|
天国を開く門 · 真の家庭
第一章 家庭は天国の中心モデル
第一節 家庭はすべての存在の中心モデル
人は、空間という世界に立つとき、必ずといっていいほど、上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。それでこそ、己の存在位置が確定するのです。皆さんが上下をどのように正しく備えているか、左右や前後をどのように正しく備えているかによって、様々な人間模様になるのです。
皆さんの上下・左右・前後の関係も、家庭や国や世界の問題を扱うことも、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭においても親子、夫婦、兄弟姉妹がいなければなりません。
それは国においても同様です。国の主人を中心とし、すべての家庭が、東西の文明、南北の文明を抱き、世界万民を兄弟姉妹のように抱いて、結局一つの家庭モデルを実現するのです。
モデルは同じです。そして自分自身がそのモデルの中心です。自分があるという前提のもとに、自分の家庭があり、国、世界、天地、神様にまで至れる、というのと同じ道理です。皆さんは、宇宙の中心になりたいと思うだけではなく、そのようになることができるのです。
このように、家庭の概念とは、宇宙における核のようなものです。天を父母と見れば、地は子女です。東と西を見るならば、東は男性を象徴し、西は女性を象徴します。女性は結婚すると夫の位置に準じますが、それは、西が、太陽の光を受けて光り輝く時、東と同じ位置をもつようになるのと同じです。
兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として行動するとき、弟たちが協力するようになるのです。ですから人間は、親子の関係がなければならず、夫婦の関係、そして兄弟の関係がなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点で結ばれなければならないのです。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。
この中心点が異なれば、上下、左右、前後関係の均衡がみな崩れるのです。ですから結局、上・下・左・右・前・後、そして一つの中心点まで合わせると、全部で七数になります。このように七数になるというのは、正に神様を中心として、完全な真の愛で一つになり、すべてが完全に球形となって、調和と統一を実現する家庭になるという意味です。私たちがよく「ラッキーセブン」と言うのも、このような観点において一理あるのです。
真の愛が永遠に変わらぬ限り、この中心核も変わらずに永遠に回るようになり、真の家庭の理想が実現するようになります。また、すべてが核において連結されるので、この中心核から一・二・三・四・五・六・七、すべてが同等の価値をもちます。おじいさんが願えば、孫が反対せず、息子や娘もそれを願い、三代がみな共に願うようになるのです。おじいさん、おばあさん、夫婦、息子、娘、すべてが中心に合わせるようになります。
この愛を中心として見るときに、親子関係が一つなので「一体」と言えますし、夫婦関係も「一体」と言えますし、兄弟関係も「一体」と言えます。一つの体です。何を中心としてこのような関係を「一体」と言えるのかというならば、愛の中心である神様の真の愛を中心として言えるのです。真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一体となり、兄弟姉妹においても同様です。そうなることによって、すべての価値が同等になるのです。(299-114,1999.2.7)
第二節 家庭は宇宙の愛に接することができる愛の教材
宇宙とは何でしょうか。被造世界のすべてのものは、神様の愛する子女が、愛という理想を見いだしていけるように、教材としてつくられたものです。ですから、そのすべては何もかも相対的な構造になっています。
鉱物は主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなくては存続することができません。運動せずしては永続、存続ができないのです。ですから宇宙は、人間を中心とし、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。(137-59,1985.12.18)
宇宙とは何でしょうか。家庭を拡大したものです。愛を完全に成した家庭を見ると、上中下(父母・夫婦・子女)があり、左右があり、前後があります。これが原則です。「上下」というときは父母と子女のことをいい、「左右」というときは夫と妻のことをいい、「前後」というときは兄弟のことをいいます。
このような全体は何によって一つになれるのでしょうか。力でもなく、知識でもお金でもできません。ではどのようなものでできるのでしょうか。真の愛です。それは間違いない真理です。そうでなければ球形にならないのです。
それでは、上中下は私たちの家庭において何なのでしょうか。愛の教材です。宇宙の愛に接することができる愛の教材です。そのようなことを社会に出て実践しなさいというのです。
どのように愛さなければならないのでしょうか。イエス様も、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と語られましたが、どのようにせよということなのでしょうか。漠然としています。世の中に出ていってお年寄りに接するときは、皆さんのおじいさんのように尽くしなさいというのです。お母さんのように対し、お父さんのように対し、息子のように対しなさいというのです。世の中に出れば、みなそのようにしなければなりません。
上中下や前後左右という型の人々がいっぱいとなって、世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。皆さんがそのような愛をもって、すべてのものを愛することができれば、その中に神様が供にいらっしゃいます。(128-23,1983.5.29)
天国とは何でしょうか。自分の家庭のように世界の人々を愛せる所が天国であり、そのような人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分たち夫婦、兄弟、子女、この四代は何でしょうか。天の国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としての家庭です。教材として私に教えてくれる基盤が家庭だというのです。(129-98,1983.10.1)
私たちは、宇宙の愛を学ばなければ生きることができません。神様は、教本や経典のようなものを作られて、「あなたのおばあさんとおじいさんを愛しなさい。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさんとおじいさんを代表して送ったので、そのおばあさんとおじいさんを愛することは全体を愛することにしてあげよう」と公約されるのです。
その次には、「あなたがお母さんとお父さんをこの上なく愛することは、この世界の数多くのお母さんとお父さんを代表する教本のように愛するモデルになるので、全体を愛した条件にしてあげよう。また、男性として女性を愛したことは、世界の男性が、世界の女性を代表的にまとめて愛したものとして見なしてあげよう」とおっしゃるのです。
またその次は、「あなたの息子、娘を愛したことで全体の息子、娘をみな愛したことにしてあげよう」とおっしゃるのです。ですから家庭は、その訓練を受ける訓練所です。
そのような経典による世界愛の訓練過程において、訓練を受けた人に「今から世の中に一度出て、皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりに、世の中のおばあさんとおじいさんを愛せますか」と聞いて「イエス!」と答えられるならば、それは、世界を救うことができるのです。(130-273,1984.2.5)
第三節 愛の王国に入籍するための愛の訓練場
愛の王国を実現したいというのが神様のみ意です。愛の理想世界を発展させ、世界化させようとするのが神様のみ意だというとき、小学校の卒業から大学の学士、博士卒業までパスできる実験場がどこかといえば、家庭です。
家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見てみると、おじいさんとおばあさんが住む世界、それからおじいさんとおばあさんが住む世界、お兄さんとお姉さんのような人たちが住む世界、青少年たちが住む世界、子供たちが住む世界があります。ですから、老年から壮年、中年、青年、少年たちが集まって住むこの世界は、型が大きく、数が多いだけであって、家庭を拡大させたものです。(147-281,1986.10.1)
家庭は、天国に入るための最小単位の修練所であり教材です。そこには、祖父母級、父母級、夫婦級、兄弟級がすべてあります。これをおじいさんとおばあさん、あるいはお母さんとお父さんの年齢、その次には、自分の年齢、息子、娘の年齢に拡大させたのが世界人類です。この人類を自分の妻のように愛し、父母のように愛し、息子、娘のように「ため」に生き得る家庭だけが天国を相続できるのです。これは驚くべき事実です。神様が造られた天と地のすべての権勢を相続できる特権が、ここにあるのです。(143-285,1986.3.20)
家庭は、死ぬときに天の国の平和の王宮に入籍する手続きの権利を得られる愛の教科書です。家庭が愛の訓練場だというのです。この家庭を拡大したものが世界です。おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、夫のような世界があり、妻のような世界があり、息子、娘のような世界があるというのです。これを拡大すれば、そのまま世界になるというのです。
ですから、自分の家庭を愛するように、その家庭を中心として神様を愛するように全世界の人々を愛すれば、それが天国にまっすぐに行く道になるのです。したがって、「心をつくし、思いをつくし、精神をつくして主なるあなたの神を愛せよ」というのが第一の戒めです。
第二は、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というものです。神様を愛して人類を愛すればすべて終わるのです。それができなければ、いくら修養しても意味がありません。宗教でいくら修行を積んだとしても、神様を愛することを知らず、人類を愛することを知らず、宇宙を愛することを知らなければ、すべて落第なのです。
家庭において、全体宇宙を縮小させた修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を愛さなければなりません。そのようにできる訓練場として引き継いだのが、皆さんの育ったお父さんとお母さんが住む家庭だというのです。
ですから、自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子、娘を愛し、自分の妻を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上に神様を愛するなら、すべてOKです。だからといって、自分の妻を捨てなさいというのではありません。そのようにすべての人を愛するようになれば、その愛を受けたすべて人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上の栄光の場がどこにあるでしょうか。自分の妻を愛そうとするならば、そのようにしなさいというのです。(142-242,1986.3.11)
第四節 家庭は天国のモデル教科書
