自宅で治療する経験を積んでいた。
津波と原発事故が同時に起きた福島では、多くの人が仮設住宅暮らしを強いられた。災害関連死を防ぐ上で、口内環境のケアが必須だと考えた萩野さんはいわき市に移住し、私立病院で訪問歯科診療の体制作りに携わった。
多忙な生活を潤してくれたのが福島のおいしい食材だった。だがそれらは風評被害で買いたたかれていた。義憤を感じ、「福島と東京を食でつなごう」と決めた。
2016年、東京の下町・谷中に「甚三紅(じんざもみ)」を開いた。カウンターとテーブルの20席。福島の地酒を豊富にそろえ、旬の素材を丁寧に調理して提供する。
この店にはもう一つ、強みがある。かむ力やのみ込む力が落ちた人の求めに応じて「嚥下(えんげ)調整食」を出すのだ。
予約が入ると、専門家である萩野さんが事前に聞き取りを行い、その人の状態に合わせた手法で料理長が腕を振るう。
刺し身には隠し包丁を。大根は歯茎でつぶせるほど軟らかく。ただし味や見た目に妥協はしない。同席する全員に、同じ献立をおいしく味わってもらう。
「最初から諦めて食事をミキサーにかけるの、よしませんか。私は自分が高齢者になった時に食べたいと思える料理を作りたい」
和食は嚥下調整食に向いていると萩野さんは言う。口の中でゆっくり溶ける煮こごり、魚介のすり身で作るしんじょ、裏ごしした食材をだしでのばす「すり流し」など、伝統的な料理に一工夫することで可能性は広がる。
施設から一時帰宅した高齢者を囲む夕食、ひ孫の「お食い初め」や七五三を祝う席。家族が笑顔になる食の風景に、プロとして関わることに喜びを感じている。
店名の甚三紅は伝統色で、黄みがかった紅色。紅花で染めた生地が高価なことから江戸時代に禁止令が出たが、職人・桔梗(ききょう)屋甚三郎が安価な蘇芳(すおう)を使って再現し、歓迎されたと伝えられる。
「誰でも最期までおいしいものを食べたい。そんな場がないなら私が作ればいいのです」。そうか、萩野さんは甚三郎の心意気を受け継いだのだ。(論説委員)