|
実録・洪順愛大母様の生涯と信仰
忠心奉天の道
第三章 南韓での生活
── 夢に描いた主にお目にかかって ──
第一節 南下直後の生活
一 死線を越えてソウルヘ
趙元模おばあさんと洪順愛大母様、そして真のお母様は、腹中教に通っておられた一九四八年か一九四九年のころ、北韓(朝鮮半島の北側)共産党当局の宗教弾圧によって、一緒に十一日間収監されたことがあった。当時、真のお母様の姿は本当にきれいで、礼儀も正しく控え目で、嫌う人がなかった。凶悪な共産党の宮吏たちさえも、果物やお菓子などを買ってくれたりしたそうである。
共産党は、ますます猛威を振るい始めていた。そんなある日、母親(趙元模おばあさん)が、「南に行こう」と言いだした。そのころ、「以南(三十八度線以南の意)に行きなさい」という天の啓示を受けたというのである。その時、大母様の父親は、母親と一緒に南に下ることを許可した。
大母様は、「奥様(許浩彬夫人)がまだ獄中にいらっしゃるのに、どうして私たちだけで行けますか」と言ったが、母親は、「ここにずっといたら私たちが死んでしまう」と言いながら、以南に行くことを勧めた。そのまま行ってしまうのがためらわれ、しばらく悩んだが、いくら悩んでみても、結局は南に行かなければならないように思われた。平壌を背にして南へ向かうことを思うと、息が詰まり、その胸の痛みは筆舌に尽くし難かった。
南韓(朝鮮半島の南側)は、三人にとって非常に不慣れな所であった。ソウルには一度も行ったことがなかったからである。そんな折、ちょうど聖主教の鄭錫天氏が先に南に行っているという話を聞いて、その人を訪ねていくことに決めた。
その時の様子を大母様は、次のように回顧された。
真のお母様が六歳(数え)になった時に、北韓当局に捕まり、私たちは十一日間、監獄で過ごしました。その時に「再臨主が南側にいらっしゃる」という啓示が下りました。その時、「何としてもメシヤを求めて、ここを発たなければ」と思いました。私の父は、母と私に南へ脱出しろとおっしゃいました。……母と私と六歳になる真のお母様の三人は、真夜中に、住んでいた所を出発し、南への脱出の道に乗り出したのです。
当時、弟の洪順貞氏は、戦争の状況ゆえに日本の留学から中途帰国し、ソウル化学研究所で働き、その後、ソウルの薬学専門学校で勉強してから、陸軍士官学校で薬剤官の教育を受けたのち、中尉に任官され、軍隊で服務中だった。その弟に会って助けを得ようと、三人は真夜中に出発して、千辛万苦して南下されたのである。
真のお母様は、当時の状況について次のように回顧された。
母方の叔父が軍隊にいる時、おばあさんがその叔父にとても会いたいと言うので、おばあさんと大母様と私の三人で、叔父にちょっと会いに行ってくると言って南下したのですが、仕方なくその時からずっと南にとどまるようになりました。叔父は再び北に行こうとしたのですが、状況が思わしくなく、行けませんでした。
当時、真のお父様は、平壌のキリスト教団と共産党当局との共謀の中で、一九四八年二月二十二日、共産警察によって連行されたのち、興南の監獄に投獄され、まだ獄苦の路程の中にあった。そして、一九五〇年十月十四日に出所なさったのち、平壌に帰還され、十二月四日に南下路程を出発された。
したがって、天は、遠からず展開する朝鮮半島の情勢を予測し、それに備え、「再臨主が南にいる」という名分のもとに、大母様一行の南下路程を促したと考えられる。
折しも、洪順貞氏が南で軍隊に服務中であった事実や、聖主教の鄭錫天氏の家族が先に南下していたことも、南下の道を出発させる現実的な動機付けの役割を果たした。天の摂理は、これほどまでに奥妙に、かつ立体的に進められたのである。
こうして、三人が出発してから数日が過ぎ、とても苦労しながら三十八度線を越えたばかりの時だった。真のお母様は、
