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発疹ができた、モンキーポックス患者の腕=WHOのウェブサイトから(ナイジェリア疾病対策センター提供)
3月末、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)に、ついにM痘(サル痘、エムポックス)の患者さんが受診されました。この患者さんは自らM痘の可能性を考え事前に連絡をくれていたので、他の患者さんと接することのないよう「発熱外来」の枠で受診してもらいました。検査の結果は「陽性」で、保健所に相談すると隔離措置がとられました。しかし、M痘の皮疹は他の皮膚疾患と簡単に区別ができるわけではありません。今後、まさか自分の症状がM痘だなどとまったく疑わずに皮膚科クリニックを受診し、院内感染のリスクが生まれる事態も起こり得るでしょう。今回は、M痘に対する現在の政策の問題点を指摘し、我々はどうすべきかについて、私見を織り交ぜながら述べていきたいと思います。
まずは病名について整理しておきましょう。2022年7月23日、世界保健機関(WHO)がこの疾患に対していわゆる「緊急事態宣言」を発令したとき、この病気の名はモンキーポックス(monkey pox)であり、日本語では「サル痘」でした。ところが、「サルに対して失礼……」などの意見が世界中から寄せられ、WHOは11月末、英語での名称を「mpox」に変更しました。ただし、1年間は旧名の「サル痘/モンキーポックス」と併用することになりました。過去のコラム「サル痘 感染抑制に成功した米国 日本の今後は」でも述べたように、私個人の感想としては「Mpox」の方がいいと思うのですが「mpox」が正式な名称です。日本語では大手メディアが軒並み「M痘」と報じたために、そのコラムでもM痘としました。今回もM痘で通しますが、厚労省のサイトでは(4月6日現在で)依然、「サル痘」のままです。
※編集部注 厚労省は今年2月、この病気の日本語の正式名称を、カタカナ表記の「エムポックス」にする方針を決めました。今後、意見公募などをした後、政令を変更する方針です。
3月から感染者が急増
厚労省のデータによると、23年に入ってから感染者数が増加し続け、4月13日時点で、2022年7月25日からの累計で109例の報告があります。特筆すべきは感染者の「急増」で、3月に医療機関を受診した人だけで69人にも及びます。感染源は、昨年夏の時点では渡航歴のある報告が注目されましたが、現時点で総括すれば4月13日までの109人中、「渡航歴なし」は103人(約94%)と大半を占めます。ということは、これからますます国内での感染増加が予想されます。
M痘は皮膚と皮膚が触れることで簡単に感染します。男性同性愛者の性的接触での感染が多いのは事実ですが、国立国際医療研究センターによると、複数の男性と性行為をもった30代女性や、皮疹がある初対面の女性と性行為をもった40代の男性らの感染が報告されています。上述のコラムでも紹介したように、クラブやパーティーで偶然、肌と肌が触れ合う程度の接触でも感染することが分かっています。米国では小児の家庭内感染例もあります。M痘との重複感染の報告もあるHIV(エイズウイルス)が、濃厚な性交渉(狭義の性交渉)でしか感染しないのとは対照的に、ささいな接触でも感染するのです。簡単に感染する以上はその対策を徹底しなければなりません。
医療機関の対処に課題
冒頭で紹介した谷口医院の事例では、「発熱外来」を受診してもらって他の患者さんと接しないようにしました。診察と検体採取(症状の出ている部分を綿棒でぬぐう)の時には、国立感染症研究所の手引に従い、PPEと呼ばれる防護服を着用し、N95と呼ばれる特殊なマスク、さらにフェースシールドを装着しました。ちょうど初期の新型コロナウイルスに対して医療者が着用していた防具と同じです。
防護服の装着を体験する学生たち=名古屋市北区の名古屋市立大西部医療センターで2021年10月28日撮影
