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実録・洪順愛大母様の生涯と信仰
忠心奉天の道
第四節 平壌・腹中教時代、再臨準備のための精誠基盤の継承
一 許浩彬夫婦と平壌の聖主教会
許浩彬夫人は、夫・李一徳氏と共に、平壌市西城里で聖主教の平壌教会を運営していた。李一徳氏は体格が良く、元は平壌でも名の知れたやくざであったが、信仰の道に来てからは、絶対的に従順に従う立派な男性になった。その夫婦は、鐡山を行き来しながら、金聖道夫人から恵みをたくさん受け、大きな役事を起こすこともあった。
彼らはある日、「家をすべて売って、新しい主の所に入って暮らせ」という天の指示を受けて、家族をみな捨てて鐡山に来た。しかし、金聖道夫人は
「そうではありません。新しい主の時代は、家庭を破綻させて信じる時代ではありません。家庭はそのまま守りながら、アダムとエバの淫乱罪とイエス様を殺した殺人罪を悟り、今後、韓国がエデンの園になるということだけを知って闘っていかなければならないのです。家庭を捨てて信仰すれば、すべての人に不徳になるから、そのようにしてはいけません」
と語られたという。
またある日、許浩彬夫人は、祈祷中に「四十日間、集会をせよ」という啓示を受けた。しかも、その内容は「創世記によれば、神様は果物だけを食べるように語られた。いつ肉食や火食(火を通した食事)をせよと語られたのか。よって、一食につきりんご一個、一日にりんごを三個だけ食べて、四十日間、力を尽くして祈りなさい」というものであった。
それで六十人余りの平壌教会の信徒たちは、一日にりんご三個だけを食べて、四十日間祈祷をした。当時、祈祷というのは、みな輪になって座り、目を閉じて、「新しい主の役事!」と叫ぶものであった。それは、新しい主が役事して、根本的な罪である淫乱罪とイエス様を殺した殺人罪を洗い清めてくださいという意味であった。
信徒たちは、初めは小さな声で「新しい主の役事、新しい主の役事」と言っているが、繰り返すうちに声がだんだんと高まってきて、天地が震えるほどに、みな手をつないで輪になって叫んだ。ある人は、尿意を催すのも忘れ、漏らしながらもそのまま「役事!」と叫び続けた。六十人余りの人たちが身を動かしながら、「役事、役事!」と叫びまくるので、近所の人たちは「一晩中、何か大変なことが起きて、平壌全体が揺れ動いたと思った」と言いながら、のぞきに来たりした。
解放(終戦)のころ、許浩彬夫人に霊的な役事が起きた。
「今や、すべての人々は赦され、新たな生を得て復活します。家に帰って、寝ている家族を起こして連れてきなさい。家に行けない人は、そのまま『役事』と叫びなさい」
信徒たちは
「早くここに参加しなければ大変なことになる」
と言って、転んでどこをけがしたのかも分からず、走って子供たちをみな連れてきた。
李一徳氏と許浩彬夫人は、
「新しい主によってエデンの園が復帰されると思っていたが、その方が亡くなられたので、これからは私たちが深い境地を掘り下げていこう」
と言って一緒に熱心に祈り始めた。
金聖道夫人の写真を壁に掛け、朝夕に敬拝を捧げながら祈ったが、彼らは夫婦仲があまりにも良すぎて、夫婦関係を断つことが容易ではなかった。ある日、祈ろうとしたとき、二人の愛が高まって欲情がわいてきた。夫の李一徳氏は台所から包丁を持ってきて、
「二人のうち、どちらか先に情がわいてきたほうのものを切ろう」
と言った。それ以前は、何度決意しても失敗に終わっていたが、包丁を持ってくると、感情が治まった。
「新しい主まで亡くなって、どんなことがあっても私たちが成功しなければならないのに、これでもいいのか!」
と言って、包丁を持ってきて祈ったところ、その時初めてサタンが身動きできなくなったという。そのようにして勝利してからは、李一徳氏はひたすら従いながら、祈祷で深い境地を掘り下げていった。
李一徳氏の家は部屋が二つあったが、一つは聖主教の礼拝堂に、一つは生活する部屋に使っていて、礼拝堂に来て祈るには適した環境であり、彼らは三か月間祈った。
ある日の明け方、許浩彬夫人が伏して祈っていたところ、突然おなかに動きが起こって、ぱっと立ち上がった。すると、イエス様が、許浩彬夫人のことを「お母さん!」とお呼びになるのであった。
「私は母になれません。私のような卑しい女が、どうして主の母になることができましょうか」
許浩彬夫人は丁重に断った。
「では、何と呼べばいいのか」
とイエス様がおっしゃるので、許浩彬夫人は答えた。
「率直に申し上げますが、私がこの世で一番好きなことは夫婦生活です」
「そうか、あなたの言うことはもっともである。では、私のことを『先生』と呼びなさい。私はあなたのことを『奥様』と呼ぼう」
その時から、イエス様を「先生」とお呼びし、許浩彬夫人は「奥様」と呼ばれるようになり、イエス様が直接、許浩彬夫人の体に臨んで、霊的な役事をし始めた。イエス様が直接に語ってくださるが、霊通とはいえ、それほどまでにぴったり当たる霊通はなかった。常にイエス様が共にあって、今後起こることや、イエス様ご自身に関することを語ってくださった。このように、腹中から啓示が臨み、また「再臨主が腹中から誕生する」ということもあって、許浩彬夫人を中心としたこの役事は、いわゆる「腹中教」と呼ばれるようになった。
二 許浩彬夫婦の摂理的立場と腹中教の使命
摂理的に見ると、金聖道夫人はエバ型、許浩彬夫人はマリヤ型であった。そして夫の李一徳氏は、ヨセフの立場の天使長型であった。彼は、復帰されたエバの立場である妻の前に絶対服従することによって、天使長の失敗を地上において実体的に復帰すべき立場であった。男性として到底できないことも、やり遂げなければならなかったのである。
