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実録・洪順愛大母様の生涯と信仰
忠心奉天の道
第一章 故郷時代と解放前後の信仰路程
第一節 大母様の誕生と故郷時代
一 誕生と家門の背景
真のお母様の生母であられる洪順愛大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、平安北道定州で、厚いキリスト教の信仰をもつ両親、洪唯一氏(南陽洪氏)と趙元模女史(寧邊趙氏)(一八八九・陰十一・七~一九六二・九・三)の間に、一男一女の長女としてお生まれになった。
大母様の父・洪唯一氏は、真のお母様によれば、背が高くて親近感のある美男子であったという。漢学を勉強された見識あるお方であり、当時としては、嫁にハイヒールを買ってあげるほど開放的だったそうである。また、その容貌と印象は、真のお父様を連想させるほど似ていた。真のお母様は、初めて真のお父様にお目にかかった時、次のように故郷にいたころの外祖父を思い出されたという。
(真のお父様は)母方の祖父(洪唯一氏)の姿とそっくりで、印象も同じだったので、見知らぬ方のような感じもせず、気兼ねするようなことはありませんでした。
大母様の母・趙元模女史は、小柄できれいな容貌をもち、勤勉で活動的な、開化期の新しい教育を受けた女性であった。ミシン商会を運営され、集金しながら、故障したミシンの修理もされた。また、一九一九年の三・一独立運動の時には、当時満五歳の大母様を背負って万歳運動に参加された。大母様の弟・洪順貞氏(一九二二~)は、故郷にいた時代に、その時撮った写真を見たことが思い出されると述懐している。
大母様は、このような母親の情熱的な信仰生活の影響を受け、十九歳(数え)の時まで長老派教会に通われた。お名前も、母の通う教会の担任牧師につけてもらったという。
母方の趙氏家門は、昔、定州で名の知れた富豪であった。その先祖の一人である趙漢俊氏は、国の発議にこたえて私財をはたき、中国の使臣が容易に往来できるように、撻來江(撻川江とも)に大きな石橋を造ったという。その時、銅銭三文を残し、橋の竣工式に履いて行くわらじを買ったのだが、それが条件に引っ掛かって、「天子を送る家門であったが、王女を送る」という夢の啓示があったと伝えられている。
真のお母様は、「平安北道定州郡にある趙氏村の弥勒仏の話は、母方の祖母とつながっている話です。真のお父様や文氏の兄弟たちも、その弥勒菩薩を触って遊んだとおっしゃっていました。これは伝説の故郷の話ではなく、生きた歴史の話です」と語られながら、次のように意味深い昔話を詳細に述懐された。
私の家はキリスト教の家庭だったので、先祖を崇拝しておらず、何代かはよく分かりませんが、韓国が中国の属国の立場にあった時のことだそうです。中国の使臣が韓国に来るには、定州の撻來江を渡らなければならないのですが、その当時は橋がありませんでした。橋を架けるお金が国になかったのです。それで国が、橋を架けることのできる人を探すために、公示文を貼り出しました。
その時、外祖母(趙元模女史)の先祖の趙漢俊という方が、私財をなげうって橋を架けたのです。その橋は石橋だったのですが、船がその下を通り抜けられるほど大きな橋だったそうです。そのおじいさんは、石橋を造るのに全財産を使い果たしたのですが、銅銭三文が残ったそうです。それで、あすは橋の俊工式に行くということで、その残ったお金でわらじを買って、寝たのです。
すると、夢に白い服を着たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それで、お前の家門に天子を送ろうとしたのだが、残しておいた三文の銅銭が天に引っ掛かったので、王女を送ろう」と言ったというのです。その夢を見たあとに外に出てみると、丘の上に石仏(弥勒菩薩)ができていたそうです。