現時点ではM痘の検査(PCR検査)は保健所が行います。我々医療機関は、M痘かもしれない患者から検体を採取し、それを滅菌パックなどに入れて保存し、保健所の職員に取りに来てもらって特殊な梱包(こんぽう)をして渡します。検体を引き渡すときには、きちんと感染予防対策がとれていたかを、保健所の担当者から事細かに“尋問”されました。上述のように、隔離をした上で初期のコロナと同じような対処をしていたために事なきを得ましたが、もしも他の患者さんが近くにいたり、単なる皮疹と考えて防護服を着用せずに検体採取をしたりしていれば、他の患者さんにも自己隔離をお願いしたり、谷口医院を一定期間休診したりと、何かと大変なことになったかもしれません。
この患者さんのように、自らM痘の可能性を疑い事前に相談してもらえば今回と同様の対処ができますが、すべての患者さんが自分で疑えるわけではありません。上述したように、ささいな接触で感染することもあり、また皮疹は多彩な症状を呈するからです。過去のコラム「サル痘 強い痛みや息苦しさ 性行為なしでも感染 女性も感染」で紹介したように、欧州疾病予防管理センター(ECDC)によると、ベッドリネンなどに付着したウイルスは、数カ月からなんと数年間にもわたって感染性を維持することがあります。
M痘の発症好発部位のひとつは手指です。谷口医院を受診した患者さんも両手に複数個の皮疹が出現していました。ウイルスは皮疹のかさぶた(痂皮=かひ)にも存在している可能性があります。ということは、感染者が触れたかもしれない、椅子、ソファ、ドアノブ、(問診票記載時に使った)ボールペンと問診票、水道の蛇口などにもウイルスが付着した可能性が出てきます。さらに、感染者が触れたかもしれない部位に他の患者さんが接触すれば……という問題も生じます。
サル痘が国内で初めて確認されたことを受け記者会見する厚生労働省感染症情報管理室の今川正紀室長(中央)ら=厚労省で2022年7月25日、西夏生撮影
ということは、その皮疹がまさかM痘などとは、みじんも考えていなかった患者さんが受診して、医師が「M痘かもしれない」と判断すれば医療機関は大変なことになります。その場にいたすべての患者さんに事情を説明して直ちに院内の消毒措置を開始しなければなりません(消毒はアルコールでOK)。実際には、それほど簡単には感染しないのかもしれませんが、可能性がある以上は消毒や隔離が必要と判断されることもあるでしょう。そして、M痘を疑わず受診するのは感染症科ではありません。新型コロナとは異なり、M痘は単なる皮疹ですから、受診するのは皮膚科クリニック(病院よりも診療所/クリニック)です(一部の患者では、発熱やリンパ節腫脹=しゅちょう=が出ることもありますが、皮疹のみのことも多々あるようです。実際谷口医院の患者さんは皮疹だけでした)。そして、皮膚科単科のクリニックは、たいてい発熱外来を実施しておらず、医療スタッフはN95マスクやPPEを日ごろから着用しているわけではありません。
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ではM痘に対してはどのような対策をとるべきでしょうか。「行政が中心になってハイリスク者への啓発を行い、必要あれば検査を促し、さらにワクチンを普及させる」というのが私の考えです。啓発は行政に頼りっぱなしになるのではなく、我々医療機関も協力しますが、谷口医院がいくら検査を呼びかけても限度はあります。やはり行政が中心になるべきです。上述のコラムでも述べたように、米国は行政が中心となりNPOなどの協力も得て、ごく短期間で感染抑圧に成功したのです。
ワクチン接種を受けられる体制を
ワクチンについてはどうでしょうか。上述のコラムで述べたように、日本には生ワクチンしかありません(しかも充分な備蓄はないと聞きます)。M痘に対しては米国が実践したように不活化ワクチンを普及させる必要があります。その最大の理由は「生ワクチンは禁忌(つまり接種できない)のケースが多い」ことです。例えば、M痘の最大のリスク因子であるHIV陽性者には生ワクチンが使えません。これは抗HIV薬を内服して免疫状態が安定していても、です。また、アトピー性皮膚炎(以下、アトピー)を含む慢性の湿疹があるか、過去にあったというエピソードがあれば使用できません。これらは米疾病対策センター(CDC)のサイトに記載があります。