「もう全日成を称賛する歌は歌わなくてもいいのでしょう? 南韓の歌を歌うわ」
と言って、突然歌を歌われた。
その時、南韓の軍人たちが、南下してくる人の気配に向かって射撃をしようと構えているところであったが、その歌声を聞いて銃口を納め、一行を温かく迎えてくれた。
「こんなにかわいい娘さんを連れてくるのに大変だったでしょう」
と言いながら、思いがけずソウルに行く旅費までくれた。南下の道すがら、幾多の困難があったが、そのたびに天がこのように保護してくださったのである。
一行は、再臨主に会おうという願いを込めて、時折、途中で敬拝を三拝捧げた。真のお母様も、三歳の時から腹中教の敬拝式に参加していたので、南下する路上で一緒に敬拝なさった。そのようにしながら、仁川港を通ってソウルに到着し、
「洪順貞を捜すには、どうしたらよいでしょうか」
と祈祷を捧げると、偶然にも大通りの道端で弟の友人に出会い、案内されることになった。その時、弟は、ソウルの龍山にある三角地の陸軍本部に勤めていた。弟は急いで部下の下士官に孝昌洞に部屋を用意させ、それからは一緒に過ごされた。
この時、真のお母様は、孝昌初等学校に入学された。混乱の時代だったが、真のお母様は、あちこち歩き回られ、人のお使いもしながら、たくさんの人たちから愛され、かわいがられながら過ごされた。
真のお母様は、その時期のことを次のように回想された。
趙氏おばあさんは私といつも一緒にいらっしゃったのですが、おばあさんと通りを歩くと、人々が私のことを、とてもかわいいと言って、誰もがかわいがってくれました。それで、他の人たちはあまり出歩くことのできない時期だったのですが、私はあちこち歩き回りながら、お使いもたくさんしてあげ、たくさんの愛を受けました。南韓に下ってくる過程でも、幼い女の子だった私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
二 戦時避難生活と大邱での生活
そのような中、時を待つことなく、北韓共産軍の不法奇襲南侵によって、六・二五動乱が勃発した。一九五〇年六月二十六日、甕津半島の国軍(南韓軍)の撤収に引き続き、議政府の戦闘でも国軍が敗れた。そうして翌日の夕方には、ソウル東北方面の彌阿里峠で敵味方が識別できないほどの肉薄戦が行われ、その混乱に乗じてソ連製の戦車部隊が、彌阿里峠と母岳峠を越えて、ソウルに侵入した。李承晩政府は、とうとう大田に後退することになった。国軍は、全面的に退却を始め、漢江を渡江して撤収を完了するやいなや、翌日に、北韓軍の漢江渡江を遅らせようとして漢江橋の爆破を計画した。
その一方で、政府は依然として「ソウル死守」を叫び、国民に安心するように繰り返し公言していた。このような急迫した状況の中で、大母様の弟・洪順貞氏は漢江橋爆破計画の情報を入手し、軍用スリークォーター(小型トラック)に乗って、急いで三人のもとに駆けつけた(三人の住んでいた孝昌洞は漢江の北側であった)。荷造りをして車に乗って出発し、橋を渡るやいなや、弟の促すままに急いで車から降りて身を伏せると、たちまち橋が爆破された。一九五〇年六月二十八日、明け方三時のことであった。
漢江人道橋は予定よりも早く爆破され、その日に橋を渡っていた数百人は、漢江に落ちて死亡。政府を信じて避難しなかったソウル市民の八〇パーセントは、孤立した情況となり、驚愕し、激しく憤った。そのような危機一髪の状況のもとでも、大母様の一行に対する天の加護は格別であった。また、この時期の弟・洪順貞氏の貢献もまた、大いに記憶されるべきである。
真のお母様は、避難時代の逸話を次のように回顧された。