許浩彬夫人は、夫の李一徳氏を、様々な方法で訓練した。のちに大母様とその母親が腹中教に入ったとき、李一徳氏は、「私はその訓練を受けているときに死ぬところだった」と話したという。
ある日、許浩彬夫人は、李一徳氏に向かって、
「天の逆賊!」
と言いながら叱責した。それでも彼は、そのようなことには気にもかけずに絶対的に従った。
「はい、はい!」
と言いながら言われたとおりに行動し、朝夕に主と奥様に敬拝を捧げた。
またある時、許浩彬夫人は、陰暦の十一月に
「麻の服を着て出ていって、乞食生活をせよ」
と言って追い出した。一銭のお金も食べ物も与えず、出ていって乞食生活をせよというのである。それでも李一徳氏は、
「はい!」
と言って、絶対的に従って出ていった。麻の服を着て出ていったが、凍え死ぬことはなかった。許浩彬夫人は、一週間ほどしてから人を送り、「もういいから帰ってきなさい」と伝えて、帰ってこさせたという。
またある時は、梅雨の季節で雨がざあざあと降る中を、
「子供たちを連れて出ていけ」
と言った。家には、多くの子を早く亡くして兄と妹だけが残っていたが、許浩彬夫人は、
「みなサタンの子だから見たくない。私は今、主に侍って暮らしているのに、お前たちのような逆賊がいてはいけない。すぐに連れて出ていきなさい」
と言うのであった。それでも李一徳氏は、
「はい!」
と言って、子供たちの手首をつかんで、雨がざあざあと降る中を出ていき、平壌市内を歩き回りながら乞食の生活をした。許浩彬夫人は、それから一週間ほどして、人を送って帰ってこさせた。
李一徳氏はこのように妻の命令に絶対的に従った。そうして二千年前のヨセフの立場を完全に蕩減復帰したのである。許浩彬夫婦は、ヨセフとマリヤがイエス様を敬うことができなかったという、イエス様の心に残った恨みを解怨し、喜びと栄光の再臨摂理を準備しなければならなかったのである。
イエス様がある日、許浩彬夫人に臨み、
「あなたは春香の話を知らないだろう。私が昔話を一つしてあげよう」
と言って、『春香伝』に関する話をずっとしてくださった。そして、一番最後に、
「あなたも春香のように固く貞操を守って、最後まで歩みなさい」
とおっしゃった。許浩彬夫人は、
「そうですか。それなら私も絶対に従ってまいります」
と答えた。
また、イエス様は、ユダヤの国に来られたことについて語ってくださった。イエス様がベツレヘムの飼い葉桶で誕生なさったとき、マリヤは赤ん坊の産着も準備できず、かぶっていた帽子にくるんで抱いた、ということであった。イエス様は
「もし私が神の子として来ていなかったら、あの時、凍え死んでいたことだろう」
と嘆かれた。
イエス様は、言うに言われぬ冷遇と蔑視を受け、食べ物もろくに食べられず、着るものもろくに着られなかったと語られた。許浩彬夫人はその話を聞いて、
「主にはそのようなご事情があったのですか」
と大声で痛哭した。
ヨセフは、イエス様が生まれたばかりの時から「いったいこの子の父親は誰なのか!」
と言って、マリヤを悩ませたという。継子と言われて蔑視される中で赤ん坊を育てるので、マリヤは思う存分に、乳を飲ませることもできなかった。教育も、イエス様はまともに受けることができなかった。それでも、イエス様がヨセフの大工仕事の手伝いをしたのは、天の大きな使命のゆえであったという。
イエス様は次のように語られた。
「新しい主・金聖道は、暗闇のこの地において根本問題を知り、茨の道のように険しい道をかき分けて歩んだ。……新しい主が『イエス様がなぜ婚約したマリヤとヨセフとの間に来なければならなかったか、祈って調べてみなさい』と言わなかったか。婚約したヨセフとマリヤの間に私が臨んだのは、エデンの園でアダムとエバが堕落することによって成し遂げられなかった天の父のみ旨を成し遂げるためだ。マリヤとヨセフが、私の言うことに従っていたならば、その時、み旨がすべて成就するはずだったのだ」
許浩彬夫人はその話を聞いて、それまで解けなかった問題がすべて解決し、号泣した。
新イエス教会から聖主教を通過してきた彼女の道は、確かに、多くの苦労、涙の祈りがあり、身を顧みずに、家財もすべて売り払って捧げ尽くしてきた信仰の道ではあった。けれども、イエス様の生涯のいきさつに触れたとたん、そのあまりの不憫さゆえに、痛切に働哭したのである。
大母様をはじめとする腹中教の信徒たちも、許浩彬夫人からその話を聞き、「まことにそうだ」といって共感するとともに、その不憫で悲しい事情に触れ、大声で痛哭しながら、多くの恵みを受けたという。
イエス様はすべてを細密に教えてくださった。
「私は、十五歳の時にマリヤに天の大きなみ旨について語った。私はアダムとして来たのであり、あなたは復帰されたエバ格であると。だから、二人で神様の大きなみ旨を成し遂げていこうと語ったのである。ところが、それをマリヤが信じなかった。その時の心情は何とも形容し難い。それでも私は、じっと我慢して家庭から飛び出すこともせず、二十五歳の時に再びマリヤに語った。その時、マリヤが私の言葉に従い、ヨセフが後援していたなら、ヨセフは私の息子格に立っていた。そのような大きなみ旨を抱いて語ったにもかかわらず、マリヤは最後まで信じなかった。そこで、私はついに家庭を出たのである。その後、マリヤは私の事情を気にもかけず、カナの婚礼(ヨハネ二・1~11)では、ぶどう酒がないから何とかしてくれと私に頼んできた。その時、私はあきれて『婦人よ、あなたは私と何の係わりがありますか』(ヨハネ二・4)と吐露したのだ……」