かつて、菩薩は、男性というよりは女性を象徴していました。釈迦牟尼(の像)は、人々がみな平安な心で福を祈ることができるように、慈悲深い容貌に造られてきましたが、その菩薩(丘の上にできた石像)は、それ以上に慈悲深い姿をしていて、おなかのふっくらと出た仏像でした。真のお父様から聞いた話ですが、昔は、馬に乗っているときでも、その菩薩像の前では、馬から下りて敬拝をしなければならなかったそうです。なぜなら、馬がその前で決まって足を止めたからです。誰であろうと、その前では敬意を表さなければならないのであり、そうせずには通り過ぎることができなかったのです。
ところが、趙氏の家門に問題が起こりました。趙氏門中に生まれる娘たちは、大人になって結婚すべき年になっても、みなその菩薩像みたいにおなかが出て、嫁がせるのに問題になったのです。そこで門中会議を開いたところ、「原因は、あの菩薩像のせいではないか。菩薩像のおなかを削り落とそう」ということになったのです。そうして腰の部分を削り落としたところ、そこから血が出てきたのです。
人々は悔い改め、割り落とした部分にセメントを塗ったそうです。真のお父様が幼いころ、その場所に行って遊ばれた時は、セメントを塗った部分に長い間風が当たって穴ができ、蜂が出たり入ったりしていたそうです。その石仏の話は、定州に住む人なら誰もが知っている話です。
このような話からもその一面が分かるように、外祖母の実家の先祖は、神様を知らなかったとしても、民として国の願いにこたえて生きようとしました。それゆえに天に記憶される祝福された家庭だったのです。それで、私が笑い話で「趙漢俊おじいさんによって趙氏の家門に王子が生まれるところだったのに、三文の銅銭ゆえに、後ればせながら王女が生まれたのですね」と言ったのです。
二 故郷時代と学業
大母様の家族は、清川江を渡って、平安南道安州郡安州邑信義里に引っ越された。
真のお母様は、信義里の実家の村の様子をこのように回顧される。
私の村はそんなにひどい片田舎ではありませんでした。家の裏には小さな山があって、小川が流れる、とても穏やかで暖かい感じを与える所でした。あたかも、めんどりがひよこを抱くようにです。裏庭には、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことが思い出されます。
真のお父様の故郷である定州は、私の故郷安州から川を一つ隔てた七里(約二十七・五キロメートル)の距離の所にあります。一九九一年十二月、定州に行くときに、ヘリコプターで安州を通り過ぎたのですが、アパート団地が立ち並んでいて、全く様子が変わっていました。真のお父様の故郷である定州よりも、少し大きい市街地に変わっていたのです。
大母様の弟・洪順貞氏は、「故郷の安州の村の近くには川がありましたが、初等学校の時、遊びに行ったことが思い出されます」と語りながら、あまりに故郷を早く離れて外地で生活したため、特別な記憶はないと証言している。
大母様は、安州普通学校を卒業され、一九三六年四月には、平壌聖徒学院を卒業された。
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第二節 韓国解放前後における再臨準備の役事と大母様
一 第二次世界大戦とキリスト教文化圏
神様の摂理歴史の中で、二千年前、もしイエス様が、ユダヤ教とイスラエル民族に歓迎され、十字架を負うようなことがなかったら、世界のキリスト教の歴史は、東洋の様々な宗教文化圏を吸収し、アジア大陸にまで拡張される方向に向かうはずであった。しかし、ローマ帝国によってイエス様の聖体を失ったために、キリスト教はローマに入って迫害を受け、半島国家を中心とした実体的な版図を築いた。そうして、その後、キリスト教の主流は、島嶼国家であるイギリスを経てアメリカ大陸に至った。