私が八歳(数え)の時、六・二五動乱が勃発しました。戦争でソウルから避難することになったのですが、その時、叔父が大変大きな力添えをしてくれました。大母様は、ひたすら主に会うことだけを考えながら、絶えず精誠を尽くしていらっしゃったのですが、軍隊にいる叔父が、漢江の橋が爆破されるという情報を入手したのです。それである日、小型トラックに乗ってきて、祖母と大母様と私を乗せて南側に避難したのです。漢江の橋を渡るときに、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがままに、橋を渡るやいなや降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋がボーンと爆発したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの人々や軍人たちは川の中に落ちて死にましたが、幸いにも私たちの一行は、叔父の助けで命を取り留めることができました。
私と同年代の韓国人は、ほとんどが戦争や厳しい受難時代を体験していますが、私の場合、すべてにおいて天が常に保護してくださったので、無事に過ごすことができました。六・二五動乱の時も、大きな事故もなく無事に過ごすことができました。避難中に私が風邪を引いたときには、大母様が、せきを和らげるために飴を下さり、けがをしたときには、サボテンに御飯をすりつぶして傷口に塗り、膿を出させて傷を治してくださいました。今でもそのことが思い出されます。
その後、大母様の一行は、全羅道の軍人家族避難収容所を経て、九・二八ソウル収復(奪還)後に帰京し、空き家になっていた家屋(日本人が日帝時代に住んでいた家)で過ごされた。そうして、五十万の中国共産軍の大軍が北に介入し、ソウルが再び共産軍の手中に陥るようになった一九五一年の一・四後退の時、一行は再び避難の道を出発した。軍人の家族であるという理由で、他の避難民たちよりも先に特別列車に乗ることができた。列車に乗ってソウルを出発し大邱で降りた。当時、ソウルから大邱に移った、陸軍本部に勤める弟・洪順貞氏の近くに住みながら、先に大邱に来て住んでいた鄭錫天氏の家族に会うことができ、以後四年間、一緒に過ごされた。
事実上、鐵山の聖主教は、日帝の宗教弾圧と解放後における共産党の宗教抹殺政策によって、決定的な打撃を受け、その役事の中心である金聖道夫人も、獄中で苦労した末に他界していた。しかし、残された家族たちは、金聖道夫人を中心としたみ旨は必ず成就すると信じて、家庭でひそかに礼拝を続け、南韓に引っ越し、家庭礼拝によってその命脈を保っていたのである。
本来、その家庭は、経済的にも豊かで、何不自由のない暮らしをしていた。長男の鄭錫天氏は、宣川(平安北道)で中学校を卒業してから、満州に行って農場と精米所を営み、「聖主教団」の登録の際には、法的な代表となり、牧師となる按手も受けていた。鄭錫天氏は、母・金聖道夫人の他界した直後、一九四四年六月に、財産の一部を整理し、慶尚北道漆谷郡若木面のソヂン鉱山を引き継いで営むようになった。初めは、金鉱で鉱脈を掘り当てるなど、十分な利益を得たが、だんだんと経営が悪化し、故郷からの資金調達も厳しくなって、結局手を引いた。
その後は、大邱の東城路に家を買って、米と石油の商売を始め、もともと事業に経験があったので、多くの利益を上げた。大邱で六・二五動乱を経験しながら、その事業を続けていた矢先、鄭氏の家族と大母様の一行の出会いが実現したのである。
大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし
「私たちが北にいるとき、新しい主や許浩彬夫人を通して恵みをたくさん受け、大きな役事がありました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、その道を探すために、私たちは集まって、頑張って祈りましょう」
