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毎日新聞 2023/2/21 10:00(最終更新 2/21 10:00) 有料記事 1844文字
粘菌の「賢い」生態①
落ち葉や朽ちた木の表面などでひっそりと生きているアメーバ状の生き物「粘菌」。その意外な驚くべき能力を、最先端の技術に応用する研究が進んでいる。人間はこの不思議な生命体から何を学ぶのか。
粘菌は菌という名がつくが、動物でも植物でも菌類でもない単細胞生物だ。ゆっくり動き回ってエサをとりながら成長、合体し、ときに分裂する。
中垣俊之・北海道大電子科学研究所教授(生物学)は、粘菌の研究で、ユニークな科学研究などに贈られる「イグ・ノーベル賞」を2008年と10年に受賞した。1人の研究者が2回受賞するのは異例だ。
中垣さんが明らかにしたのは、粘菌の「賢さ」だ。
08年の受賞は、迷路の入り口と出口にエサを置くと、粘菌がそれをつなぐ最短経路を見つけることを発見した研究で、英科学誌ネイチャーに掲載された。10年の受賞は、日本の地図上で主要都市にエサを置き、勾配や川を光の強さで表現することで、実際に近い鉄道網の再現に成功。米科学誌サイエンスに掲載された。
粘菌の「賢い」生態②
中垣さんは「粘菌には脳のような全体を見渡す中枢はない。それでも、より全長を短く、より短い距離で、体が切断された際の保険となる経路も残す。バランスの良いネットワークを作る」と語る。
粘菌のように単純に見える生物にも「知性」はあるか――。中垣さんが目指すのは、それを明らかにすることだ。「賢さは人だけのものではない。さまざまな生物の知性を明らかにすることができれば、人間のものの見方や考え方が変わっていくこともあるかもしれない」と話す。
難問を効率的に解く
粘菌の賢さは最先端技術に応用されつつある。その一つがコンピューターだ。
「巡回セールスマン問題」という難問がある。セールスマンが複数の都市を1度ずつ訪ねて出発点に戻るとき、最短になるルートはどれか――という問題だ。
簡単そうに見えるが、都市が増えるとルートの数が爆発的に増える上、通常の方法では全てのルートをしらみつぶしに調べないと解けない。
4都市では3通りしかないが、10都市では約18万通り、16都市なら約6500億通りになる。32都市だと、国内最速のスーパーコンピューター「富岳」でも約3億年かかる。
粘菌をコンピューターにすると効率的に解けることに気づいたのが、「アメーバエナジー」を18年に創業した青野真士・最高経営責任者(CEO)だ。
シャーレ上に広がる粘菌=北海道大電子科学研究所提供
その秘密は、粘菌の「自律分散型」と呼ばれる動き方だ。
粘菌は環境変化に対応するため、体のさまざまな部分を同時に伸び縮みさせる。一見バラバラに動いているが、苦手な光を避けたり多くのエサを手に入れたりするため、体全体にとって利益が大きくなるように動いている。
迷路を解いたり、鉄道網を再現したりするのも、この能力があるためだ。
青野さんが作った粘菌コンピューターは、放射状に延びた多数の溝を持つ容器に、粘菌を入れる。粘菌は溝に沿って「足」を伸ばしたり縮めたりできる。
粘菌は放っておけば、全ての溝に足を伸ばそうとする。しかし光が溝に当たると足を引っ込める。異なるパターンの光を当てていくうち、粘菌は光ができるだけ当たらない、自分にとって最も心地よい形に変形する。
この溝とルートを「対応」させる。巡回セールスマン問題に適応できるように光の当て方をあらかじめ設定することで、どのルートが最適なのか、粘菌に見つけてもらうのだ。
開発進む粘菌コンピューター
溝の一つ一つに、都市の名前と、何番目に訪ねるかを表すラベルを付ける。例えばA、B、C三つの都市があった場合、A1、A2、A3、B1……など九つの溝を使う。粘菌がA2に足を伸ばせば「都市Aを2番目に訪れる」ことを表す。
A2、B1、C3に足を伸ばした場合、都市を「B→A→C」の順番に回るのが、粘菌が出した答えということになる。
実験では、都市数を増やしていっても解き終わるまでの時間は少しずつしか増えず、ある程度効率的に回るルートを見つけることができた。
現在は実用化に向け、粘菌の動きを電子でまねた、より速いコンピューターの開発を進め、数年後の実証実験を目指す。将来的にはスマートフォンに入るほどの小さなチップにすることも考えている。
巡回セールスマン問題を解く計算手法は、効率的な物流網の構築や、車の自動運転で渋滞を起こさない制御方法など、さまざまな応用が期待される。膨大な計算を瞬時にこなす量子コンピューターもこの問題に挑んでいる。「粘菌のライバルは量子コンピューターだ」と青野さんは意気込む。【松本光樹】