子女の立場にいる人は、どのような運勢を受けなければならないでしょうか。祖父母と父母の運勢を引き継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのでしょうか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母は現在を代表します。それから、子女は未来を象徴します。そこには東西も入っていて、南北も入っています。そして、全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、このすべてのものが真の愛を中心としたものです。ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬するのは、過去をすべて引き継ぎ、過去の世の中を学ぶことです。
お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは未来を学んでいくことです。おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのでしょうか。真の愛を引き継ぐのです。「おじいさんとおばあさんは年を取っているが、二人が真の愛で一つになっているし、お母さんとお父さんも一つになっているので、私たちもあのようになって未来を引き継ごう」というのです。
ですから、真の家庭にならなければ、絶対に未来を引き継ぐことができないのです。家庭のこの三代を見るとき、それは、宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は、現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。動物世界を見ても、雌を愛し雄を愛しますが、これは宇宙の愛を学ぶことができる教科書です。
おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定であり、どちらがいなくても同じです。二人が共にいてこそ、そのまま天の国へ移っていくのです。祖父母、父母、子女が皆いてこそ、そのまま天国に行くのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女、真の家庭、真の国家、真の宇宙を愛した人が天国に入ることができるのです。そのモデル教科書が真の家庭です。(162-140,1987.4.5)
家庭は、天国をつくるための教材です。天がつくっておいた教材です。世界のどこに行っても、おじいさんの年齢の人に会うときに、その人を自分のおじいさんのように愛する人は、天国に行くようになっています。
自分の父母のような年齢の人に会って、その人を自分の父母のように愛せる人は、どこに行っても通じます。万国共通です。霊界に行っても境界線ができないのです。万国の若者を自分の子女だと思う心をもてば、その人は、十二の真珠門があって十二の方向があっても、天国のどこでも通じるのです。ですから、家庭というのは、天国と因縁を結ばせるための教材です。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の子女、すなわち聖子になるのです。人はみな、そのような欲望をもっています。(137-78,1985.12.18)
皆さんは、五色人種の子女を抱き、その孫たちを抱くことができなければなりません。ですから、神様の真の愛をもって真の父母として世界人類を愛する家庭の主人になったという立場に立たなければなりません。神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表できる立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。(176-210,1988.5.9)
第五節 家庭は三時代の愛が結集した核心体
歴史を抱き、現在を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。ですから、神様が今まで六千年を経ながら求めてきた最後の基点が、正に家庭なのです。その家庭は、愛が連結された、愛によって結束された家庭です。
存在するすべてのものは、みな真の愛の主管を受けるのです。根源的な愛、絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくることが、神様が創造当時にアダムとエバに下さった本来の使命だったのです。
神様は、男性のアダムと女性のエバだけで終わるのではなく、互いに結合してつくる新しい家庭を夢見られたのです。これが、神様が男性と女性を立てられた第一次的な出発の起源です。ですから、真の家庭を求め、その家庭圏内において、神様の愛を中心としてこの世で充足感を感じられる境地に入って生きてこそ、天国も無事に通過するのです。そのようにしてこそ、この世界も越えることができます。(30-86,1970.3.17)
愛の家庭圏を形成するためには、絶対的でなければなりません。父母は歴史に代われるものであり、夫婦は現在に代われるものであり、子女は未来に代われるものです。自分が一つの時代で一人の相対を愛することは、神様が世界に対されるのと同じことです。ここで父母と夫婦と子女が一体となり、天宙を代表して「私たちの愛を見習いなさい」と言うことができ、子孫たちに対して「私たちに従いなさい」と言うことができ、内心でも外心でも主張できる心の本郷、そのような天情が通じる所は、天地に記憶されることでしょう。(30-80,1970.3.17)
今まで神様は、何を探してこられたのでしょうか。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。神様に似て、ご自身がつくられた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。このような結果的な一つの基点とは何でしょうか。家庭です。家庭以上に宇宙を代表できるものはありません。父母と一つになることは、歴史と現実が出会うことです。ここで「私」は父母を愛することで過去を愛することができ、相対を愛することで現実を愛することができ、子女を愛することで未来を愛することができます。ですから、私は、三時代の愛を体験することができるのです。この三種類の愛が結集した核心体が正に家庭です。(30-80,1970.3.17)
では、天国生活はどこからでしょうか。家庭からです。他のところから始まるのではありません。天国は、家庭を立体的に拡大させただけであって、家庭圏を離れたものではないというのです。ですから、皆さんが自分の妻や夫を抱くときには、世界のすべての男性と女性が一つになるのだと思わなければなりません。このように、世界人類を愛したという条件を立て得る場が、正に家庭なのです。皆さんは、そのように生きていく道を求めなければなりません。父母を愛することは歴史と現在を連結させることであり、神様が訪ねてこられる道を整えることです。
ですから、父母を愛さなければなりません。歴史的な存在と時代的な自分を連結させること、すなわち過去と現在を一つにすることが父母を愛することです。また、自分を中心として子女を愛することは、現実と未来を連結させることです。そして、このような愛を千年、万年たたえるようにしようという思想が「統一思想」です。(30-83,1970.3.17)
第六節 家庭は心情的な訓練場所
私たちは、心情を離れては生きることができません。自分が大統領だとしても、あるいは世界的なすべての権威をもっていたとしても、心情的な喜びを表せるところがなければ生きていけません。自分が率いる人たちや閣僚たち、あるいは追従する人たちには、心情的な満足は感じられません。それは、家庭で感じなければなりません。家庭に帰ってきて夫婦が互いを通じて喜びを感じ、また子女を通じて喜びを感じられなければなりません。そのようにして、その喜びを他の人に誇れなければなりません。その喜びは、第一次的な喜びであって二次的な喜びではありません。
神様も同じです。この世界をすべて復帰したとしても、家庭のない神様は喜ぶことができないのです。結局、家庭がなければならないのです。(25-86,1969.9.30)
家庭では父母を中心としなければならず、社会を代表する教育機関では先生を中心としなければなりません。父母は自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、それで情緒的な面を助けてくれるのです。それでは、学校は何でしょうか。社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練する所です。家庭が情緒的な訓練場なら、学校は社会生活のための実験的な訓練所です。
かといって、社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのかというと、国に帰結するのです。国には国王がいます。人々がみな大統領を慕い、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか。家庭から社会まで、すべてのことを知ってからどこに行くのかというと、もっと大きな所に行くのです。
大統領といえば、蘇生・長成段階を越えて三つ目の段階の結実です。種が根から始まって循環作用をして分かれます。分かれてから再び合わさり、花が咲き、実を結ぶのです。ですから、学校も国のための貴重な中心人物になり得る人、すなわち人材を養成し、国に必要な人を育てなければならないのです。
学校でする勉強とは何でしょうか。訓練です。ですから、学校は訓練場所、実験場です。訓練とは、本番ではなく準備の段階です。準備を誤ってはなりません。
家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場所です。愛を中心として心情的に訓練する場所です。ですから、情をもって兄弟のように学校で生きなければならず、情をもって国でも兄弟のように生きなければならないのです。父母のこのような教育は、学校のための教育であり、社会のための教育であり、国のための教育になるのです。
父母は、情緒的なすべてのことを子女たちに伝授してあげなければならないのです。父母が生きたのと同じように家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないという情緒的な土台を築いてあげなければならないのです。(180-130,1988.8.22)
皆さんが家庭を見るとき、家が良く、その周りの環境が良いからといって良いのではありません。反対に、いくら環境が悪く、家がみすぼらしくても、それを安息所として、そこに自分の生涯と生活のすべての基準を因縁づけようとする家庭が、良い家庭なのです。そこには、親と子の間に、互いに「ため」に生きようとする心情があります。これが思い出の本郷であり、すべての生活の動機になるので、私たちの生活において幸福を左右する基礎になるのです。(29-17,1970.2.15)
第七節 人間の永遠の本郷は家庭
家庭は良い所です。どうして良いのでしょうか。お母さんとお父さんがいるから良い所であり、お姉さんとお兄さんがいるから良い所であり、弟と妹がいるから良い所であり、親戚がいるから良い所なのです。ですから、人間なら誰でも本郷の地、すなわち故郷を懐かしく思う郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷にもっと思いをはせます。大韓民国が好きで大韓民国に住みたいと思いながら、また大韓民国で暮らしながらも懐かしい所はどこでしょうか。故郷、故郷なのです!