このように、まともに食べることも、着ることもできず、み旨までも成し遂げられなかったイエス様の恨みの事情を、許浩彬夫婦は啓示を通して知って、激しく痛哭した。そして、おむつや衣服をはじめ、生涯に必要とされたすべてを準備して、その悲しみを解怨してさしあげようとしたのである。
三 親族の再臨準備のための精誠
腹中教は、イエス様の衣食住の生活環境一切を最高の基準で準備した。イエス様の生涯において、三日ごとに着替えられるように、洋服と韓服(韓国の民族衣装)をそれぞれ作った。布は韓国産の物を値切らずに買い、十二回洗って、きぬた打ちをした。服を作る前には、部屋をきれいに掃除し、ミシンは使わなかった。一度に三針以上縫うことはせず、一着を作り上げるまで立つこともしなかった。失敗をすれば、過酷な懲戒が下された。服の寸法は、その時ごとに天から告げられた。
イエス様の服作りが終わったのちには、再臨主のための服を作った。
イエス様は許浩彬夫人に、
「あなたたちは、今まで鐡山の金聖道おばあさんを再臨主だと信じていたでしょう。しかし、再臨主は男性です。大人になられた主が、今、暗行御史(王の命令により、ひそかに地方官の治績や非行を調査するために派遣された使者、朝鮮時代の官職)のように隠れて働いていらっしゃいます。これからは再臨主の服を作るのです」
という命令をされた。
初めの三年間は、再臨主の服を自分の親族だけで作り、多大なる精誠を尽くした。財産を捧げて準備しても、捧げ足りなくて悔やまれた。
「再臨主は、韓国に来られ、カッ(韓国の昔の帽子や冠のようなもの)をかぶり、パヂ(韓国の民族衣装のズボン)やチョゴリ(韓国の民族衣装の上着)を召されるので、すべて韓国の様式で準備せよ」
ということで、韓国産の綿と木綿だけで服を作った。一疋(=二反)の絹織物を買ってくると、数字を合わせて、十二回洗い、十二回きぬた打ちをした。何寸何分と寸法まで教えられ、そのとおりに作った。パヂ、チョゴリ、チョッキ、トゥルマギ(韓国の外套のょうなもの)を作った。
「この世の一国の王が持っている物よりも立派にせよ」というので、あらん限りの精誠を尽くして作った。自分の財産だけではいくらにもならないので、実家の母親を感動させて、代々に受け継がれてきた財産を売ったりもした。それに対して父親が反対したとき、実家の母親は「私たちは天の大いなるみ旨のために再臨主の服を準備しているのに、どうしたらよいでしょうか」と思いながら黙祷をしたという。
その後、反対していた実家の父親が他界すると、その時まで父親が売らせないようにしていたものをすべて売り払って、再臨主の服を作ることに捧げた。そのため
「あの家は今や滅びた。何代も受け継がれてきたものまで売り払ってしまうとは……」
と近所から悪口を言われたが、
「私たちは、人知れぬこの上ない大きな喜びをもって歩むのだから、人が何を言おうと心配はない」
と思って、親族だけで三年間、服を作った。
ある時は、「祝宴を開け」という指示があった。「米を十二回とぎ、十二回洗いなさい」というので、そのとおりに精誠を尽くして十二回といで洗った。「サタンの精米所で挽かずに、家で挽きなさい」というので、家で石臼で挽き、花紋を押した餅やもち米の餅を作って、お膳に並べて敬拝を捧げた。
時々、李一徳氏に役事が下りることもあった。ある時、
「今晩、主にお食事を差し上げなければならないので、商売をして、お金を準備してきなさい」
という命令が下された。李一徳氏は例によって、
「はい!」
と返事をして、平壌市内に出掛けたのだが、元手があってこそ商売ができるのに、その時お金が一銭もなかったので、自分でもあきれてしまった。
仕方なく、ぐるぐる歩き回っているうちに、ふと友人のことを思い出し、その友人のところに行って頼んだら、いくらかもらうことができた。そのお金で匙と箸を買い、それを道端に広げ、「今晩、主に夕食を差し上げるために、何としてでも売って利益を上げなければ」と思って立っていた。
ところが、しばらくすると、四方から人々が集まってきて、さほど上等な匙や箸でもないのに、よく売れた。そのようにして、あっという間に売り尽くし、あとから計算してみると、倍の利益があった。そのようにして、主に差し上げる食事に必要な物を準備して持っていったという。
ある日、許浩彬夫人は、イエス様が暗行御史のように霊的にいつも訪ねてこられるので、
「あまりにもおそれ多く、また感謝しております。このご恩にどのように報いたらよいか分かりません。考えれば考えるほど、ただただ感慨無量であるばかりです」
と申し上げた。すると、イエス様から
「あなたが一番愛し、大切にしている物で服を作りなさい」
という指示を受けた。
そのころ、許浩彬夫人には非常に大切にしていた毛糸の襟巻きがあった。それをほどいて、チョッキを編んで差し上げることにしたが、それだけでは気が済まないので、麻束のように美しく長く伸びた、見栄えのする自分の髪の毛を一本ずつ抜いて、毛糸と合わせて編んだ。麻糸は一度も縒りつないだことがなかったが、決心してやってみると、うまくできた。それでも物足りない気がして、どうしたらいいのか分からず、何かもっと差し上げたいという気持ちは、言葉では言い表すことができなかった。
ある日、許浩彬夫人は母親に、
「お金が足りないから、実家の故郷に行って、お金を借りてきてください」
と頼んだ。その時は、解放後、ソ連軍が進駐している時であった。バスや汽車に乗ると、ソ連軍が三、四十人に制限し、絶対にそれ以上は乗れなかった。許浩彬夫人の母親は、西平壌停留所に行ってみたが、切符が売り切れていて買えなかった。そこで