アメリカは、清教徒を起源とする新教の独立国家であり、ここ二百年間でヨーロッパの精髄を引き継ぎ、二千年のキリスト教歴史を新たに結実させた国である。キリスト教は、二千年の歴史を経ながら、犠牲の代価を払い、個人から家庭、国家、世界圏をつくり、一つの新教国家を建設することによって、新しい霊的な世界を動かせる勝利的な足場を造成した。
したがって、神様の摂理は、そのようなアメリカにおいて、何としてもキリスト教の統合を模索しなければならなかった。イエス様の時とは異なり、「支持するローマ」というかたちで、天側の世界時代の基準を立てるのである。民主世界は第二イスラエル圏となり、世界のキリスト教はユダヤ教の立場になるのである。
近代に至り、第一次世界大戦の惨状を目撃した世界の指導者たちは、国際連盟を結成したが失敗する。再び世界は、第二次世界大戦の惨禍の中へと巻き込まれることになるが、これは、エデンの園で人類始祖アダムとエバが堕落するときに蒔いたものを刈り入れ、すべてを一度に清算するための「終わりの日」の惨状であった。
堕落や復帰において根本問題は、エバ・アベル・カインの関係と深く関わり合っている(注・復帰原理にはエバ・アダム・天使長、エバ・アベル・カインという二通りの観点がある)。そのような観点において、第二次世界大戦の時、ファシズムを中心として、世界制覇とキリスト教文化圏の抹殺運動を画策した枢軸国、日本・ドイツ・イタリアは、サタン側のエバ・アベル・カインに該当する。これに対して、キリスト教文化圏を死守する連合国のイギリス・アメリカ・フランスは、天側のエバ・アベル・カインの立場である。
聖書のハルマゲドン戦争(黙示録一六・16)に当たるこの対戦は、サタン側と天側の天使圏が、世界をめぐって霊肉で勝敗を決する戦いであった。そこにおいて連合国が勝利することによって、母格のイギリス、長子権を復帰したアメリカ、それから次子圏である世界の版図があとに従ってくるようになった。有史以来初めて、キリスト教文化圏を中心とした長子権復帰の形態がつくられたのである。
そのような統一世界の基盤の上に、完成アダム、すなわちメシヤが来られるようになった。第二次世界大戦後、アメリカを中心として一つの世界形態をつくったのは、ひとえにメシヤ一人を迎えるためであった。霊界と地上における天側の天使圏が、サタン世界に対して勝利することにより、再臨主が地上に顕現する時代が到来するようになったのである。
このような、アメリカを中心としたキリスト教文化圏は、アジア全域を掌握することによって、イエス様が本来アジアで成し遂げようとしたみ旨を成し遂げなければならない。そうなれば、そこに再臨主が来られ、イエス様の失った肉的基盤に連結させて、全世界解放運動ができるようになる。
結局のところ、主流摂理圏はアジアに移ってくる。キリスト教の主流が、アメリカ大陸から太平洋を渡ってアジアヘと移り、太平洋文明圏時代が到来するのである。
日本は、島嶼国家のイギリスに対応するアジアのエバ国として、イギリスの文化を受容した。同時に韓国は、半島国家のイタリアを中心としたローマ文明を霊肉共に結実させる半島国家として、肉的な法王庁としての使命を果たさなければならない。したがって、摂理の運勢は、日本を基地として朝鮮半島に訪れざるを得ないのである。
二 韓民族の日帝治下四十年の受難とキリスト教
本来、メシヤの行く道は、国家から世界へと出発する。「終わりの日」には、特定の民族が現れ、第一イスラエルの国家的な失敗を収拾し、第二イスラエルの世界的な勝利圏が連結された基台を備えなければならないが、その国が正に韓国であった。
韓国は新しい選民、第三イスラエルである。韓民族は、単一民族であり、天性的に宗教を深く理解している。また、苦痛を理解する民族である。苦難の歴史を通して試練を経ながら、忠誠と献身の精神で、不滅の霊的基台を発展させてきた。それは、神様の性稟と一致する重要な特性である。