それでは、故郷とは、どのような所でしょうか。自分の心情を四方に、立体的にすべて引き上げる所です。その心情とは何でしょうか。愛で結びつけられるものです。上には父母が結びつけられ、左右には夫婦の因縁が結びつけられ、下には子女、親戚が立体的な愛で固く結びつけられているのが本郷の心情です。
人は、愛を中心とした幸福の基点を最高に望むので、本郷を慕わざるを得ないのです。では神様の本郷はどこなのでしょうか。この地球星において、神様の本郷の地はどこなのでしょうか。これは考えなければならない問題です。
愛の神様なら、この地上で生きていける基点を必ず準備されたはずですが、その基点はどこでしょうか。それを知るためには、神様がその基点を準備するためにどのようにしてこられたのかを知らなければなりません。
神様の家庭を準備することができ、本郷の基点になり得る所はどこなのでしょうか。他の所ではありません。神様を本当の父だと思う息子がいる所です。すなわち、神様の愛を独占できる息子、ひとり子がいる所です。また、そのような娘がいる所です。その息子、娘が結婚して完全な家庭を築く所です。(23-151,1969.5.18)
ではその本郷の地には、誰がいなければなりませんか。慕わしい人たちがいなければなりません。父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。そうして、会いたい人がいなければなりません。また、そこで一緒に暮らしたいのですが、一瞬だけではなく、永遠に一緒に暮らしても嫌気がさしてはいけません。そのような所を求めていかなければなりません。そこが今日、宗教で目指す天国なのです。(23-81,1969.5.2)
今日、私たちが本郷の地を慕うのは、その本郷にはどこの誰よりも近い父母がいるし、兄弟がいて、親戚がいて、いつも私を導いてくれ、また私がいついかなる時に訪ねていっても、私を昔のように迎えてくれ、私に困難なことがあれば、その大変な事情に同情し慰労してくれ、私を喜んで迎えてくれるからです。もしそれがなければ、本郷が懐かしく、好きで訪ねていっても、切実に慕っていた当時の心情はなくなり、かえって嘆息の条件をもって帰ることになるということを知らなければなりません。本郷の地には、必ず迎えてくれる人がいなければなりません。(23-80,1969.5.2)
第八節 家庭は天宙主義を完結させる最終基準
すべてのものは、一つから多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに統合されます。すなわち、一つからいくつかに分かれ、そして一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになる反復運動をします。
そこには家庭がありますが、形態は統合される前と同じです。家庭は、夫婦を成した所であり、その夫婦を一つにする所です。氏族は家庭を一つにする所であり、民族は氏族を一つにする所です。民族が集まって一つの国家の前にすべて入ります。しかし、どこまでも家庭が中心になります。この家庭を展開させれば横的な世界になるのです。
ですから、どのような社会であったとしても、家庭を抜きにすることはできないのです。家庭を復帰できなければ、世界を復帰することができません。その次には、その家庭を中心として天宙主義を成就しなければなりません。天宙とは、天と地を総合したものです。天と地は、人間における心と体のようなものです。心と体が一つにならなければなりません。
一つの主体があれば一つの相対が必要なように、一人の男性には一人の女性が必要なのです。男性と女性が一つになるのが家庭です。この一つの家庭を中心にしなければ神様の愛の基盤が定まりません。(26-189,1969.10.25)
天宙主義というものは、体と心を合わせたのち、神様の愛の本体となる家庭を築き、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の「宙」の字は家という意味です。それで天宙主義という言葉を使うのです。天宙は無形世界と実体世界を合わせたものです。
これが、私たちとどのような関係があるのでしょうか。私たちには家庭が必要です。皆さんが家庭で一つになれなければ、天宙主義とは関係ないというのです。家庭が天宙主義を完結させる最終基準になるのです。ここで平和の歌を歌うことができず、幸福を称賛できない人は、この地上でも霊界に行っても不幸な人になるのです。(26-189,1969.10.25)
天国は、どこから成されるのでしょうか。私たちの家庭から成されます。では、私たちは何主義でしょうか。家庭主義です。私たちが標榜する天宙主義は、天という字に家を意味する宙という字、すなわち”天の家”主義だというのです。このようになってこそ、天宙という意味がはっきりするのです。
ですから、聖書六十六巻は、すべて理想的な家庭を願ったみ言です。また万民が願うものは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。また女性として生まれて最も願うことは理想的な夫に出会うことです。女性がいくら学士、博士になって世界に大言壮語するとしても、その願いは理想的な男性に出会うことです。愛することができる理想的な男性に出会い、福々しい子女を生むことです。これが幸福の根です。統一教会の理想は、他の所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。(26-103,1969.10.18)
それでは、天宙主義とはどのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これは、我が家の主義であり、我が国の主義であり、皆さんの個人の主義です。
人間が堕落しなかったならば、世界は誰の主義になるのでしょうか。アダムの主義になるのです。そのアダム主義が、正に真の父母主義です。父母主義だというのです。これ以上の主義はあり得ないのです。
ですから、統一教会は、この本然の理想的な家庭の範囲の中で、心情的な問題を、真の父母という理念を中心として天の主義と結びつけなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り、統一教会は滅びません。(26-201,1969.10.25)
第二章 愛を中心とした人生行路
第一節 人間はなぜ生まれたのか
「生命が先か、愛が先か」というとき、互いに「先だ」と言うことができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在の起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値が生じません。(143-277,1986.3.20)
私たちの生命の起源がどこなのかを考えるとき、生命が先か愛が先かということが問題です。今までこれを見分けることができませんでした。生命が先ではなく愛が先です。あとになったものは、先になったものに順応しなければならないので、愛のためには生命を捧げるのが当然なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。
そのようにすれば、人生を真に生きる道はどこなのかということが出てきます。人生が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認され、天使世界が公認し、万物が、ひいては父母が公認できる大宇宙の愛の中に生まれ、その中で愛し、死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。(83-164,1976.2.8)
人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それでは、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。
そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全宇宙の中心的な存在として生まれたのが、正に「私」です。愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生における最高の目的です。自分の家庭で、宇宙の中心である愛の使命を果たすことが最も価値あることです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1063,1978.9.12)
人がなぜ生まれたのか、ということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛ゆえに生まれ、また、愛から生まれました。それでは、愛は何ゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは、生命の源泉であるからです。
皆さんは、父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり、知識を追求する所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。ですから、子女が必要なのです。
夫婦が一つとなり、息子、娘という相対がいるとき完全なのです。人間自身も愛を離れては存在することができません。ですから、「私」という存在は、愛を根本として生きていくのです。すべての万物も、その存在の始まりが神様の愛から出発しています。
万物の存在が愛を根本として始まったとすれば、被造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在であることを否定できないのです。人間は、愛から出発し、愛によって円熟するので、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062,1986.8.20)
第二節 愛を中心とした創造本然の人生
人間というものが存在するようになった原因は何でしょうか。人間は愛から始まったのです。それでは、人間存在の目的は、どこにあると思いますか。人間という存在の目的は、愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張させ、連結して完成することが目的となるのです。
すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そのようにするためには、相対的関係にある男性と女性が愛を中心として一つになり、前後、左右、上下に連結できなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1064,1986.1.3)
私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこで喜ばなければ何の意味もありません。生きて生活することが喜びでなければなりません。
生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在、それ自体以上の新しい何かがあるのです。それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何よりも貴いものは何でしょうか。愛です。
愛だけが、これと連結させ得る幸福の要因となるのです。人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。(29-130,1970.2.26)
皆さんは、何ゆえに生きていますか。「食べるために」と答える人もいるでしょうし、あるいは「仕事をするために」、または「何の目的もない人生を生きている」と言う人もいるでしょう。
人間は、何のために生きるのでしょうか。愛のために生きるというなら、どれほど素晴らしい答えかというのです。人間は、愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛である神様の懐に帰るようになっているというのが創造本然の生なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1064,1982.4.26)
愛によって生まれ、愛の中で成長し、さらに異なる次元の愛に連結されるのは、父母の愛を離れ、相対の愛を求めていくことなのです。父母の愛は蘇生的愛ということができ、夫婦の愛は長成的愛ということができます。夫婦でいくら愛し合っても、子女がいなければ愛の完成を見ることはできません。ですから、子女を願うのです。これが完成的愛です。ですから、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が生涯の根本であり、神様の創造的愛の理想の根本となる道です。(48-12,1971.8.31)
生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母から愛を受け、愛によって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生なのです。ですから、悲しみと苦痛はあり得ないのが本来の人生なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1065,1982.10.29)
本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に、縦と横に同時に結合できる基準となることによって、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛が結合できる根本位置となります。その位置は、全宇宙が集中する位置となり、全宇宙の細胞の方向が集中する位置となります。霊界の善霊たちがすべてここに集中します。
それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないように保護するようになっているというのです。ですから、この位置が破壊されれば、大変なことが起こるようになります。ですから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態を統一教会の用語で「四位基台」というのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066,1982.10.29)
第三節 人間の永遠なる生命の要素は愛
人間は、胎児の時、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間も、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されているだけでなく、生命の本質的要素である愛を神様から供給されているのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066,1983.4.24)
すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間には、愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕しながら暮らせる地上天国や天上天国が建設されることです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066,1986.3.20)
男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は、愛の道です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066,1983.4.24)
愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。女性が化粧をしたりマッサージをするのも、愛のためです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛のためなのです。高貴な愛を得るために苦難に打ち勝っていくのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066,1982.4.26)
私たちは、生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代などの時代を問わず愛するのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1067,1973.4.18)
結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び、妻も喜ぶのです。息子、娘を生むのは、世界を愛する方法を学ぶためなのです。息子、娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結するための教育の材料として息子、娘を与えたのです。
そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝行の道を行くのは、霊界からの教育を受けるためであることを知らなければなりません。このすべてのものが、愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子、娘が一つの愛を中心としてすべて連結されているのです。
人体の血管のように、霊界の千万代の先祖までも上がっていって降りてくることができ、遠い子孫までも通じることができるのです。つまり、これが霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。すべてがそこに制服されてしまうのです。愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だということができるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1067,1985.10.4)
第四節 神様の愛はどのようなものか
皆さんが神様の愛を一度調べてみてください。神様の愛をどのように表現することができるでしょうか。それは、ちょうど暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ち上り、虫が歩き回り、蟻たちも世の中を見物しようと這い出たり、戻っていったり、さらさらと流れる小川のほとりには柳が芽を出し、かえるが春の日和の新しい歌を歌い、花々が、群れを成して飛び交う蜂や蝶を喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境では酔って眠り込んでしまうようですが眠り込まず、気分が良くて永遠に「いいなあ」と言える、そのような味だというのです。