「主のために故郷に行って、お金を準備して来なければなりませんが、人々がみなこのように並んでいます。どうしたらよいでしょうか」
と祈って立っていると、白いパヂとチョゴリを着た、がっしりした人が忽然と現れた。当時北韓では、背広を着ることができずに作業服を着ていたので、みな労働者のようであった。しかし、その人は唯一、白いパヂとチョゴリを着ていた。それは夢ではなく、現実であった。その人は目の前に現れ、許浩彬夫人の母親に語りかけた。
「あなたは切符を買おうとしているのでしょう」
「はい」
「私が買ってあげよう」
「それならば、お金をお受け取りください」
「いや、私が出すから」
その人はそう言って、人ごみの中をかき分けて入っていった。すると、人々はみな、その人をすっとよけてくれるのであった。
許浩彬夫人の母親は、「不思議だ。誰なのだろう」と思って、気の抜けた人のように、ぼうっと眺めているばかりであった。その人は待合室に入って切符を買ってくると、
「さあ、持っていきなさい」
と言って切符をくれた。慌てて受け取って、お礼を言おうと頭を上げて見たところ、あっという間に消えてしまった。
その時になって初めて、「ああ! 主だったのか。白いパヂとチョゴリを着ていらしたのを見ると、主だったのか。私はなんでこんなに愚かなのか!」と、許浩彬夫人の母親は、自らを責めたという。
当時は、許浩彬夫人から、「主はいつも私の横に座っていらっしゃる。だから、あなたたちは私の横に座っていらっしゃる主を信じなさい」と言われてきたので、自ら主を探し求めようという思いをもつことができなかったのである。
四 聖主教信徒の糾合と準備精誠
許浩彬夫人が役事を始め、腹中教を起こしてから三年たったとき、「聖主教の信徒たちをみな捜し出しなさい」という啓示が下りた。聖主教の信徒たちは素直に集まり始めた。
許浩彬夫人は、聖主教の信徒たちに
「皆さんは韓国を代表し、世界を代表する信徒です。精誠を込めて再臨主の服を作りなさい」
と命じ、その時から、たくさんの人が再臨主の服を作り始めた。その時からは、韓国産の布だけではなく、絹織物のようなものでも作り始めた。とても大きい北韓の米びつに、押しても指が入らないほどに、作った服をぎっしりと詰めた。
許浩彬夫人は、
「あなたたちは、このような素晴らしい場に参加しているのですから、惜しいことがあるでしょうか。今まで大事にしたり、愛用してきたりした物があれば、全部捧げなさい!」
と言われた。聖主教から腹中教に移ってきた人たちはみな、まともに見える器を、一つとして家に置いておくことはなかった。毎日、家に帰れば、「次は何を売って捧げようか」という思案ばかりしていた。ひたすら売って捧げること、精誠を尽くして働くことだけを考えたのであって、ほかのことは到底考えられなかった。それでもいつも気持ちは、尽くし切れぬ思いでいっぱいであった。
だんだんと共産主義が勢力を振るい始めた時、「内的にもっと精誠を尽くして一生懸命にやろう」と言って、信徒たちの心と心が自発的に一つになった。衣服も立派なものがあれば、着て歩くことはなかった。目につけば、すぐに持っていって売った。貧しい人々が幅を利かせていた時代だったので、持っていくものは何でもよく売れた。
中でも、当初からみ旨の道に至るまで大母様の一生の同僚となった呉永春氏が住む東村(当時は平安南道平原郡、現在は粛川郡)から、最もたくさん捧げたという。その家族は農業をしていたので、最もたくさん捧げることができたのである。ある日、許浩彬夫人はその村の信徒たちに
「あなたたちは、このような素晴らしいことに参加しているのだから、牛は屠れないとしても、豚を一頭屠って持ってきなさい」
と命じた。
当時は、豚も勝手に屠って持ち運ぶことができない時代であった。それでも豚一頭を屠り、リュックサックに入れて背負い、内務署の要員たちの往来する中を捕まらずに、無事に平壌まで運んでいった。しかし、天の訓練というのは実に冷酷であった。命懸けで屠って捧げた物であったが、それは平壌の信徒たちだけが食べるからすぐに帰りなさい、ということであった。それでも彼らは感謝しながら帰ったという。ああでも感謝、こうでも感謝であった。皆、「新イエス教会から始まって、聖主教でも成就すると言われていたみ旨が成就せず、今や腹中教で再臨主を迎えるようになったのだから、これほどまでにおそれ多く、感謝すべきことがどこにあろうか」と考えた。いくら捧げても、足りなさばかり感じられた。
腹中教の時代には祈祷がなく、ひたすら敬拝だけを捧げた。朝昼晩に公式的に敬拝を捧げ、祈りたいと思ったときに自ら敬拝を棒げた。一日に三百回、七百回、または三千回、七千回まですることもあった。それでも足りなさを感じた。
真心のこもった精誠で、主を迎えるその日を指折り数えた。天の命令には、命を捧げる覚悟ができていた。許浩彬夫人の娘が、主を迎えるようにあらかじめ準備され、十二弟子をはじめとする主の弟子たちの数もそろえた。
許浩彬夫人は、日本帝国主義の崩壊の時を予知し、公然と語られた。
「私はその時、主に出会う」
五 腹中教での六年間の信仰
一九四四年ごろ、大母様も母親と共に腹中教に入られた。そして、服作り、座布団や屏風の刺繍、靴や帽子(昔の韓国の官吏のかぶる帽子)作りなど、主を迎えるための準備に精誠を込めて参加された。
ある日、許浩彬夫人は
「女性たちはみな、主の服を一着ずつ作ってきなさい」
と語られた。そのようにしてこそ再臨主が現れても恥ずかしくない、ということであった。