と言って心を合わせた。鄭錫天氏の姉(鄭錫温氏)にも釜山から来るように伝え、数人の食口が集まって、熱心に祈り始めた。そのような中で
「今は熱心に祈祷ばかりしてはいけない。生食(煮たり焼いたりしないで生で食べること)をしなければならない」
という啓示が下りた。
それで大母様は松の葉を召し上がり始めた。蒸して食べれば平気であるが、生のままで松の葉を食べると歯がとても痛かった。キムチの汁も、塩だけを振りかけて召し上がった。
大母様は当時の状況を回顧しながら、次のように語られた。
私は、真のお母様を小学校までは勉強させなければならないという責任感を感じ、大邱で小さな商売を始めました。キムチの汁と松の葉と豆だけを食べて、それも一日に二食だけ食べながら商売をしたのです。気力は多少衰えましたが、精神的にはかえってしっかりしていました。母が来て、「気でも狂ったの! そんなものだけ食べて、どうして商売ができるの。奇跡だわ」と言われました。それでも私の心は平安でした。そのように三か月ほど商売をしました。聖主教や腹中教を通して信仰してきた私は、無条件に信じなければならないことだけを知っていました。知恵というものは知りませんでした。
三 済州道・春川時代
大母様は、常に真のお母様が純粋に育つように気を遺われた。大邱の小学校に通っておられたとき、だんだんときれいになり、勉強もよくでき、人気も上がって注目の的になってくると、より貞潔に育てようとして、一九五四年に、済州道の西帰浦に渡っていかれ、そこで鄭錫天氏の弟・鄭錫鎮氏などと共に九か月間を過ごされた。
済州道に行かれたことについて、大母様は次のように証言された。
母から「このように信仰していってはならない」と言われて、済州道に行きました。真のお母様も転校させました。小学校さえ卒業したら、そのあとは道人にしようと思っていました。私は、「地上天国は韓国の地にでき、メシヤは韓国に来られる」という啓示を受けていたので、真のお母様がメシヤに出会うまでは、どこの誰にも誘惑されてはいけないという思いで、真のお母様を育ててきました。言い換えれば、遊びざかりの年ごろの娘を島に連れていって、霊的な訓練をしたのです。私はお母様を過酷に訓練しました。そのような光景を見て、天もお母様に同情せずにはおられなかったことでしょう。
その時、真のお母様は、西帰浦の新孝初等学校(現・孝敦初等学校)五学年に転校された。大母様は、押し麦を水につけてふやかし、大根キムチと一緒に生食をされた。火食(調理した食事)をする真のお母様のためには、粟御飯を炊いて食べさせた。それでいて、近所の恵まれない人たちには、学生服やワイシャツなどを安くしてあげた。
それまで済州道に行って暮らしていた鄭錫鎮氏(金聖道夫人の次男)は、祈祷中に、「私が飲んだ杯をあなたも飲まないか」という主のみ声を聞き、「飲みます」と答えて、十字架にかけられたイエス様のように、自ら進んで十字架にかかった。
後に、大母様が、鄭錫鎮氏が十字架にかかっていた所に行って、茨の冠の埋められた場所を見ると、「私は天の先発隊として立ち上がる」と書かれた紙があった。
大母様は、「この方はイエス様の心情の痛みを体恤するために、十字架にまでかかったというのに、私はこの程度の生食しかできないのか」と思えてきて、生食をしながら、かわいそうな農民の苦労を味わうために、麦畑を耕し始めた。精麦にキムチの汁だけ食べて仕事をしていたので、足もむくみ、本当に大変であった。荷物を背負って行く人があれば、家まで荷物を背負ってあげた。その人たちは
「世の中にこんな素晴らしい人がいるのか!」
と言ったそうである。伝道はしなかったが、実践によって彼らに模範を示したのである。