神様が求められる理想相対を中心として感じる気分は、このように蝶が飛び、蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これは、考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それを知らないでしょう。それは、気分が良いというのです。懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手します。握手するとき、懐かしくて、「ああ、これは久しぶりだ」と言いながら手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて、「ああ、これは久しぶりだ」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分が良いですか、悪いですか。気分が悪いという人がいれば、「えい、こいつめ」と言って足でけ飛ばしてしまいなさいというのです。
懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。(「喜びます」)。喜びたいと思っているだけでしょう。どうして「喜ぶ」と分かるのですか。知ってこそ喜ぶのであって、分からずにどうして喜ぶのですか。そのように喜んでつかめば、手をほどくことができないというのです。ここにいる若い女性たち、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば、気分がどうか一度考えてごらんなさい。良いでしょうか、悪いでしょうか。
人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にうらやむものはないのです。いつも夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることは良いことです。
映画を見ても、そのような映画を見たいと思うのです。女性が男性に、「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっています。
愛は永遠です。愛は、二つではなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルを成して愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それが正に神様の愛だというのです。そのような愛をもって暮らすならば、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさん。一つになるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1068,1970.12.22)
男性と女性の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう? しかし、神様を尋ね求めていく道を知り、神様の愛を本当に味わえば・・・・・・。その神様の愛は、この世のどのようなものとも比べることができないのです。そのような愛を味わった人がいれば、どのような苦難もその人を占領することはできず、どのような悲しみもその人を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではないですか。これを見いだすことが問題となるのです。(39-240,1971.1.15)
神様の愛は、大きく三大愛として現れます。それは、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この三大愛が一つに一致する中心は神様の愛です。(173-278,1975.2.23)
第五節 愛と喜びの相続のための神様の祝福
神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。その次には、愛することができる人(夫婦)をもつ時であり、その次には、孫を愛せる時です。息子、娘よりも孫を愛せる時のほうが、より大きな栄光の時です。
ところで、神様がアダムを造られて、どれほど良かったかということを、どのように教えてあげたのでしょうか。「やあ!私はお前を造ってこんなに良かった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子、娘を生むことによって教えてあげられます。人は、幼い時、父母の愛がどのようなものかを知りませんが、あとで家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるというのです。自分の父母が私を育てるとき、このように愛してくれたのだと知るようになっています。
ですから、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-936,1978.1.22)
神様の愛をしらなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ることができなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ることができなければなりません。子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令をするだけではなく、侍ってみることもできなければなりません。子女に命令をするだけではなく、侍ってみることもできなければなりません。理解することもできなければなりません。そのようにしてこそ、神様の愛が理解できます。子女がいなくては未完成状態です。神様の愛を知ることができません。
神様が子女としての人間を、どれほど愛したのか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子女も、父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。ですから、息子、娘がいなければ、真なる父母になれないのです。(133-138,1984.7.10)
父母が子女の結婚を願うのは、子女たちに父母の愛をすべて相続させ、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、子孫にその実体を残しておきます。ですから、子孫が必要なのです。
愛は永遠に続くのです。愛は、人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことにより、霊界でも堂々と神様の前に出ていくことができます。
そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち、そこにおいて愛の一体圏が成されるということです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-937,1978.9.21)
人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべて整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そのようにしてこそ、再び春を迎えるようになるとき、また種として植えることができるのです。
これは何の話かといえば、これから皆さんは、父母となり、皆さんのような息子、娘を生まなければならないということです。皆さんの息子、娘を、皆さんのように育てなければならないというのです。(26-158,1969.10.25)
皆さんは、息子、娘がいなければ、なぜ寂しいのですか。それは、サークルラインを形成できないからです。鳥たちが雛に餌を食べさせてあげるのを見ると、母のこの上ない愛を知るようになります。西洋の人たちは知りませんが、東洋では大人より子女たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子、娘たちにはこの上ない愛を惜しみません。息子、娘を生み育ててみることによって、父母が子女をどれほど愛したのかを悟るようになります。
人間は誰でも、結婚をしたのちに子女を生み育ててみなければなりません。そのようにしてこそ、子女の愛と父母の愛を所有することができます。しかし、西洋の人々は、そうではないようです。息子、娘を生み育てることを忌避する人たちがたくさんいます。息子、娘が自分たちの結婚や離婚に妨害になるという考えゆえに、自分の子女をもつことをはばかっています。しかし、人間は、生まれて四位基台を成せなければ、神様が人間を愛するその心情を知り得ないので、天国に行けません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-937,1982.4.26)
第六節 愛の中心を求めていく人生行路
人間は、愛によって生まれ、父母の愛の中で大きくなり、横的に愛を広めながら成熟するようになります。横的な愛は、異性の相対に出会うと一段階、愛を完成するようになり、天地の愛を代表できる基準に入れば、その実を結んで子女を身ごもるようになるのです。子女は、核心的な心情の立場から生じた愛の結果として生まれるようになります。
男性と女性が心情的に愛し合って生まれた息子は、愛の核心に通じる道をつくってくれ、その中心を通過すれば、正に神様と出会うようになるのです。人間は、愛の実として子女を身ごもることによって、神様が万物を創造し、人間を創造されたときの愛を体恤するようになるのです。また、父母の愛によって生まれ、愛されてきたことを、子女を愛してみることによって、父母の心情として体恤するようになるのです。父母が子女に注いできた愛は、物質的な愛ではなく、本質的な愛です。
天地が変わっても、歴史時代が変わっても変わらないのは、父母が子女に与える愛です。父母になって子女を愛することによって、神様が人間をどのように愛してこられたのかを考えることができるようになり、体験を通して確認するのです。父母になって子女を愛することによって、父母が私をどのように、どのくらい愛してくれたのかを感じて悟るようになります。
そうして、老いた父母に対してさらに敬い、愛によって孝行の道理を立てさせるのです。そのようにできなければ、父母としての資格がないだけでなく、子女に対する愛も偽善だと言わざるを得ないでしょう。
人間は、父母になって子女を愛してみることによって、神様が人間をどれだけ愛してこられたのかを感じて悟らなければなりません。また、神様を一層心から愛さなければなりません。子女に対する愛よりも老いた父母をもっと愛さなければならず、老いた父母よりも神様をもっと愛さなければならないのが愛の秩序であり、法度であることを知らなければなりません。
人間は、生まれる時、愛によって生まれ、生まれてから幼い時期は愛を受けながら成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。
すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら成熟していくのです。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。
天地は球形の世界なので、横的な愛を授受し、回転しながら円形を一次的に成すようになります。特に異性を相対者として選び、愛し合うとき、その結実として子女を身ごもって父母になりますが、このときお互いが愛を授受して回転するようになれば、横的な愛に続いて縦的な愛も実現するようになり、球形世界を成すと同時に愛の中心を求めるようになるのです。
愛の運動を通して生じた愛の中心は、すべての被造世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛の中心を中心として運動を続けているからです。愛の中心は、運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じた中心は、間違いなくその場に神様がいらっしゃる所でもあります。
ですから、世の中に存在するすべての被造物は、神様の愛によって創造されて存在し、神様の愛の中心を求めていくのです。神様は、正に愛の溶鉱炉であられるのです。(126-245,1983.4.24)
第七節 三時代を行く人生路程
人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間は、この世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で十カ月を過ごします。おなかの中にいる時、幼い胎児の自由には限界があります。胎児は、お母さんの栄養をへその緒で受け取って育つとき、二つの手を開いたり閉じたり、口を開けたりすぼめたり、二本の足でばたばたするのが精いっぱいです。
しかし、その胎児には、お母さんのおなかの中が自由天地であり、生の全領域なのです。その胎児は、十カ月でこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が、今日、私たちの生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1071,1983.4.24)
人はなぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれました。ですから、人は父母の真の愛に根を張って、父母の保護のもとに、愛の懐である腹中で育ち、物心のつかない二十歳までは、寝小便や排泄物が汚いことも忘れて喜んで消化できる、父母の愛の中で成長し、それから愛の相対者に出会い、互いに尽くし合う天理の愛に接ぎ木されなければなりません。
そのような人生の過程を歩みながら、神様の愛がどのようなものかを体験すれば、神様の対象愛の実体圏が完成するので、(神様は人をして)息子や娘を生ませ、愛するようにさせるのです。(143-285,1986.3.20)
この世に生まれた人間は、胎児期のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙で、生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間の百年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかの外にある人間の世界を知らなかったように、今日、地上世界で生きている人間は、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。
お母さんのおなかの中で人間世界を知らなくても、実在として人間世界があったように、死後の世界もあるだろうと、ただ漠然とした心証をもっているだけなのです。しかし、はっきりとしていることは、人間の死後の世界に対する心証的な存在の可否にかかわりなく、霊界は確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知できる五官作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ1071,1983.4.24)
人間の人生には三時代があります。動物界にも水中時代があり、陸上時代があり、空中時代があります。すべてのものがこの三時代を経なければならないのです。
ところで、人は、万物の霊長であり、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、いかなる存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸上時代においても、いかなる動物よりも最高の資格をもった存在でなければなりません。次に、空中時代がなければなりません。
しかし、人間には翼がありません。翼がないのにどのようにして飛ぶことができますか。飛び回るいかなる鳥や昆虫よりも、高く飛ぶことができ、遠くまでも飛ぶことができなければならないのです。そのためには、どのようにすればよいのでしょうか。それは、実体である肉身ではできません。どんなにジャンプしても、いくらも行かないのです。
しかし、人間は万物の霊長なのです。霊的な存在である神様の主管圏であるとか相対的な位置に立つためには、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。
今日、電気や光でいうならば、光の速度は一秒間に三十万キロメートル進みます。それよりも、もっと早く作用することができるのが人間です。それが正に霊人体です。(22-202,1981.4.12)
私たちは、この世に住んでいますが、この世の中だけがあるのではなく霊界があります。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って住むべき所はどこでしょうか。霊界です。霊界とは、愛の空気が充満した永遠の世界です。ですから、皆さんの一生は永遠の世界に入るための準備期間なのです。(140-121,1986.6.29)
第八節 地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所
私は、霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上で、空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようになってはいません。霊界で授け受けする愛は真なる愛なのです。(146-267,1986.5.15)
皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。
その人は、何の制限もなく、どこでも、どの方向にでも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて自由が全くありません。
父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的に行くことができ、円形に旋回することができます。
例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、少なからず悲劇的な人であり、同じように家庭生活、すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するので、霊界ではとてもみすぼらしい人になります。また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏によって完全な生を生きることができないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1067,1977.1.1)
皆さんはなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要なのでしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界だからです。霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐための鼻がない人と同じだというのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1067.1977.4.3)