大母様は、ちょうどその時に出掛けていて、帰ってくると午後一時ごろになっていたが、夜になる前にすべてを済ませなければならなかった。普通の人の服ならば数時間で作れるかもしれないが、主の服を作るとなれば、このような急な仕事がどこにあろうかと思われた。しかし、大母様は従順に従った。手がぶるぶる震えたが、「感謝する気持ちで作るのだから、出来上がらなくても許してくださるだろう」という気もして、一方では安心した。そのようにして、やっと作り終えることができたのだが、急がなければならないし、精誠を込めなければならないので、本当に大変であった。一日でもこんなに大変なのに、これを許浩彬夫人は三年間もしたというのだから、本当に立派であると思った。
刺繍は安州の人たちが上手であった。再臨主が現れ、み言を語られる時に敷いてお座りになる座布団を作った。一つは再臨主のもの、もう一つは奥様のものというように、二枚刺繍をして作った。昔、王宮で行われたこと以上に準備せよということなので、あらん限りの力、あらゆる精誠を尽くした。
再臨主に作って差し上げる服の生地を買うときは、絶対に値切ることはなかった。「尊いお方の服を作るのに、値切るとは何事か!」ということで、値切らずに買って準備した。そのようにして、三、四百人の聖主教の信徒たちが服を作って、米びつにぎっしり詰め、また奥様の服も同じようにして様々に作った。屏風もただ描いただけでは見苦しいので、十二針で刺繍を施した。大母様もこれらのことに精誠を尽くして参加された。
そのように精誠を込めていきながらも、大母様は、許浩彬夫人がとてもうらやましく思える時があった。「あの方は昼夜、再臨主に侍っているのだから、どんなによいだろうか。夢にでも再臨主に一度お目にかかれるならば、死んでも悔いはない」と思った。すると、すぐさま次のような夢を見た。
きれいなわらぶきの小さな家……。大母様は上下に白い服を着て、台所で食事の準備をしている。仕事を済ませ、水にぬれた手を前掛けで拭きながら台所から出ると、母親が「この部屋は誰も入れない部屋だよ」と言う。その言葉に返事もせず、丁寧に戸をそっと開けて入り、新婦のようにおとなしく座っていると、壮健な方が、東側に机を一つ構え、頭に手拭いを巻いて勉強している。その方はさっと振り返って座り、「私は、あなた一人を探すために、このように勉強をしているのだ」と言う。その言葉がどんなに有り難くおそれ多いことか、涙が自然とあふれ、何とも表現のしようがなく、その方の手を握って泣いていた。
目覚めてから、「これは実に不思議だ。あの方が多分、再臨主のようだ」と思った。その当時は、許浩彬夫人が、「この方が再臨主だ」と言わない限りは、自分で探そうという考えすらもできない時であった。ただ何とかしてお金を用意して、服を作って差し上げることだけを考えていた日々であった。
ある時、大母様は、許浩彬夫人から
「洪さん、再臨主ご夫妻がお履きになる靴と帽子を、安州で作るようにと、天がおっしゃっています」
と言われた。その命令を受けて、どんなに有り難かったか知れない。
それで即座に「はい」と答え、安州の、靴作りで有名な店に行って、声を張り上げた。当時は、声を張り上げたほうがよい時代であった。
「この靴をお履きになるお方は、この上なく立派なお方だから、真心を込めて作りなさい! お金は言い値どおりに払うから、最高の物を作りなさい!」
と言って、寸法を書いて渡した。
一週間ほどして行ってみると、靴は立派な感じに仕上がっていたが、帽子は大ざっぱな仕上がりで気に入らなかった。その帽子を受け取ったとたん、腕がしびれだし、空が黄色く見え、体がびくともしなくなった。あげくの果てに、足がその店の床にくっついてしまった。大母様は一緒に来ていた人に言った。
「私、大変なことになりました」
「どうしたの」
「気に入らない帽子を手にしたら、突然腕がしびれ出し、足が床にくっついてしまったんです。どうしましょう」
「それじゃ、もう一度作ってもらいましょうよ」
一緒に来ていた人がそのように言うと、体が少しずつ動けるようになった。それで、大母様は、目をむいて大声を張り上げた。
「おじいさん、これは何ですか!こんな帽子を持っていったら、私はすぐに死んでしまいます。もう一度ちゃんと作れませんか1・」
すると店の人は、ぶるぶる震えながら答えた。
「はい! 今度は本当にちゃんと作ります。私はそんなに尊い方がかぶる帽子だとは思ってもいませんでした」
一週間後にまた行ってみると、今度は仕上がりが良く、本当に気に入った。お金を払って平壌に持ちかえると安堵した。その話を報告したところ、許浩彬夫人は「おもしろい」と言って喜ばれたが、それでも絶えず足りなさを感じざるを得なかった。
それから一か月ほどして、大母様はまた夢を見た。とてもはっきりと夢の啓示を見るほうであったが、一か月前に見たあの方が、また夢に現れたのである。
「順愛よ!私は北に行って、もっと勉強をしなければならないが、あなたが一番大切にしている布団と背広一着を、リュックサックに入れておくれ」。大母様はそのように言われ、「はい」と答えて家に帰ると、既に誰が準備したのか、布団がきれいに準備してある。背広も、淡い色で、良質の生地でできたものが準備してある。本当に有り難い、驚くべきことだと思いながら、大母様が、真心を込めて包んでリュックサックに入れてさしあげると、その方は、リュックサックを背負いながら、「私は三年したら来るから、あなたは三年間心変わりせずに待っていなさい!」と言われ、北に向かって、口笛を吹きながら一人寂しく行ってしまわれる。