大母様の母、趙元模おばあさんは、息子夫婦が立派な家で豊かに暮らしていたにもかかわらず、「済州道に来る」とおっしゃり、大母様がお連れして、共に過ごすことになった。火食をする人が一人増え、荷がさらに重くなった。御飯を炊くために薪も取ってこなければならなかった。こうして、いろいろなことに無我夢中になって過ごしているうちに、いつの間にか日も暮れるというありさまであった。そのような生活によって、肉体はとても痩せ衰えたが、精神だけはとてもしっかりとしていて、明澄であったという。
大母様の弟・洪順貞氏は、大邱にいた時期に蔡佳筍氏と婚姻した。大母様が商売をするというので、資金を補助してくれたりもしていたが、途中で江原道の春川に発令を受け、そこで勤めていたために、三人が済州道に行ったという事実をあとで知り、とても心配になって、春川に来るように二度手紙を送った。大母様は、天の啓示の中で何か意味があることを感じ、弟の勧めによって春川に移られた。そうして春川の孝子洞にある弟の家に近い薬司洞に部屋を見つけ、住まわれた。
大母様は当時の様子を、次のように回顧された。
九か月を過ごしたところで、弟から、母を連れて早く本土に来るようにという手紙が来ました。初めは行きませんでした。すると、すぐに連れて来るようにという手紙が再び来たのです。やむを得ず「本土に行かなければならない意味があるようだ」と思って、済州道から出てきました。今、考えてみると、その時、済州道から出てきて良かったと思います。その時、出てこないでいたら、済州道でそのまま暮らしていたからです。弟が私のために役事してくれたというわけです。私は春川に行きました。当時、弟は春川で補給倉長をしていました。私は春川に行ってからも、商売を始めました。
真のお母様は、一九五五年二月付けで春川市薬司洞の風儀初等学校に転校され、翌一九五六年三月二日に、その学校の第十一回生として卒業された。真のお母様の生活記録簿には、
──非常にしとやかで親切であり、どこか気品の高い様子が感じられ、級友の中で最も女性らしい。
と記録されており、卒業優等賞も受賞されている。また、卒業後の状況欄には、
──家庭貧困により家事手伝い。
とあることから、当時の困窮した生活の実情がうかがわれる。
忠心奉天の道 目次へ
第二節 夢に描いた主にお目にかかって
一 鄭錫天氏家族の入教
鄭錫天氏の証言によれば、南で過ごすようになってからも、胸の内で常に母親(金聖道夫人)の遺言が離れなかったという。その遺言は次のようであった。
──私が神様から任されたこのみ旨を成就できないならば、他の人を通してでも、それを成し遂げるであろう。代わりにそれを成し遂げる者も、私のように淫乱集団と誤解され、迫害に遭い、獄中で苦労をするであろう。そのような教会が現れたならば、真の教会であると思って訪ねていきなさい!
したがって、母の代でみ旨が成し遂げられなくても、次の代、もしくはその次の代において、必ず成し遂げられるものと信じていた。そのため、熱心に家庭で礼拝を捧げながら、名のある復興会にも参加した。特に、鄭錫天氏とその姉・鄭錫温氏は、どこでみ旨が成就しているかを尋ね求める中、一九五五年になり、より一層焦る思いで、米一斗と塩一握りを持って山中で祈祷をしようと計画し、準備しているところであった。
そんなある日、鄭錫天氏は、新聞に報道された退学事件の記事を目にした。「統一教会に行くという理由で、梨花女子大に通っていた十四人の女子大生が退学処分を受けた」という記事であった。何かが成就しつつあることを直感した鄭錫天氏は、釜山にいる鄭錫温氏に手紙を送り、この事実を知らせた。それで、姉と鉄道局に通う娘が、新聞の切れ端を持って無条件に上京した。新聞に出ているとおり、ソウル市中区の奨忠洞付近で統一教会を捜し回った(当時の本部教会は奨忠洞にあった。同年十月に龍山区青坡洞に移転)。警察官に尋ねてみたところ、すぐに見つけることができたという。
