|
毎日新聞2024/3/11 06:00(最終更新 3/11 06:00)有料記事1802文字
東日本大震災の約2カ月後、花見会で患者と話す医師の岡部健さん(右)=宮城県川崎町で2011年5月7日、丸山博撮影
医療分野の取材をしていると、患者に向き合うひたむきさに驚かされる医師がいる。人を診る世界の奥深さを教わったのは、初任地の宮城県で会った岡部健さんだ。
東北大出身の呼吸器外科医。かつては患者を延命させることが医療の目標と信じる「治療一辺倒のイケイケ医師」(本人談)だった。
Advertisement
광고
赴任先の静岡の病院で考えが一変した。気管を切開して管を取り付けた男性から「もういい。若いあんたが頑張っているから我慢してきたけれど、自然に逝かせてほしい」と言われ、衝撃を受けた。
医師になって10年目。患者が望むことと、医師が患者のためと考えることには違いがある。岡部さんは「患者が望む医療」の模索を始める。
「医者なんて付け足し」
仮設住宅の集会所で、東日本大震災の被災者と話をする臨床宗教師養成プログラムの参加者ら=宮城県石巻市で2012年11月、下桐実雅子撮影
1997年、宮城県名取市の古いパーマ店を改修し、最期を自宅で過ごすことを望むがん患者らの在宅緩和ケアを担う診療所を開業した。私は患者の遺族の紹介でそこを訪ねた。訪問診療の同行取材をお願いすると「いいよ」と二つ返事で車に乗せてくれた。
訪問診療の現場には、一人一人が積み重ねた暮らしがある。生活を支えることこそ大事で、医師がやれることは少ない。岡部さんはそう気づき、介護士、作業療法士、しんきゅう師など多様なスタッフを増やしていく。福島や仙台にも診療所を開き、2000人以上のみとりに携わった。
言葉は少々乱暴だが「在宅の場では、医者なんて付け足し。『飯食ってクソたれて寝る』という生活の基本を支えるのは介護」と語っていたのが懐かしい。
2011年3月、東日本大震災が起きた。診療所があった名取市の沿岸部も大津波に遭い、患者宅に向かった看護師が亡くなった。
関連死を含めた死者・行方不明者は2万人超。仙台市の斎場ではボランティアの僧侶や神主、牧師らが犠牲者を弔った。その後も宗教・宗派を超えて遺族ケアなどに取り組み、岡部さんも後押しした。
布教を目的としない宗教家
傾聴活動をする認定臨床宗教師の吉尾天声さん=本人提供(画像の一部を加工しています)
実は岡部さんは、がんを患っていた。前年に手術を受け、震災は本格復帰間際の出来事だった。患者の立場になり「死の闇に下りていく道しるべがない」と感じたという。
訪問診療時に、患者が「死んだ母ちゃんが来た」などと「お迎え」体験を口にすることが、たびたびあった。人は死に近づくと、死者とつながっていく感覚があるのかもしれない――。岡部さんは、宗教学の研究者らと臨床死生学の研究会を作った。患者が在宅で穏やかな死を迎えるには、日本の地域文化に合った道案内人が必要だと考えた。
そこから生まれたのが「臨床宗教師」という概念だった。布教を目的とせず、被災地や病院、福祉施設など公共の場で心のケアを施す宗教者。12年に東北大が臨床宗教師を養成するプログラムを始めると、龍谷大、大正大、上智大など全国に広がった。18年には日本臨床宗教師会による資格認定制度ができた。
認定臨床宗教師で、熊本市の浄玄寺住職を務める吉尾天声さん(58)は、16年の熊本地震の避難所や仮設住宅で移動式のカフェを開いて被災者の話を聴く活動に取り組んだ。今は月1回程度、ボランティアで病院に通う。
ホスピス病棟のあるキリスト教系の病院で、お坊さんがいるのは不思議な気もする。でも「患者さんは私が僧侶だと分かると驚いて、話が盛り上がる。宗教観は人それぞれで、お坊さんと話せてよかったと言う人もいる」と吉尾さん。普段着で行き、宗教色を出さないよう気を使う。
臨床宗教師は一般の病院などでも、ボランティアや非常勤職員として受け入れが始まっている。ただ、施設側には心配もあるようだ。例えば、患者から「不安だから一緒にお祈りしてほしい」と頼まれたら? 応じることに問題はないものの、家族や周りの人に布教活動と誤解されかねず、配慮が求められるという。
養成に関わってきた東北大の高橋原教授(死生学)は「相手の気持ちを受け止めて伴走することに徹するのが基本姿勢。高齢多死社会が到来する中で、心のケアや傾聴が浸透すれば、その担い手としての役割が見直されるのではないか」と話す。
「医療と宗教の垣根を取り払い、みとりの文化を取り戻す」。そう訴えていた岡部さんは、活動が緒に就いた12年に62歳で他界した。手探りの取り組みも10年以上たち、認定者は200人を超える。今生きていたら、何を語ってくれただろう。【くらし科学環境部・下桐実雅子】
<※12日のコラムは社会部の川上晃弘記者が執筆します>