その後ろ姿を見つめながら、大母様は限りなく泣いた。一人で学びにいくその姿が、この上なく孤独に見えたからである。心変わりするはずもないが、何の取り柄もない私をご覧になり、三年間心変わりせずに待っていなさい」とおそれ多いお言葉を下さって行かれるとは……。
そのように思いながら泣いていたところ、そこで夢から覚めたという。
六 許浩彬夫人一行の獄苦と不信
大母様は当時の様子を次のように回顧された。
腹中教の三百人余りの信徒たちが、一致団結して再臨主を迎える準備をしていました。その準備が済んだころに、真のお父様は北韓の地に来られていたのです。その時、私もまた再臨主を待ち望んでいました。当時、真のお母様は三歳でした。
一九四六年八月、信仰心の浅い信徒の一人が、共産党当局に密告したため、許浩彬夫人と腹中教の幹部は、共産党の警察によって、平壌の大同保安署に拘禁された。
内務署員たちは許浩彬夫人に尋問した。
「お前のおなかにいるイエスは、いつ出てくるんだ?」
「何日かすれば出てこられます」
天からは、しきりにそのような指示が下りていた。
「再臨主が何日何時に監獄から出られる」
許浩彬夫人がそのように語ったので、腹中教の信徒たちは、毎日、監獄の門の外に立った。再臨主が出られたら迎えようと、白い服を着て、二、三十人はいつも立っていた(大母様は後日、み旨の道に来られてから、その時に真のお父様も同じ監獄にいらっしゃったことをお知りになった)。
内務署員たちは、それまで作った服を、全部トラックに積んで持って行った。
「お前たちは邪教を信じている。人を欺いて物を搾取したのだから、これは全部我々がもって行く」
再臨主の服、奥様の服、赤ん坊のイエス様の服まで、すべてをもって行かれ、言葉にならない無念な思いで悔しがっていると、天から指示が下りた。
「再び作りなさい! サタンがすべてをもち去ったとしても、あなたがたの尽くした精誠は、そのまま残っています」
残った信徒たちは、約一年の間、精誠を尽くして、また同じだけの服を作った。その時も、許浩彬夫人は監獄から出られずにいた。
当時、真のお父様は、ソウルから平壌に来て、景昌里で集会所を開き、伝道をしておられた。そのころ、北韓の共産党当局は、一九四六年の六月から宗教団体に対する弾圧を始めていた。許浩彬夫人の腹中教が宗教を自称した詐欺罪で立件された時、真のお父様も、それと類似した団体の指導者と見られ、李承晩のスパイであるという嫌疑で拘禁され、柳洞保安署で拷問を受けられたのちに、箕林里の大同保安署に収監された。真のお父様は、新婦格として準備された腹中教が自らご自身を訪ねてこないのをご覧になり、二度にわたって人を送り勧告なさったことがあったが、それを拒否した結果として、神様は、獄中までも訪ね、その教団に責任を負おうとされたのであった。
真のお父様は、一九四六年八月十一日から百日間、獄中で苦労をされながら、許浩彬夫人と接触しようと数回にわたって措置をされた。しかし彼女は、結局のところ真のお父様が誰であるか悟れず、そのような摂理的措置を無視したまま、不信の道へと進んでしまった。
同十一月二十一日、真のお父様は、過酷な拷問により瀕死の状態となって、捨てられるようにして釈放された。平壌の食口たちは、韓方(朝鮮半島で独自に発達した医術)の医師を呼び、至誠を尽くして治療したが、真のお父様は、洗面器いっぱいに血を吐き、真っ白な一枚の紙切れのようにやせ衰えた顔となり、意識不明の状態が続いた。食口たちは、不安と焦燥感に包まれ、最期の瞬間に備えた手続きを議論したりもした。そのような状況から回生したということは、奇跡のような天の加護としか言いようがない。
多くの腹中教の幹部たちは、拷問で死ぬか、その後の六・二五動乱の際に戦死した。天の祝福と恩賜に対して責任を全うできない摂理的使命者たちの結末が、いかに過酷で冷厳であるかの教訓であり、生きた歴史と言えよう。真のお父様は、次のように語られたことがある。
神様は、準備したその女性に対して責任を負わなければならないので、先生を監獄に送ろうとされました。景昌里で集会をしていたところ、「宗教詐欺団体だ」、「その協力者だ」と言われ、捕まったのです。一九四六年八月十一日から十一月二十一日まで収監されている間、先生は、彼らの集団の幹部や、その婦人の夫、その集団の責任者のような人に会って、彼らの行き先を教えてあげました。
数十年の間、精誠を尽くして基盤を築いてきた許浩彬夫人のような人も、先生の言うことを聞かなかったために、共産党が後退する際(六・二五動乱時)に虐殺されてしまいました。そうならざるを得ませんでした。天が、終末のみ旨を見極め、最高の基準に至らせるために最大の精誠を尽くさせながら、そのような目的に導いてきたものが、悲惨にも逆に落ちてしまうことがあるということを知らなければなりません。ですから、統一教会とは最も恐ろしい所です。先生もそれを恐れているのです。
七 再臨準備役事の精誠基盤の継承
真のお父様のみ言によれば、全体の新婦基盤を代表したある女性が、「人類の真の母」になるに当たっては、それにふさわしい摂理的な諸条件が備わらなければならない。その第一の条件は、サタン世界の讒訴を越え得る血統的な因縁である。アダムやイエス様と同じく、再臨主もまた一人息子、一人娘のみ旨を立てて、サタン世界を越えなければならない。人類全体の女性を代表して、ある女性を立て、真のお母様にまで連結させるためには、その背後に三代にわたる一人娘の女性がいなければならない。