皆さんは、お父さんとお母さんから生まれました。次にさらに根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りて神様から生まれたという事実です。皆さんは、宇宙の父母を通し、肉身の父母を通し、真の父母を訪ねていくようになるのです。肉身の父母は通過の父母です。ですから、死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。
そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国といいます。そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもとに、すべての法度に通じ得る愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。
この地上での生活がどれほど重要か分かりますか。一度しかありません。瞬間なのですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点ほどのわずかな時間にすぎません。あまりにも短い瞬間です。しかし、この瞬間の時間内に、肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。(207-99,1990.2.1)
第三章 創造本然の男女の愛
第一節 創造本然の男女の愛
男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願われたその基準と一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。
神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになっていたならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになっていただろうという結論が出るのです。神様も人間にそのような愛を願われたのです。同様に男性と女性も、お互いに相手に対してそのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核にならざるを得ないというのです。メートル法のような一つの標準型になるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-335,1983.6.5)
神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は、一つになろうとする力です。男性と女性がお互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。なぜならば、男性と女性が愛で一つになる所に、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-336,1982.4.26)
二性性相の母体であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値を褒めたたえると同時に、神様の尊い価値をより一層褒めたたえられる人にならなければなりません。(25-277,1969.10.5)
男性の心の中には、神様が愛していらっしゃる女性がいて、彼の相対である女性の心の中にも、神様が愛していらっしゃる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が天と地が共に喜ぶ価値ある内容になります。
男性と女性が互いに愛し合い、抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものなのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-334,1969.2.4)
本来、男性は、自分が喜べる女性を迎えなければならず、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、人間の喜びというその限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。
そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥たちは、彼らのために歌を歌い、蝶は、喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-336,1969.2.4)
第二節 男性と女性が生まれた理由
本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。それは、女性のために生まれたということを否定できないのです。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じるということを、私たちは知らなければならないのです。
これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として決められたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ることができないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-338,1975.1.16)
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に会うために生まれたのでしょう? これが最高の真理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。(21-201,1968.2.20)
男性と女性は、生理的に反対です。女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また、女性は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。
このように性格が反対なのです。それでは、このような主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせるのも愛なのです。(38-255,1971.1.8)
男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。
男性がもっている器官と女性がもっている器官は、それぞれ違います。それを誰のためにもっているのですか。それは、自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは、女性のために生じたので女性のものです。女性のものは、もちろん逆に男性のものです。そのように考えてみましたか。笑い話ではありません。(143-275,1986.3.20)
男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性を一つの体に成さしめる性の器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に一つになれる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっていて、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。(132-146,1984.5.31)
なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために、男性と女性の愛の器官をそれぞれ取り替えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差し置いて自分の思いのままに行動した人は、愛に背いたことに対する審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻を差し置いて、どうして他の女性を考えることができますか。反対に妻たちは、夫をほうっておいて、どうして他の男性を考えることができますか。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-340,1986.3.14)
第三節 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう? その愛に絶対必要な要素は、人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。
どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも、世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。女性がいなければ、百年以内に人類は滅亡するのです。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから、女性は絶対に必要なのです。(25-180,1969.10.4)
「人」といえば、男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないのであり、女性を考えてみても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。(67-267,1973.7.22)
男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて、女性一人だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。ですから、女性が生まれるとき、男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。自分はたとえ知らずに生まれたとしても、自分を生んでくださった方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるためなのです。
同様に、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性がいるから男性として生まれたのです。すべて知った上で、そのように生まれていたのです。(37-19,1970.12.22)
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に、女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。
真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛のための絶対的な男性と女性は、一生懸命努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。
真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、神様も嫌われるので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-340.1986.8.20)
神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何の意味もありません。それと同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だとしても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎません。そのように、自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因でもあるのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-341,1986.8.20)
第四節 愛は相対から来るもの
愛は、一人では成されないのです。愛は、どこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、それを受け入れようとすれば、それを貴く思い敬わなければならないという「ために生きる哲学」を実践しなけばならないのです。(143-277,1986.3.30)
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ342-1982.10.29)
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(34-33,1970.9.20)
愛はどこから出てくると言いましたか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。
相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-343,1982.10.29)
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞(言葉)は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。
愛の根拠地は「私」ではありません。「愛は私からだ」というのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。
今まで、妻は妻なりに、夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、神様は愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。
世の中で「慈悲」という言葉も、愛がなくては出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てこないのです。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語られるものです。(46-351,1971.7.18)
第五節 異性間で愛の調和を成せば
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。したがって、二人が一つになって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性は滑らかです。男性は髭が生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べてみると、相対的に釣り合っています。調和がとれているのです。人間というのは、肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さん、高いだけ、あるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に、下には魚が棲み、上には哺乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度、生理がきます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和して平衡線にならなければなりません。
なぜ人々が、昇ったり降りたり、回ったりするいろいろな施設のあるディズニーランドを好むかといえば、宇宙がそうだからです。男性だけの和動と、男性と女性の和動とでは、どちらが気持ち良いですか。男性と女性が和動するほうが良いのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するので、人間が拍子を合わせなければならないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-344,1984.5.31)
異性間において愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神様が降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うようになります。
神様は、この円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点から四方のどこにでも通じることができるのです。その求心点は、愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容の力は愛なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-345,1982.4.26)
人間にとって愛は、永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって一体化するのです。
二つの体が一つになれば、神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになりますが、それが正に愛の理想世界なのです。そこには、偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。
愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-346,1984.1.1)
第六節 真の愛に酔った本然の人間
この世で最も神聖なものは何ですか。それは真の愛です。真の愛は、神様から出発します。神様が存在されるなら、それ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなくては、神様の前に出ていけないことを知らなければなりません。
神様は、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も、神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとおっしゃるのではありません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-381.1986.8.20)
人間の全身を見れば、人体は五感をもっています。人間は、誰でも五感の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。
酔った瞳の色は、どれほど美しく光るでしょうか。真の愛に惹かれている人の、ほほえむその唇は、どれほど恍惚としたものか考えてみてください。人間の五感が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいだろうかと想像してみてください。
そのような美しさを通した喜びは、神様お一人では体験することができないのです。そのような美しさは、相手がいてこそ体験するようになるので、それが神様が人間を創造された目的でもあるのです。
真の愛に酔った瞳に触れてみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいれば、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。
