+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第2水曜日です。
御心の主・イエス・キリストとみ心の聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ルカによる福音
<多く任された者は、更に多く要求される。>
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。12・39「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12・39-48)
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チョ・ミョンヨン神父様の「今日の黙想」です。
人間は根本的に利他的な存在だと言われます。私たちはこれを日常の暮らしの中でよく見出します。スポーツの試合で自国の選手が勝てば、選手に劣らず国民も喜びます。率直に言って、選手当事者には多くの利益がもたらされるでしょう。しかし、国民にはお金が手に入るわけでも、名誉が与えられるわけでもありません。相手が喜べば、自分も共に喜ぶことになるのです。
もう一つの例を挙げてみましょう。自ら命を絶つ人々の理由は何でしょうか。様々な理由があるでしょうが、結局は「自分は役に立たないという思い」、「見捨てられたという思い」、「世の中に自分一人だという思い」のためです。利他的な存在としての役割を果たせず、独り残されたという思いによって、この世の生に未練を断ってしまうのです。
ある時、真冬に水に落ちた人を助けるために川に飛び込んだ青年の話を思い出します。記者たちが「怖くなかったですか」と尋ねると、青年はこう答えました。「もちろん怖かったです。でも、そうする方が私の気持ちが楽になるからです。」
ある時、急いで道を歩いていると、言い争っている二人のおじさんを見かけたそうです。止めるべきだと思ったものの、ただの口喧嘩だったので、割って入ると「おせっかいだ」と言われそうでした。その上、約束の時間も迫っていて時間がありませんでした。それで、見て見ぬふりをしてその場を立ち去りました。問題は、約束の場所に着くまでずっと、気持ちが晴れなかったということです。
このように、利他的な心が私たちの本性ではないでしょうか。しかし、私たちは次第に、利他的な心ではなく、利己的な心が本性であり正解であるかのように振る舞っているようです。「他人を助けたところで、何になるわけでもない」という考えから、助けるべき瞬間に目を背け、物質的、世俗的な利益がなければ行動しようとしない姿を見せがちです。それは自分の本性に逆らう行動なのです。決して幸せにはなれません。
このように、他者に愛を施すことは、人間であれば誰にでも与えられた義務なのでしょう。そして、その義務に忠実であるとき、自分自身を満たす幸福を得ることができるのです。
今日イエス様は、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」と仰っています。多く与えられた分、隣人に対して愛を実践すべきであるのに、それができなければ、最後の瞬間に下される裁きが厳しいものになるという警告なのです。
特に、自分自身のためにも、愛を実践する私たちでなければなりません。愛に背を向ければ背を向けるほど、主から遠ざかることになり、そのために自分が得るはずの幸福も、減らざるを得ません。
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毎日の御言葉を聞き、今日与えられたことに感謝し、分かち合うことを実践できますように!聖霊、きてください。パクアグネス