当時、教会は、梨花女子大生の親たちが訪ねてきたりして、落ち着かない雰囲気であった。真のお父様には会えず、姜賢實伝道師に会い、釜山教会の紹介を受けて、釜山に帰った。そして、大邱にいる弟の鄭錫天氏にもこの事実を知らせた。鄭錫天氏はすぐに、大邱にある統一教会を訪ね、李耀翰牧師から一週間の原理講義を受けた。その時、原理のみ言は聖主教で主張していたことよりも具体的で、聖書的な面で、はるかに先んじていると感じられたという。そうして、入教を決心したその日が一九五五年六月二十五日であった。鄭氏家族の入教は、当時の迫害時代の教会食口にとって、この上ない大きな励みとなった。
しかし、入教して十日後の七月四日に、「真のお父様の投獄」という衝撃的な事件が起きた。姜賢實伝道師が大邱に来てこの事実を知らせ、李耀翰牧師もまた身を潜めなければならなかった。鄭錫天氏は、先に来ていた食口たちの話す内容を聞いて、いくらかのお金が必要であるという事実を知り、上京する李牧師を通して献金もした。
三十人余りの大邱教会の食口たちと共に、心を一つにして祈祷生活をしながら、じれる思いで知らせを待っていたが、それ以上待ちきれなくなって上京し、西大門刑務所にいらっしゃる真のお父様に面会した。真のお父様は、鐵山の「新しい主」派に関する事実をご存じで、様々な内容を尋ねられながら、慈しみ深く接してくださった。真のお父様は、ご自身の苦痛や恥辱を面に表さず、残っている食口たちの信仰を心配しておられた。以前、真のお父様は、釜山にいた時代にも、金元弼先生などの食口たちに、「新しい主」派についての話をしながら、「金聖道おばあさんの子孫が南韓に来ているそうだから、捜し出さなければならない」と語られたという。
真のお父様は、十月四日に無罪釈放された。同月二十九日に、復興会の激励のために大邱に来られ、十一月十二日にソウルに行かれるまで、大邱に滞在された。その時、東城路に住む鄭錫天氏の家を自ら訪問し、食事をされ、祈祷もされた。翌年春にも、真のお父様を迎える恵みを受けたという。
それから一九五六年六月八日、真のお父様のみ意に従って、ソウルに移った。青坡洞教会(前本部教会)からあまり遠くない東子洞に家を借り、真のお父様に毎日のように侍りながら、それ以後、み旨の道に献身するようになった。特に、草創期の教会における経済面で大きく寄与し、貢献した。
鄭錫天氏は自分の献身的信仰の動機について、次のように語っている。
私はみ旨のためにすべてを捧げて何もなくなれば、お父様が下さるという信念で生きてきました。聖主教では牧師という肩書きをもっていましたが、入教後に真のお父様は長老という職分を下さいました。聖主教での信仰をすべて捨てることができたのも、統一教会が聖主教以上の教理と思想をもっていたからです。そして、私の教団で唱えていた主張が、統一教会で成し遂げられつつあることを信じたからです。ですから、私の信仰はさらに徹底しましたし、根深い信仰を維持したのです。
二 夢に描いた主にお目にかかって
先に言及したように、真のお父様が西大門刑務所から出所されてから大邱に来られた時、すなわち一九五五年の十一月ごろ、春川に住んでいらっしゃった大母様は、大邱の鄭錫天氏から手紙を受け取った。
──聖主教のような教会がソウルにあります。その先生が今、大邱に来られて話をされるので、早く聞きに来てください。
しかし事情があって、大母様はすぐには行けず、十二月に大邱に行かれた。
その時、天が次のように夢を見せてくれた。