美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。神様は、天地を創造された以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。
神様は、真の愛の人間に対して、宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われることは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。
神様が人間を造られたのち、人間の真の愛におぼれて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様がお住みになるようになるので、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界だということは確かです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-382,1986.8.20)
真の愛が完成すれば、感応の神様は、その真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中ならば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-383,1986.8.20)
第七節 愛は極めて自然なところで成される
私が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が口づけするのを見るために、巣を作って餌もあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って、楽しそうに歌を歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。
それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心に満ちた実験のようなものでした。今考えれば、意地悪なことばかり続けていました。
愛は自然な中で成されるということを、その後しばらくしてから悟ることができました。自然な中で、最高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なのです。私が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-353,1986.1.3)
愛の価値を失った人を大学で教育して、何が変わるというのでしょうか。彼らは、みんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注:肉、野菜などをみそとともに煮た汁物)は、土鍋に入れてこそ本来の味が出るのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。
世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花を咲かせなければなりません。焼いたカルビは皿に盛らなければならず、テンジャンクッ(注:韓国風みそ汁)は土鍋に入れてこそ、本来の味を味わうことができるのと同じです。風味の良いテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。
同じように、人間も風味の良い味に似たそのような愛に一度味をしめれば、変わることがないのです。甘いだけのインスタント食品にはすぐに飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができるならば、それは、真の愛だとはいえません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-354,1986.1.3)
最近は、インスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題です。香水風呂に入ったからといって、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水につかって体を洗い、そして寝床に入る夫婦の愛のほうが、もっと純粋であり、長くたてば深まるものです。
夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みがき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みがき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-354,1986.1.3)
皆さんが好きな、愛する人と出会えれば、抱擁したいし口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相対を探し出すための人間の自然な行為です。
すべての人間が相対理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、そこには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念を基にして男性と女性が出会うときに生まれるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-355,1981.1.13)
第四章 人生路程第一節 人が願う目的
神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔として表したのです。それが創造理想です。
神様は本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が90度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。アダム、エバは、堕落しなかったなら、あの世に行って父母として永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様のように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。(29-109,1982.7.4)
第二節 生まれた理由
この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても、個別的にだけでなく、全体に関連性を結びながら、球形を維持しているのです。
では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放つのです。(104-122,1979.4.22)
愛で生まれ、愛で育って、愛で生きて、愛で死ぬようになるときは、生まれるのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難いことです。皆さんは、父母がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者だということです。
皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母の愛が差してある旗だと思わなければなりません。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。(103-258,1979.2.25)
第三節 瞬間(一日)と一生の関係
皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせ得る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(31-218,1970.5.31)
今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。
一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、4000年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダム、エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いのもであるかを知ることができます。
その一瞬の失敗で、歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の報いを受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡の窮地に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、一時間、カチッ、カチッという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに、一瞬でも時間の関係において飛躍があったり、穴が生じれば、永遠は中断されるのです。
それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、その人は、一生の間、み旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見てくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カインとアベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。
アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。・・・・・・もろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:17-18)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッ、カチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。
今日、信仰者たちが恐るべきことは、「終わりの日」に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(37-219,1970.12.27)
第四節 胎中期間と三段階秩序
アダム、エバを神様が造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム、エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、母親が赤ん坊を宿して育てるの同様の過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは説明する道理がありません。それで、アダム、エバに胎中期間があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。
胎中期間とは、どのような期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくることができる赤ん坊を胎中に宿して育てた期間だったというのです。(225-198,1992.1.20)
第五節 我々の人生の道
我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符号する環境になっていなので、すべての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。
それゆえ、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自信の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。
そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。
一年を推し進めるためには、365日を克服することができる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾ることはできません。このような一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。
今日、この地に暮らしている人間は、時間性から逃れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。
人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。(31-149,1970.5.24)
第六節 我々が訪ねるべき本郷
皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、私は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則である「ために生きる」生活をした人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。
そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては帰ることができないために、神様は、人間が帰ることのできる道を歴史過程に設定せざるを得ません。
それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界へと率いてきています。
そのような本郷の所へ導くべき宗教なので、宗教は何を教えなければならないのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えざるを得ません。ですから、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜であれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。その理由は、その国(本郷)の法度に合う訓練をしなければならないからです。(78-27,1975.5.6)
第七節 人生最高の行くべき道
人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も女性もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。
人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。
欲望の果てはどこまででしょうか。神様の愛を占領することです。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。それゆえ、神様の愛を占領しなければなりません。愛さえ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても構わないのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。
そのような場で寝そべれば、天下にあるすべての存在が、良く見えないものがなく、天下にあるすべての存在が、自分のために存在しないものがないと感じられるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(39-210,1971.1.10)
第八節 出生の基準と生涯の基準①誤った出生の基準
今日、世の中の人は、自分自身が高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったということを知りません。神様の恩讐であるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。
堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような三種類の結実が、、正に自分です。
ですから皆さんは、サタンの血統に属しているのです。いわば皆さんの血管を伝わってサタンの血が流れているのです。したがって、サタンは自動的に自分の理想的な結実を得たのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な感性人間に救おうとされるのです。皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。
それゆえ、出発が誤ってしまいました。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母によって始まったので、帰って真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。
それで、祝福を受けるとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりも信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射と同じです。解毒注射です。
我々の先祖が誤ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。(216-109,1991.3.9)
②生涯の基準
ここで、生涯とは、永遠の生涯をいいます。霊界のことだけを言っているのではありません。それは生きている永遠の人生です。「自分自身」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり主体的な神様の対象が、正に「自分自身」です。神様の愛の相対が「自分自身」だというのです。神様がご自身よりも貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が「自分自身」なのです。
愛の属性は、主体と対象が一つになることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついていくことができます。全財産を、みな相続することができます。神様の心情までも、みな相続するのです。私は悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。こえは何ものとも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。
それゆえ、神様と同じ立場に立つのです。永遠なる真の愛の場に同席するのです。あの世は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。
我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。ですから、霊界に行けば自由なのです。それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(216-25,1991.3.9)
第五章 有形実体世界と無形実体世界
第一節 人生路程についての祈祷文
愛する天のお父様!