特に韓民族は、日帝(日本帝国主義)治下で四十年間の試練期を経た。復帰摂理の目的は、堕落によって失われた「四位基台を復帰すること」にある。よって、摂理上には、四数の蕩減期間が多い。サタンは、将来、韓国の地に四千年の歴史を終結させる主が来ることをあらかじめ知っており、それを崩壊させるために、サタン側のエバ国家であった日本を前面に立てて、アジア大陸を占領させた。朝鮮半島を強制的に占領した日帝は、皇民化政策や挺身隊の動員などを通して、韓国の民族性を蹂躙し、根本的な荒廃化を企てた。
韓国は、日帝四十年の間、肉的な面で支配されながらも、霊的な面では国のために献身を覚悟した群れが独立運動を展開した。このような民族の精気を中心として、神様は摂理の因縁を立てていかれた。キリスト教の信者たちが、自ら進んで死の道を歩みながら、愛国忠節の道理を主導的に立てたということは、摂理史的に重大な意義がある。
一九三〇年代には、日本における軍国主義の台頭によって、「神社参拝」が政策的な次元で本格的に施行された。特に、一九三八年二月からは、「キリスト教に対する指導対策」を立て、韓国のキリスト教会に対して、直接、警察力を動員するなど、個々の教会から老会(長老派教会の各教区の牧師と長老の代表による集会)、総会に至るまで圧力を加え、神社参拝決議を強要した。一九三〇年に二百三十一社であった全国の神社の数は、一九四五年の終戦のころには千百四十一社に達していた。
この時、ほとんどのキリスト教の勢力は日帝に屈服したが、愛国的な地下キリスト教徒の中には、信仰の貞操を守って解放の日を待ち望みつつ闘った者も多かった。大戦末期、日帝は、一九四五年八月十七日を期して、二十万人余りの韓国のキリスト教徒たちを大虐殺するという計画を定めた。サタン世界の極悪さが最高潮に達するとき、天は転換点をもたらしていった。
このような屈辱的な強圧を加えられた時代に、韓国キリスト教は、神霊の役事を経験しながら、内的には飛躍的に復興していった。いくらサタン側の国家である日本の圧制下にあっても、未来において、アダムの特権と神の権限をもって日本に備えて立つことのできる、摂理的なみ旨があったからである。
そのような時代的な状況の中で、真のお父様は、一九三五年四月十七日、復活節の朝、故郷の山上における深い祈祷の中で、イエス様と霊的に出会われ、天のみ旨の道への公式的な召命を受けられた。その時から解放(一九四五年八月十五日)までの十年間、独り内的な準備路程を歩んでこられた。四十年の日帝治下において、数多くの愛国の志士たちが殉国と献身の道を歩んでいるとき、真のお父様も、確固たる民族意識をもって地下運動に参加しながら、迫りくる公生涯のための準備をされた。未知の世界を開拓するために身もだえしながら、青少年の時期に個人的な患難時代を通過されたのである。
神様のみ旨の成就は、共に活動する対象、すなわち相対基台がつくられなければならない。それゆえ、その基台ができる前のこの期間においては、真のお父様は、「原理」のみ言のどの部分も発表できなかった。そのような準備過程において、黙々と民族解放の日を待ち望みながら、天の準備した摂理基台を捜し求めて、様々な地下教会を踏査された。
解放(終戦)を迎える三年前からは、国内の実情を綿密に探索し、全国の有名な復興師たちや神霊教団を遍歴しながら、彼らの霊的位置と使命の級位を点検していかれた。既に十代のころから抜きん出ていた天賦的に鋭い洞察力をもって、国の時運と世界大戦の結末の状況を予想し、その中で、新しい摂理を出発するための準備に万全を期されたのである。
三 再臨準備のための神霊の役事
一九三〇年から解放までの十四年間の期間は、天が役事した全盛時代であり、再臨摂理のための縦的・横的な蕩減基台を造成する期間であった。すなわち、再臨主を迎えるための民族的な信仰基台と実体基台を蕩減復帰する期間であった。