とても大きな川が一つ現れた。東の方から流れるその川の中には、白い小石が敷き詰められていた。すると、燦爛とまばゆい光を放つ一隻の亀甲船が現れた。櫓を漕ぐ音を聞いていると、白い龍が尾を振りながら、船のふたを開けて現れ、大母様の前に泳いできて、大母様を歓迎し、大母様の胸に抱かれるのであった。鄭錫天長老が立派な教会があると言うから、行こうと思っているのに、私のような足りない者の所に来て歓迎するとは、不思議だなあと思っていると、そこに新しい主、金聖道夫人が現れ、「ああ、錫鎮は婚約はしたけど結婚できなかった。どうしよう」と言って、足を踏み鳴らした。大母様は、「新しい主は変だ。私は今、立派な教会を訪ねていこうとしているのに、私のためには心配なさらず、鄭錫鎮氏のことばかりご心配なさる」と思った。
大邱に行くと、鄭錫天氏が次のように語った。
「やっと私たちは主を見つけました。腹中教で服を準備して迎えようとしていたその方を、ついに見つけたのです。その方は大邱に来られて、み言を語られました。でも少し遅かったようです。み言を終えられて、ソウルに行かれました。腹中教での教えと全く同じことを教えます。その方は美男子の好青年で、歌もうまく歌うし、映画も見に行くし、言葉も巧みです」
そのような人間的な面があることに、大母様は多少意外さを覚えたが、どういうわけか心は確信に満ちていた。「今、ソウルに行けば、慕い続けてきた方にお会いできる」という思いに、うれしくもあったが、どういうわけか、しきりに足りなさばかり感じられた。これまで愚かに苦労ばかりしながら歩き回ったことに、自責の念を覚えた。知恵深く考えていれば、大邱で四年間も暮らしていたのだから、その間に統一教会を捜すこともできたはずなのに、それができなかったからである。済州道に行っても、愚かに生食をしながら苦労ぽかりし、捜すべきお方を捜そうとしなかったことが、しきりに悔やまれた。そう思うと、どれほど足りなく申し訳ないか知れなかった。
このように心の準備をしていると、その日の夜、夢に、一対の黄金の龍がソウルの方に向いてうつ伏せになっているのを見た。大母様は心の中で次のように思った。
「大邱に来るときは白い龍を見だのに、大邱を出発するときは一対の黄金の龍を見るなんて! これは本当に不思議だ」
大母様は、さっそくソウルに行き、青坡洞の前本部教会で真のお父様にお目にかかって、ご挨拶を申し上げた。すると驚いたことに、その方は、腹中教の時代に夢の中で二度お目にかかった正にその姿、夢に描いていた主の姿であった。あまりにもおそれ多く、身の置き所がなかった。
大母様は、限りない感激と恵みの中でみ言を聞いた。ところが、真のお父様は大母様を「お前、お前」と呼び掛け、「お前ごとき者に何が分かるか!」と言わんばかりに見向きもされなかった。一緒に来た人たちには語られても、大母様には見るふりもされなかった。心の中で大きな葛藤が起きた。北韓にいるとき夢の中で出会ったお方であり、今はもう、死のうが生きようが従って行くべきお方であり、命が尽きても仕えていくべきお方であるのに、あのように立腹され、どうしたらよいのか分からず、目の前が真っ暗になった。申し訳なくもあり、死ぬべきか生きるべきかも分からず、困り果てた。
それでも大母様は、
「お父様、どうすればよいのでしょうか。先生があのように立腹されていらっしゃるのですが、どういたしましょうか。私はどんな罪を告白すべきでしょうか」
と祈り続けた。しばらく祈っていると、
「どんなことがあってもこの峠を越えなさい。そうでなければ、あなたはイスカリオテのユダになる」
と天から教えられた。
クリスマスの時に、とうもろこしを分けてくださる際にも、ほかの食口たちには優しく分けてくださるのだが、大母様の前に来られると、ぱっと投げられた。ほかの人が統一教会に入ってくると、一対一で夜通しみ言を語ってくださり、とても喜ばれ、愛してくださるのに、大母様にだけはそのように対されなかった。
