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認知機能低下、性格変容、うつ… アメリカンフットボールやサッカーの知られざるリスク
谷口恭・谷口医院院長
2024年12月30日
もっと広く周知されるべきなのになぜか日本ではあまり知られていない疾患のひとつが「慢性外傷性脳症=chronic traumatic encephalopathy」(以下「CTE」)です。この疾患を患っている人の多くが、過去にサッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、あるいは格闘技などのコンタクトスポーツに取り組んでいた人たちです。これらのスポーツで繰り返し頭部に衝撃が加わることで脳細胞が変性し、やがて、抑うつ状態、認知機能低下、性格変容などの症状が出現し、自殺に至る例も少なくありません。そこで2回にわたり、この知られざる重大疾患を紹介し、今後のコンタクトスポーツのあり方について考えてみたいと思います。
影響は一時的ではない
CTEは、ボクサーに多いことから日本では「パンチドランカー」とも呼ばれていました。漫画「あしたのジョー」でも描かれていますから広く知られていてもよさそうですが、「ボクサー以外は関係ない」と考えている方が多いのではないかと思います。
ボクシング漫画「あしたのジョー」=東京都千代田区で2024年5月9日、藤井達也撮影
しかし、この病気は特に米国では大きな注目を集めています。そのきっかけは、アメリカンフットボール選手の死でした。
まずはCTEの「海外での歴史」を振り返ってみましょう。
2002年9月24日、米国アメリカンフットボール界のスーパースター、マイク・ウェブスター(Mike Webster)が50歳で死亡しました。死因は当初は心疾患と報道されていましたが、死体を解剖した病理医のベネット・オマル(Bennet Omalu)医師が、「脳皮質にタウたんぱく陽性の神経原線維変化が存在する」ことを発見しました。「タウたんぱく陽性の神経原線維変化」を分かりやすく言えば「アルツハイマー病と同じような変化」です。マイク・ウェブスターは亡くなる前、金銭の浪費や記憶障害などの問題を抱え、さらには妻に去られてホームレスに転落したというエピソードもあります。オマル医師は解剖の所見を論文で発表し、コンタクトスポーツによる脳しんとうは、従来考えられていたような一過性の軽度のものではなく、精神や脳の機能を廃らせていくCTEの原因となる可能性を指摘したのです。
ところがNFL(National Football League)がオマル医師の見解に真っ向から反対し、論文撤回を求め独自の調査を開始しました。そして、NFL主体の研究チームは「脳しんとうを繰り返し起こしたとしても心配する必要はない」と結論付けました。
自殺する選手も…
しかし、その後すぐに立場が逆転します。オマル医師は、引退後にうつ病を患い05年に45歳で自殺したウェブスターの元チームメイトのテリー・ロング(Terry Long)の病理解剖も実施し、ウェブスターと同様、脳内にタウたんぱく陽性の神経原線維が広範囲に認められたことを明らかにしたのです。
オマル医師はさらに、06年11月に拳銃自殺したアメリカンフットボールの元選手、アンドレ・ウォーターズ(Andre Waters)の脳を調べます。元選手は亡くなった当時44歳でしたが、その脳組織は初期のアルツハイマー病と似た特徴がある85歳の脳のように退化していたと言います。元選手の自殺と脳損傷の可能性を指摘した記事は、07年1月18日、The New York Timesに掲載されました。この記事によって、「CTEはコンタクトスポーツが原因で発症する」と広く米国民に周知されることになりました。
アメリカンフットボールの選手の脳しんとうがCTEのリスクであるとするデータは、オマル医師が発表したデータのみならず、全米から集まるようになりました。
その後、精神症状に苦しめられていた元アメリカンフットボールの選手たちは、次々とNFLを訴え始めました。13年8月の時点で訴訟の原告となった元選手の数は4500人に達し、それまで「脳しんとうはCTEの原因でない」と主張していたNFLも、ついに自説を撤回し原告の要求に応じることになりました。損害賠償総額7億6500万ドルで和解が成立しました。
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15年4月の時点で、CTEを発症した元アメリカンフットボールの選手5000人以上に対し、NFLは総額10億ドルを支払うことで和解しました。
17年、米医学誌「JAMA」に、死亡した元アメリカンフットボール選手202人(死亡時年齢中央値66歳)の病理所見がまとめられています。202人中なんと177人(87%)もが神経病理学的にCTEの診断がついたと報告されています。177人の死亡時年齢中央値は67歳、選手をしていた期間は平均15.1年でした。さらにNFLの選手111人に絞って分析したところ、110人(99%)がCTEの診断がつきました。つまり、選手としてのレベルが高ければ高いほど有病率が高いのです。
サッカー、ラグビー、野球選手も
アメリカンフットボール以外の競技ではどうなのでしょうか。
2015年、Acta Neuropathologica誌に掲載された脳の検体の調査結果によると、コンタクトスポーツの経験があった66人のうち21人(32%)にCTEの所見が認められた一方、こうしたスポーツの経験がない198人にはCTEの所見はありませんでした。
2019年に「New England Journal of Medicine」に掲載されたスコットランド人男性の元プロサッカー選手7676人を対象(対照群は年齢や経済状況をマッチさせた2万3028人の一般人)とした研究では次の結論が導かれました。
・元サッカー選手の神経変性疾患による死亡率は一般人の3.45倍
・元サッカー選手のアルツハイマー病での死亡率は一般人の5.07倍
・元サッカー選手は一般人よりも虚血性心疾患による死亡率は20%低い
・元サッカー選手は一般人よりも肺がんでの死亡率は47%低い
元サッカー選手は一般人と比較し、肺がんや心疾患は少ないにもかかわらず、脳に関わる病気が際立って多い傾向がうかがえます。
さらに、同じ著者による同じ対象の研究が21年に医学誌「JAMA Neurology」に発表されています。この論文ではサッカーのポジションごとにアルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患リスクを検討しています。
リスクが最も低いのはゴールキーパーで、対照群に比べて1.83倍です。リスクが最も高いのは、ヘディングの機会が多いと思われるディフェンダーで4.98倍でした。また、15年以上のプロのキャリアを持つ選手のリスクは5.20倍にも上っていました。
サッカーだけではありません。23年5月、ニュージーランドの元プロラグビー選手ビリー・ガイトン(Billy Guyton)が33歳の若さで他界し、CTEの確定診断が下されました。
12年12月、元大リーグ選手のライアン・フリール(Ryan Freel)がショットガンで自殺をし、全米の野球ファンを驚かせました。その1年後、フリールがCTEを患っていた事実を遺族が公表しさらに衝撃を与えました。The New York Timesによると、フリールは現役時代に脳しんとうを10回も起こしていたそうです。
世界では大きな問題になっているCTEですが、なぜ日本では知られていないのでしょうか。次回に続きます。
写真はゲッティ
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たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 月額110円メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。