天が辱めを受けるような恥をかかれるのではないかと恐れ、幼い時から今まで闘い抜いてきた私を守ってくださった、天のお父様の恩賜に感謝申し上げます。
この地において、何が良いといっても、天のお父様が運行される本然の心情につながること以上に貴い基準がないということを存じております。
私たちは、その立場を限りなく慕わなければなりません。
天のお父様の真の愛に触れた人は、この世の万事を捨て去っても未練がない立場にあるということを、私たちは知らなければなりません。
「第三の生」という自由な権限をもった解放児として出生できるその日を、今日この地上世界において準備しなければなりません。
愛する天のお父様!
私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化できるような因縁を備え、そこに完全に吸収されなければならないということを知っております。
そうしてこそ初めて、春を迎え、花を咲かせることができるという事実を知らなければなりません。
「一生において、あるひととき春を迎えたことがあるか」と聞かれ、迎えたことがあると答えられない、哀れな霊になってはいけません。(32-37,1970.6.14)
愛する天のお父様!
天のお父様を奉り、つつましく礼を捧げたい思いのない人は、永遠なる天の国で天のお父様と絆を結べないということを分からせてください。
今、私たちが心の門を開いて、天のお父様の心情を感じ取れるようにしてくださり、今日私たちの心からあふれ出るあなたのみ声を聞き、失った自らを取り戻させてください。
天のお父様が私一人を取り戻さんがために、私の背後で様々な艱難と苦労の歴史過程を経てこられたことを実感し、自ら頭を垂れる私とならしめてください。(4-280,1958.9.14)
第二節 死に対する理解
この地上には父母がいて、師がいて、親戚がいます。この地には、そのような因縁を結んでいくことができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、すべて神様を中心として全体のために生きるのです。位置がすべて区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行くことができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どのみち人間は死ぬのです。
生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が80年だとすると、あまりにも短いのです。霊界の時間では8時間にもならない時間です。すなわち永遠の世界の時間で考えれば、8時間にもならないのです。ですから、真の愛の力は偉大なのです。真の愛は、時間と空間を超越し、我々が認識できないほど速く作用するのです。(205-65,1990.7.7)
間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界は実在し、我々人間は、霊界から生まれたために、いずれ霊界に帰らざるを得ません。韓国の言葉の中で、おもしろい言葉があります。「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、帰ることではありません。出発した故郷に帰るということです。その出発は共同墓地ではありません。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るという意味です。
人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ということを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るという意味です。それは何を言うのでしょうか。創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。循環運動をします。同様に、帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くなれる所に、もっと良くなれる所に帰ることを願います。誰も小さくなることを願いません。しかし、すべての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がっていた物も、だんだん遅くなり停止するようになります。
我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。ところが、この世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。人は誰しも世の中に生まれて、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界のために準備する期間と思って、準備する一生を送るのです。
「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きようとする人は分かりません。死の境地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。(74-243,1974.12.31)
では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同席するためであり、神様の愛の世界のためにそうするのです。
神様の愛の中で生まれることが、死ぬことですが、人間世界では、「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎えることのできる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第二の出生の瞬間です。
そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか。第二の無限の世界の愛のために活動する子女として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのか分かりますか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶことができないからです。(26-172,1982.1.1)
第三節 三段階の人生行路
人の一生は、蘇生、長成、完成の三段階を経ます。腹中の水の世界、地上の地球星世界、天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、母親の腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中の霊界時代、このように三時代を経ます。(26-174,1982.1.1)
人はうまれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊が母親の胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中で暮らすために、水を吸って送り出さなければならないので、赤ん坊はホースを母親のおなかにつなげて生きるのです。赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれというのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえちゃんと覆いかぶせて寝れば下痢になりません。
腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の段階の口は何ですか。皆さんが食べ物を食べる口です。絶えず上がるのです。では、へそにつながった緒を、どのようにすべきでしょうか。切り捨てなければなりません。
同じことです。空気の世の中では、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っているのです。そうして肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。
胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母になられる神様と、愛を分かち合うことができる霊界に再び生まれなければなりません。(299-69,1999.2.4)
腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。それは、第二段階の人生を生きなければなりません。したがって地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。(139-214,1986.1.31)
この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ、「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛を受けられずに暮らすからです。それで、一人で独身暮らしをする人を、「かわいそうだ」と言います。(139-214,1986.1.31)
死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、愛の要素を受け継ぐことです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育つのです。ですから、神様の法則のとおりに、胎内で正常な赤ん坊として育つのと同様に、地上でも天理に従ってちゃんと育たなければなりません。(299-69,1999.2.4)
とんぼは初め、幼虫になって水の中で泳ぎ回った後、地上に上がってくると、しばらくの間、這い回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地で這っていた時には食べるとも思っていなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。
昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。死が第二の出生の、幸福なる関門です。死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は、空気中において「胎中で泳ぎ回って暮らすこと」と同じです。空気という包みの中で、生きているのです。死ぬということは、特別なことではなく、第三の人生へと出生することです。その瞬間が、死ぬ瞬間です。(299-71,1999.2.4)
第四節 霊界、肉界の中心
皆さんは、霊界について相当に気掛かりでしょう。世界には、多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで、永世という世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に生きる世界を探して行くのです。そのような世界が宗教の目的地です。しかし、今日、宗教はどのように変わったでしょうか。だんだん堕落して、「宗教は、弱者たちが信じるものだ。我々人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間たちが操作しておいたものだ」と結論を下す時代に入ってきました。
宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカが全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人たちが、宗教を離れて、今まで自分勝手に暮らしています。
世界の中心であり、すべての理想の中心である、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたそのようなキリスト教の中にいたのに、なぜそこから離れるようになったのでしょうか。
第一の原因は、霊界があることをはっきりと知らなかったからです。知能をもった比較の能力がある人間なので、良い所があれば、悪い所を捨てて、そこへ行くようになっています。より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが人間の本性です。人間は、霊界の実存をはっきりと知らなければなりません。
第二の原因は、神様を知らなかったからです。堕落によって神様との関係が断絶し、孤児として生きてきたのです。