歴史上、数多くの預言者の代身者たちが、韓国の神霊界に一斉に平面的に登場した。イエス様を不信した使徒たちが、活動して再び信任を受けた土台の上に、再臨の役事が始まらなければならないので、使命的に旧約・新約・成約を代表した「エデン復帰派」が、すべて表面上に現れたのである。彼らは互いに、自分を中心として神のみ旨が成就すると主張したが、「旧約的神霊派」は「新約的神霊派」に従い、「新約的神霊派」は「成約的神霊派」に従いながら、真の父として来られる再臨主の前に進んでいかなければならなかった。
また一方、堕落によってエバがアダムを逆主管したので、復帰の路程においては、女性は内的使命、男性は外的使命を担当し、堕落するころの基準を求めていく。朝鮮半島の地形的な特性上、東側は山が多く日が昇る所であり、その西側は平野が多く日が沈む所である。それに合わせて、東側にある咸鏡道の元山を中心として、男性の神霊の役事、西側にある平安道の鐡山を中心として、女性の神霊の役事が展開された。
それは、どちらも三代に引き継がれた。女性の代表は、「聖主教」の金聖道夫人、「腹中教」の許浩彬夫人、そして「ヤハウェの夫人」と自任した朴おばあさんにつながった。男性の代表は、「新イエス教会」系統の白南柱牧師、李龍道牧師、それから金百文氏へと引き継がれた。
神様が二千年前に、ユダヤ教を中心として役事した内容と、ヨセフの家庭を中心として役事した内容は、全く異なっていたが、それと同様に、キリスト教を中心とした役事と、神霊教団の役事は全く異なっていた。神霊教団は、イエス様の時におけるヨセフの家庭のような使命を果たさなければならなかった。彼らは、歴史的なすべての蕩減条件を担当し得る、家庭的な土台を備えるために準備された基盤であった。
その役事の背後には、六千年の長い摂理の内容が連結している。彼らが、主と完全に連結して、すべての社会環境を一致させ、一つの盾となり完全な軸となって、主の周囲を守るならば、主は新しい歴史を出発するようになる。それが実現したならば、キリスト教が信じるにせよ信じないにせよ問題にならなかったのである。
キリスト教は、それまでイエス様と聖霊の役事によって外的な摂理基盤を広げてきたが、再臨の時には、キリスト教の外的な基盤を相続して、内的基準を編成するようになる。
そのような外的な基盤を相続する摂理は、女性たちを通してなされるが、決定的な責任は、女性たちが果たすことはできない。アダムが責任を果たせずして、エバの堕落の結果がもたらされたので、来られる再臨主は、アダムの失敗したすべての内容を再び収拾し、新しい中心を決定しなければならない立場にある。全般的な収拾と勝利基準造成の決定的な権限は、第三アダムとして来られる再臨主だけがもっているのである。
とどのつまり、神霊教団は、既成のキリスト教を率いていかなければならなかった。女性の神霊教団と男性の神霊教団は、エバと天側の天使長(つまりアベル側)という関係になって一つになり、神社参拝に屈服した教団の前に立たなければならなかったのである(神社参拝に屈服した既成のキリスト教団はサタン側)。
イエス様が来られる前に、洗礼ヨハネが、アベルの立場に立って、ユダヤ教を抱き込んだように、神霊教団は、アベルの立場に立って、解放後に再建教会と一つになり、俗化したカインの立場にある既成のキリスト教団を受け入れ、善導し、真のお父様を中心とした新しい第三アダムの摂理圏に連結させなければならなかった。そのために、天は様々な神霊団体を準備したのである。
このような摂理的な状況のもとで、大母様は、長老派教会に通われる中、母親の趙元模女史を通して、様々な神霊教団と関係を結ばれた。そうして、解放前後の長い期間、あらん限りの精誠と犠牲、奉仕によって、再臨準備の信仰に没頭された。
まずは、黄國柱伝道師の一行と巡回伝道をなさり、一九三三年ごろからは李龍道牧師の「新イエス教会」で三年間、一九三六年ごろからは金聖道夫人の「聖主教」で八年間、一九四四年ごろからは許浩彬夫人の「腹中教」で六年間、一貫した精誠によって、主を迎える準備の道を歩んでゆかれたのであった。