かといって、「出ていけ」とはおっしゃらなかった。その時、もし「出ていけ」とまで言われていたら、首をくくって死ぬような思いだったであろう。「出ていけ」とまではおっしゃらなくても、ひどい蔑視と冷遇をされた。それでも、すべてをぐっとこらえ、「峠を越えなさい」と教えられていたので耐え抜いた。食口たちがいれば、また入っていって向かい合って座ったりもした。そのようにして一週間が過ぎた。胸は燃え、唇は裂け、心は焦るばかりであった。
一週間後、真のお父様が聖日の説教をされた。
「昔イスラエル民族が、真の父として来られたイエス様を迎え入れることができず、十字架上で亡くならせた罪がいかに大きいことか!」
と語られながら、イエス様の心情について説教をされた。新イエス教会、聖主教、腹中教に通いながらたくさん泣いたが、この時ほど骨身にしみるように泣いたことはなかった。真のお父様が説教を始めてから終えるまで、大母様はひたすら泣いた。泣いても泣いても心が晴れなかった。あまりにも呆気に取られ、心が痛み、悔しく、とても言葉では言い表せなかった。
説教をなさる真のお父様は、あたかも大母様だけを見て語っているかのようであった。
しかし心は焦った。こうして説教が終わってから、食口たちがまだみな出ていかないとき、鄭錫温氏が、大母様の名前を出さずに
「先生、説教の始めから終わりまで、痛哭なさっていた方がいます」
と申し上げた。すると、その時初めて真のお父様は
「うん?名前は何というのか」
とおっしゃった。その言葉を聞いて、「やっと助かった!」という気がした。それから部屋に入ってご挨拶すると、
「うん、そこに座りなさい」
と真のお父様はおっしゃった。その慰めのお言葉が、どれほど有り難くおそれ多かったことか知れない。感慨無量であった。
その後、大母様は春川に行って、開拓伝道をされた。
三 真のお母様を真のお父様に導く
大母様の公式的な入教日は、一九五五年十二月十五日である。三月に先に入教していた南宮哲氏は、大母様が親子で入教したことを契機として、翌年一月二十九日、春川市の薬司洞にある大母様のご自宅で、聖日礼拝を捧げることにした。それが春川教会の設立となった。その一、二か月後、春川教会は、引導者である南宮哲氏の雲橋洞の自宅に移され、一九五六年十一月十六日、正式に中央から派遣された李鎮泰伝道師を、二代目の引導者として迎えた。
真のお母様は、一九五六年三月、初等学校を卒業して満十三歳になられたころ、大母様から次のような話を聞かれた。
「腹中教の時から私たちが敬拝を捧げてきたお方が、ソウルに現れました。敬拝を捧げに行きましょう」
真のお母様は、幼いころから信仰においては絶対的に従順であった。大母様は、真のお母様を連れてソウルの青坡洞教会に行き、真のお父様にご挨拶を申し上げた。
真のお父様は、真のお母様から謙虚な敬拝を受けたあと、大母様に「誰か」と尋ねられた。
「娘です」
「こんなにきれいな娘がいたのか。元気に学校に通っているのか」
真のお父様は、目を閉じて瞑想したあと、ささやくように名前を尋ねられた。
真のお母様は「韓鶴子と申します」と答えられた。
真のお父様は、驚いたことに「韓鶴子が韓国の地に生まれた……」と三回も繰り返してつぶやき、祈祷をされた。
「神様! 韓鶴子という、こんなに素晴らしい女性を韓国に送ってくださり、感謝申し上げます」
なぜうちの娘のことを三度も語られるのだろう、と大母様が不思議に思っていると、真のお父様は次のように語られた。
「韓鶴子、これからは犠牲的に歩むんだよ」
真のお母様は、その当時の状況を回顧しながら、次のように述懐した。
真のお父様はその瞬間瞑想され、ほとんど独り言のように言われたのですが、私にはそのように聞こえました。その時、統一教会の教主であられるお父様が、私の将来に関して特別な啓示を受けているような感じがしたので、多少不思議には思いました。その当時、私は江原道の春川に住んでいて、お父様はソウルの教会本部にいらっしゃったので、春川とソウルという距離を隔てて、遠く離れていました。