第三の原因は、霊界の中心になり、神様の中心になる愛によって関係が結ばれることが分からなかったからです。この三つがわからなかったのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界ということがわからなかったのです。
愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、間にいても良いというのです。愛する夫が自分より高いといって嫌がったり、愛する妻が自分より低いといって、それを憎んだりしますか。一つになれば、自由に低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所へ下りてくることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。制限がありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界であるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ」ということをよく口にするのです。(91-140,1977.2.6)
霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。
人間は、心と体から成っていますが、それとは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛が介在しないことには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。
「自分の心も霊だろう」と考えるかもしれませんが、混同しています。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心であると考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。
霊人体を見ると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心が違うということを知るべきです。心は、神様と関係がないのです。神様が離れたのです。神様ご自身が関係することができません。神様が直接主管できないのです。皆さんの心は、ああしたりこうしたりと変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているからです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にあるのです。
皆さんは原理を学んでいるので分かりますが、生心とは何でしょうか。生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探すことができません。
生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間にとって一番問題になることとは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。宗教は生心を植えつけようということです。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(91-142,1977.2.6)
第五節 明らかに実存する霊界
神様は、尊厳な方です。それで、霊界と肉界は一体化をなさなければなりません。真の愛が現れなかったために、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったために、心と体が分かれたのであり、真の愛がたたなかったために、宗教と政治が分かれたのです。
真の愛を中心として、全部一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、みなつながるのです。我々の手で、そのようにしなければいけないのです。そうでなければ、本然の天上天国、地上天国を相続することはできません。霊界と肉界の一致をどのようにするのでしょうか。真の愛で一つにするのです。(216-106,1991.3.9)
世界人類の中で、霊界を知らない人は80パーセントになります。信じる人たちも、霊界があるか、神様がいらっしゃるか、はっきり分かりません。しかし、霊界はあります。考えてみてください。この世の金持ちが、これから幸福の園をつくろうとするとき、自分のすべての財産をつぎ込んでもつくりたい気持ちがあるのと同じように、天地を創造なさった神様は自分のお住まいになる所をいかにつくったでしょうか。
霊界は、どの部分を探して凝視しても、千年眺めても飽きない美の世界です。想像を絶します。何か世界で最良のものがあったとしても、霊界に比べれば何でもありません。霊界の一角にもなりません。ですから、この地上が欲しいとは思いません。私に言わせれば、この地上は私の目的に適っていないので、帰りたいのです。(15-154,1965.10.7)
一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。生まれたから、ただ父母といっしょに家庭で暮らしている、このように生まれたからこのように暮らしている、と思って生きています。そのように暮らすすべての生活の中心とは何でしょうか。どのように食べ、どのように暮らすかということです。それゆえ、一番重要なことを衣食住ととらえています。
どのように住むかという問題、どのように食べるかという問題、どのように装って暮らすかという問題、これが中心だというのです。もちろんそこには、人間関係において人倫道徳があり、向上し、互いに発展し、互いに喜び合える内容がありますが、その道徳基準が異なり、民族が異なり、国家が異なり、世界すべての文化背景の差によって、生活基準や社会制度が全部異なるのです。
このように見ると、人間が求めるべき本然の基準、すなわち創造本然の基準と、今日、我々が暮らしている生活の標準として立てていくべき人倫道徳の基準との間には大きな差があります。これが一つに収拾されていません。本然の世界に基づいて、我々が生まれ、生きてから、行き着く所はどこでしょうか。これがはっきりしていないのです。ですから一般の人たちは、霊界があるかないか、神がいるのかいないのか、知らずにいるのです。
しかし、原理を学んだ人たちは、霊界が確実にあるということを知っているのです。信じているだけではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知っています。今日、統一教会がこれほど世界的な基盤を形成するまでの背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきているのです。それゆえ、「霊界はない」と言うことができない立場にいる人たちが、原理が分かる人たちです。(140-122,1986.2.9)
原理が分かる人たちは、どのような道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界が行くべき天意の道があります。その専門家が、私です。霊界は、間違いなくあります。(121-146,1982.10.24)
神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても我々とは関係ない」と思うかもしれませんが、それは考え違いをしています。「霊界があっても私とは関係ない」と言うのは、まるで「自分は家庭の一員であって、国も世界も必要ない」と言っているのと同じなのです。
それゆえ、もっと大きな神様がいて、もっと大きな霊界があるなら、もっと大きいものと関係を結ぶことを自分は願います。関係しているだけでなく、関係をもって何をするのでしょうか。一つにならなければなりません。一つの目的に向かって行かなければならないのです。(104-119,1979.4.22)
使徒パウロが霊界の「第三の天」の世界を見て体験したことが、彼にとって14年間絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか。そのような体験がなければなりません。私もそれと同様です。(27-128,1969.11.30)
私は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。獄中にいくらほうり込まれても、私はそれも消化することができます。ですから、今日このように反対する環境を消化して屈服させてきたのです。私の手で全部屈服させたのです。(202-27,1990.5.1)
第六節 霊界の創造
霊界は天使世界に相当します。そして、今日の世の中は、アダム、エバのような立場にあります。ところで霊界は、アダム、エバを造る前に造られました。霊界が神様のみ旨に反対することによってサタン世界が生じたために、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。また、霊界を屈服させずには、地上世界に主が来ることはできません。それで、統一教会が今まで霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。(25-233,1969.10.4)
霊界は、どこにあるのでしょうか。皆さんの体の中にあります。ですから、皆さんは常に霊界を背負って回り、連れて回っているのです。ですから逃げることができません。(162-116,1987.3.30)
霊界はあります。霊界は、この世界のためにあるのです。また、この世界も、永遠の世界のためにあります。「世の中のどのに神様がいて、霊界がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、神様のいらっしゃる所が霊界です。(27-307,1982.4.2)
我々の人生が七、八十年で終えれば、別に問題がありませんが、永遠の生を中心として生きていくから深刻です。では、霊界があるとしたとき、死後に霊界に行くようになれば、何を持って行くのでしょうか。真の愛を実践する人生を生きなければ、霊界と関係を結ぶことはできません。霊界は広大な世界です。皆さんは知りませんが、広大無辺な世界です。
今日、電気とか宇宙などと言って大騒ぎするのは、愛の理想世界を成すための一つの内的な潤滑剤のようなものです。そのように見ると、霊界という所は、愛の電気で充満した世界なのです。愛の電気をもってして、できないことはありません。ここから、我々の意識構造をもって治め得る可能圏が霊界だといえます。
霊界とは何でしょうか。永遠の要素を願う所です。霊界は、すべてが愛で充満した、愛でいっぱいになった調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。
地上天国とはどのような所でしょうか。すべての愛の電球に、明かりがともる所です。それでは、天上天国とはどのような所でしょうか。愛の電球に、明かりが永遠にともる所が天上天国です。
それゆえ、皆さんが愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、みな引かれてきます。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横に行きます。思うがままに操縦されるのです。嫌でそうするのではなく、自動的にそうなるというのです。
それで、霊界という所は、「愛の空気で充満した所」という概念を探すことができます。愛の神様が、愛の心で、世界の人類に一度に全部食べさせ、喜ばせたくて、「御飯よ、出てきなさい」と言えば、出てくるのです。
霊界では、愛の食べ物を食べます。互いに見るのも、愛の目で見るのです。そして神秘さが形容できない所です。聞いても絶えずもっと聞きたいし、眠りとか疲れという観念はあり得ないのです。霊界とは、愛の電気で充満した所です。今日人間は、何でも愛に関係を結ぼうとします。なぜ、愛の関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせるためです。そのようになっているために、そこにお応じるしかないのが人間の存在です。その位置を離れることができません。
皆さんが夢で私に会う現象は、神様の愛の波長を通じて現れるのです。そうしようとすれば、自分があってはいけません。自分を犠牲にせよということです。真空状態をつくらなければなりません。真空状態になった次には、共鳴圏をつくり、(電気)抵抗のない黄金にならなければなりません。黄金というのは他の要素が混じっていないのです。純粋な、そのままです。黄金をなぜ宝物と言うのでしょうか。黄金は抵抗がないのです。(112-17,1981.3.15)
|