2022年初めから23年3月29日までの、各国のサル痘患者数を示す地図。世界全体での患者数は8万6746人、死者は112人。丸が大きいほど患者数が多く、最大は米国の3万286人。この地図での日本は80人。オレンジの丸は昨年から新たに患者が出始めた国、青い丸はもともと流行があった国を示す=米疾病対策センター(CDC)のウェブサイトから
重要なのは、アトピーを含む湿疹があれば、M痘を含む皮膚の感染症にかかるリスクが上昇することです。湿疹は皮膚の感染予防に必要なバリアー機能を損ねるからです。ですから、アトピーを含む皮膚疾患がある人は、ない人よりも感染予防をしっかりとせねばなりません。それなのに、そういう人たちにはワクチンが使えないのです。アトピーの治療を受けに皮膚科クリニックを受診して、待合室にいる他の患者さんがM痘で……という事態も今後起こり得るでしょう。
日本の生ワクチンの添付文書をみると、「HIV陽性者や、アトピー性皮膚炎の既往のある者(患者または元患者)にはNG」という直接的な記述はありません。ですが、接種できないケースとして「明らかに免疫機能に異常のある疾患を有する者」とあり、これはHIV陽性者には使えないと解釈できます。湿疹については「まん延性の皮膚病にかかっている者で、種痘により障害をきたすおそれのある者(にはNG)」という記載があります。私にはこの「まん延性の皮膚病」の意味がよく分かりませんが、アトピーも「まん延性の皮膚病」の一つにあたるようにも読めます。
※編集部注 編集部が厚労省に確認した結果、「まん延性の皮膚病」とは、湿疹、アトピー性皮膚炎、火傷、膿痂疹(のうかしん=とびひ)、水痘、帯状疱疹(ほうしん)などを指すそうです(リンク先資料の3/9ページ)。また、このワクチンは現在、国内で流通しておらず「M痘ウイルスにさらされる前(ばく露前)には、だれも接種を受けられない」という状況だそうです。一方、感染者と同居しているなどの理由でウイルスにさらされ、感染した可能性が中程度以上の人は、保健所を通じて厚労省に相談し、同省研究班が行っている研究の一環として接種を受けられる場合があるそうです。なお「ワクチンの在庫はどの程度あるか」や「『ばく露前』の接種が受けられるようになるのはいつか」などについては、現状では答えられないとのことでした。
M痘ワクチンの接種対象者について厚労省は「(M痘感染者との)接触リスクが高い者のうち、希望する者へのばく露前(ウイルスにさらされる前)接種について、以下を踏まえ更に検討する」との見解を、昨年9月15日に同省厚生科学審議会感染症部会に提出した資料で示しています。ここでいう「接触リスクが高い」人とは(1)患者の入院を担当することが想定される特定の医療従事者(2)地方衛生研究所等のサル痘の検査に関わることが想定される検査担当者(3)患者搬送や疫学調査等で患者に接することが見込まれる保健所職員等、とされています。
「入院を担当」とされていますから、無床診療所/クリニックの医療者は接種を受けられませんし(私自身も受けられません)、院内で陽性者と接触したかもしれない患者さんに対しても使うことができません。先ほど紹介した感染症部会の議事録をみると「渡航歴や接触歴がない複数の感染者が出てきた場合には、より広く希望者にばく露前接種をすることが必要になる」などの意見が出ているのですが。
現在の日本のM痘対策、このままでいいはずがありません。「M痘流行抑えられず。対策は後手に……」といったメディアの記事は見たくありません。
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谷口恭
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。