真のお母様の母方の先祖は、七代にわたる善良な一人息子を経ることによって、サタンの血縁を分立してきた。そして趙元模女史や大母様、真のお母様は、みな一人娘であり、周辺に親戚が多くない身軽な生活をされた。親子三代が信仰的な受難を共にしながら、独身母性の新婦の基盤を築かれたのである。趙元模女史や大母様は、真のお母様をあれほどまでに貴く授かりはしたが、貴重に育てて養育する余裕をもつことができなかった。ただただみ旨における環境の中で導かれてこられたのである。
真のお母様は次のように語っていらっしゃる。
二千年前にイスラエルの国でも、主を迎えるための内的な準備がたくさん行われたように、解放前の韓国でも、再臨主を迎えるために準備された団体がたくさんあり、内面的に復帰摂理の役事をしてきた団体もたくさんありましたが、おばあさんと大母様は、そのような団体を訪ね回りながら、この世と一切妥協せず、ひたすらみ旨のため、ひたすら一人の主に会うその日のために生きてこられたのです。
結局そのような信仰が、私をこの場にまで導いたようです。常に深い信仰生活をしました。常に分別された小ぎれいな生活、清い生活をされました。私の生活は総じて、大母様から学びましたが、趙氏おばあさんもそのような方でした。
このように、大母様とその母は、この世と妥協せず、分別された清潔な生活によって、ひたすら主に会うために犠牲となり、精誠を尽くしながら、再臨信仰の主流的伝統を相続された。そのような中、真のお母様は、誕生直後に、金聖道夫人から祝福を受けられた。また四歳(数え)のころ、許浩彬夫人に代わって腹中教を率いていた許浩彬夫人の母親が啓示を受け、白い韓服(韓国の民族衣装)姿で、宵六のお母様を「天の新婦となられるお方」と祝福した。それをもって、すべての役事の基盤が、真のお母様に伝授されたのである。
真のお母様は当時の状況を、次のように回顧していらっしゃる。
私が六歳もなっていなかったころに、(許浩彬夫人の母親が)「この方こそ天の新婦になられるだろう」と予言をしました。彼女はその時、六歳にもなっていない幼い少女が、天の新婦となる運命に生まれついたという啓示をいつも受けていました。
許浩彬夫人の集団は、聖主教に続く、再臨主のための新婦の使命を果たす団体だったのですが、その名目のもとに私を祝祷してくれたのです。今後に大きな使命を果たす人だという祈祷を受けました。白いチマ・チョゴリを着たおばあさんが私一人を呼んで、「天の啓示があった」と言って、祝福をしてくれたことをはっきりと覚えています。
真のお父様は、み言の中で次のように語っていらっしゃる。
摂理史は、哀れな女性たちから始まり、橋を架け、彼女たちが使命を果たせば、また時期ごとに他の人を立てて、徐々に橋を架けてきた。そうして最後には、女性を代表して世界の前に立てても遜色のない、最高の母となり得る立場にまで、端から端まで復帰の摂理がなされるのです。
厳しい風霜を経て傷痕を残したとしても、億千万の事情をすべて経ていかなければならない主流のみ旨の道は、外的に備えた内容が多いほど、その行く道はますます困難なものとなる。そのような中で、歴史時代の女性たちが経たすべての惨状の過程を経たとしても、不平を言わず、新郎であられる主のために生きることができ、むしろさらに大きな苦労を要求することのできる女性が必要なのである。「真実、み旨の前に立っている私には、何の言葉もありません」と言って、かえって主を慰労し得る、対象としての心情的な蕩減の過程を経なければならない。上がっていく時も、下りていく時も、引っ掛かってはならない。そのようにして、二十代前の少女まで下りてきたとしても、天が相対としてお許しになったからには、いくら困難な立場にあろうとも従順に従えるように育てていかなければならない。そのような新婦は、ただ一つ天のためなら何でもできるという、孤独な背後から探すのが容易なのである。
そのような立場から、真のお父様は次のようにおっしゃった。
洪氏おばあさん(大母様)は、信仰の道ゆえにすべてなげうって、主を迎えるために歴史的な受難の道を歩んできた人なので、真のお母様もそのような訓練を受けた歴史があるのです。み旨のために行く夫の道ならば、精誠を尽くす夫の道ならば、より熱心にすることを願う心をもった家門が必要なのです。そのように考えて、先生も真のお母様を選んだのです。
洪氏おばあさんも、三代にわたって絡まりながら、正気の沙汰ではありませんでした。自分で考えて行動したのではありません。天がそのようにさせたのです。持って生まれた何かがあるのでしょう。それゆえに、世間からどれほど迫害されたか知れません。
このような観点から見ると、韓承運先生と大母様が、婚姻されたのちに、本家に定着した一家団欒の生活ができず、早くから離れ離れになって、独立した生活を送るようになったのも、究極的には、天の摂理的な導きによるみ旨の歴程であったと言わざるを得ない。
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第五節 韓承運先生の南下とその後の行跡
一 韓承運先生の南下
当時、大母様の弟・洪順貞氏は、平壌師範学校を卒業したのち、一九四〇年ごろから、日本の京都にある同志社大学付属中学校を経て、大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)に留学中であった。そのころ、大母様の両親は、韓承運先生を婿養子にしたいという意志をもっていたが、韓承運先生はこれを断られた。韓氏家門の長男であり、特に当時は遠く離れた黄海道の建白で教職生活をしていたこともあって、妻の家にとどまれない状態であった。
その上、大母様のほうも、信仰的な情熱のためにほとんど家を留守にすることが多く、一緒に過ごすこともなかなか容易ではない状況の中、結局、別々に暮らすようになった。
