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毎日新聞2024/4/13 東京朝刊有料記事2115文字
賀上文代さんは手がかりを探し続ける。手にするのは情報提供を求めるビラと大助さんの入社時の辞令=徳島県阿南市で、井上英介撮影
「あのとき、警察がきちんと捜査して……くれたら……」
取材のたびに何度も言葉に詰まる。時が流れても、母の涙が枯れることはない。
徳島県阿南市の賀上(かがみ)文代さん(72)の長男・大助さんは2001年12月、大阪市淀川区の社員寮からこつぜんと消えた。当時23歳。北朝鮮へ拉致された可能性が否定できない「特定失踪者」として、警察庁の公式サイトに載っている。
同年春に松下電器産業(現パナソニック)に就職。上司から「出社しない」と連絡があり、賀上さんは何ごとかと大阪へ向かった。大助さんは12月22日深夜に社員寮の自室を施錠。財布と携帯電話を持って出かけた。めがねと携帯の充電器が部屋に残され、遠出した気配はなかった。まじめで夜に出歩く性格ではない。失踪の2日前、正月は帰省すると上司に伝えていた。
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事件に巻き込まれたのではと考え、警察署へ。刑事は「しばらくしたら帰ってきますよ」と取り合わず、携帯電話の通話記録の入手も事件性がないと拒んだ。携帯電話会社に「息子の命にかかわる」と開示を懇願したが、「警察にご相談ください」。3カ月の保存期間が過ぎて決定的に重要な記録は失われた。
失踪した日、奄美大島沖で北朝鮮の工作船が海上保安庁と銃撃戦となる事件が起きていた。「もしや息子は……」。事件とは無関係とみられるが、賀上さんの中で不安がふくらんだ。
03年1月、阿南市の職員だった陶久(すえひさ)敏郎さん(69)は拉致問題解決を目指す市民団体「救う会徳島」を仲間と作り、集会を開いた。中学生のころ安保闘争に刺激を受け、学生時代から北朝鮮の問題に関心を寄せてきた。公務員だが、拉致問題に取り組む組織が徳島に必要だと考え、行動に移した。
これを事前の報道で知った賀上さんは会場に乗り込み、切々と事情を訴えた。「いきなり来て泣きじゃくり、最初は話がのみ込めなかった」と陶久さんは振り返る。この出会いから2人の長い闘いが始まった。
政府が拉致被害者と認定するのは横田めぐみさん、有本恵子さんら17人で、うち5人が帰国した。だが拉致の人数ははるかに多いとみられ、未認定の特定失踪者は871人に上る。賀上さんは息子につながる手がかりを求め、陶久さんと警察や外務省を回った。大助さんの預金の動きも運転免許の更新もなく、国内で暮らす形跡は皆無だ。
心ふさぐ日々が続くなか、14年5月に状況が動いた。スウェーデンでの日朝政府間協議で、北朝鮮が拉致問題は解決済みとの立場を改め、拉致被害者を含む行方不明者を調査すると約束した(ストックホルム合意)。胸が躍ったが、ぬか喜びに変わる。16年、北朝鮮による核実験で日本が制裁を強化し、北朝鮮は調査の中止を発表した。
息子を思う母の前に、二つの国家権力が立ちふさがる。それでもなお、陶久さんの助言で国や捜査機関に何度も情報公開請求をかけ、当局の不作為を暗示する「のり弁」(黒塗り文書)が積み上がる。「何かしてないと息子が消えてしまいそうなのよ」。声が震えていた。
息子が本当に拉致されたのか他人は疑うだろうし、自分にも分からない――。賀上さんは特定失踪者の親族特有の負い目を口にした。救う会(拉致された日本人を救出するための全国協議会)や家族会(拉致被害者家族連絡会)から「すべてこっちに任せておけ。あんたらは黙っていろ」と言わんばかりの圧力を感じる、とも。陶久さんは「政府認定の拉致被害者に対し、特定失踪者は差別されている」と補足する。「両会は『全拉致被害者の即時一括帰国』と言いつつ『親の世代が存命のうちに』と運動方針にうたう。親とは家族会のメンバーを指し、特定失踪者はのけ者です」
政府は今もストックホルム合意に基づき、日本人をめぐるすべての人道問題の解決を目指している。この「人道問題」は拉致・行方不明者のみならず、敗戦前後の混乱で帰国できなかった残留日本人や亡くなった人の遺骨収集、戦後日本の帰還事業で北へ渡った在日朝鮮人や日本人妻の問題も含んでいる。
ところが、ストックホルム合意の一方で、いつのころからか政権は救う会・家族会の主張に沿って「拉致問題が最優先」と公言し、それが無批判に報道されるようになった。他の人道被害者や遺族も高齢化するが、声はかき消されがちだ。ちなみに横田めぐみさんの父、滋さんは生前、遺骨問題について「拉致問題と並行して取り組むべきだ」と語っていた。
救う会の西岡力(つとむ)会長は、私の取材に「私たちは拉致被害者の救出を求める団体で、他の問題にはタッチしない。拉致被害者の帰国では認定の有無で優先順位をつけない」と語る。
賀上さんは今年2月17日、高知市で開かれた政府主催の「拉致問題を考える国民の集い」で講演した。15年ほど前に横田早紀江さん(88)と初めて会い、励まされた思い出を語った。その励ましの言葉とは――。
「わが子に会えない家族の気持ちはみんな同じ。一緒にがんばりましょうね」
◇
喫水線(きっすいせん)は、水に浮く船の側面と水面が交わる線。(第2土曜日掲載)
徳島支局長。1992年入社。福島支局、東京社会部、特別報道部長、大阪編集局次長などを経て現職。