そのような状況の中で真のお母様は、南下される時まで、母方の実家の家族の保護のもとで成長し、信仰を学ばれた。
韓承運先生はその後、一九四五年から萬城公立普通学校に移って在職されていたが、一九四六年の四、五月ごろ、共産党当局の脅威を避け、やむを得ず三十八度線を越えて南に下られた。真のお母様は、かすかな記憶に、正にこのころ(当時、数えで四歳)、父親が家に帰ってきて、一緒に(南へ)行こうとおっしゃったが、大母様はその時も、やはり主を迎える信仰の道を頑なに守られ、夫の道に従えなかったようだと回顧されている。韓承運先生は、夫としての最後の道理と愛情を尽くそうとされたが、天の冷厳な摂理は最後まで、そのような人倫の安らかな歩みを許さなかったのである。
二 南韓での教職生活
ここで、南下されたのちの韓承運先生の歩みをたどってみることにしよう。
韓承運先生は、南下後、ソウルと京畿道一円の小学校で奉職された。まず一九四六年(五月三十一日~十月四日)に、ソウルの校洞初等学校(鍾路区慶雲洞)で訓導(教師)として教職生活をされた。
その後、農村の改革を志して、京畿道に行かれ、一九四六年十月二十五日から長興初等学校(楊州郡長興面橋■(山+見)里、現・松湫初等学校)で校長を務めた(そのころ一九四六年十二月二十九日付けで父親の他界による戸主の相続をする)。
その後、今日の昆池岩初等学校(京畿道廣州市實村邑昆池岩里)に転勤発令があり、一九四七年六月一日から校長として在職、昆池岩里一五〇番地で生活された。
そのころ、一九四七年に、同じ学校で教職についていた池姫善先生と婚姻し、翌年、長男・偉逸氏が生まれる(三月一日)。池姫善先生は、一九二六年一月三日、鍾路区社稷洞一〇七番地で、父・池賢植氏と母・崔巨福氏との間に、四男三女のうちの長女として生まれ、京城女子商業学校を優秀な成績で卒業したのち、小学校の教師として終生を奉職した献身的な女性教育者であり、韓承運先生と婚姻したのちには、一、二箇所を除いてはずっと同じ学校で共に教職生活をされた。
その後、韓承運先生は、京畿道の驪州に人事発令を受け、一九四八年四月一日に安平初等学校(占東面長安二里)、一九五〇年十月十日に占東初等学校(占東面清安里)で、それぞれ校長として在職し、清安里一六〇番地で生活された。
そのころ、六・二五動乱(一九五〇~五三)を迎え、家族を連れて釜山まで避難された。一九五一年の一・四後退(国連軍のソウル放棄)のとき、再び釜山まで避難し、忠清北道の陰城で次男の偉勇氏が生まれた(二月二十日)。
その後、韓承運先生は一九五二年七月八日から今日の南四初等学校(京畿道龍仁市南四面鳳舞里)に転勤し、校長として在職された。
続いて、一九五七年二月九日、清平の美原初等学校(京畿道加平郡雪岳面新川里、天宙清平修錬苑から直線距離で三キロ)に転勤し、校長として奉職された(そのころ、一九五八年三月三十一日に、原籍である平安南道安州郡大尼面龍興里九九番地の本戸籍を編籍)。
韓承運先生が清平の美原初等学校に在職していたころ、一九六〇年四月十一日に、歴史的な「真の父母様のご聖婚式」がソウル青坡洞の前本部教会で挙行された。真の父母様が一九六五年から精誠を尽くして基盤を築いてこられたあの清平聖地の地域において、先駆けて韓承運先生が三年以上もお過ごしになった行跡は、考えれば考えるほど、心に感動を呼び起こし、目頭を熱くさせる因縁の道と言わざるを得ない。
長男の韓偉逸氏が、入教後の一九九七年三月に真の父母様にお目にかかったあとに、そのような事実を書面でご報告申し上げたところ、真の父母様は大変喜ばれたそうである。
雪岳面位谷一里を故郷とする、当時、美原初等学校に在職していた李光憲先生(一九二五~、のちに美原初等学校の校長に赴任、一九九〇年に定年退任)は、当時の韓承運先生と池姫善先生の姿について、次のように述懐している。
韓承運先生は、大変張りのあるはっきりとした語調の持ち主でした。自分の意思と合わない部分については、当事者を呼んで真剣に説得しました。また、地域の機関長や篤志家たちと厚く親交し、対外関係にも誠心を傾けられました。特に、文学的な面に多くの素質と関心をもっておられ、時々、自作の原稿を雑誌社や新聞社などに寄稿されました。
また、池姫善先生は、大層物静かで、温和なイメージで気さくな性格をもっておられました。特に対人関係が円満で、雰囲気を和ませる並々ならぬ徳性をもった方でした。
韓承運先生は、美原初等学校に在職していた当時、校舎があまりにも古いので新築を推進し、加平の教育庁まで毎日往来しながら業務処理をされた。清平駅前から雪岳面までは一日に二回しかバスがなく、その小さいバスが故障したり、雨が少しでも降ったりすると、バスが出ない劣悪な条件の中、独りその苦労を耐え忍ばれた。
清平にいたころに、そこの自然環境がいいと言って、韓承運先生の弟が健康問題で時々療養に来ることがあった。その都度、甥の韓偉逸氏は兄弟そろって、今の天宙清平修錬苑の近くの川岸にある掘っ立て小屋で魚を捕って売っている老夫婦の所に行き、大きな鯉を二匹ぐらい買っては竿に剌して持ち帰り、叔父にごちそうしてあげたそうである。
韓承運先生は、その後、官仁初等学校(京畿道抱川市官仁面炭洞一里)に人事発令を受け、一九六〇年六月二十九日から校長として在職された。
続いて、一九六二年五月三十一日からポルム初等学校(京畿道甕津郡、現在の仁川市江華郡西島面ポルム島)に転勤、校長として在職された。そのころ、池姫善先生は、子供だちと共に仁川市の富平に居住しながら、富平東初等学校に在職された。
韓承運先生はまた、一九六五年三月一日から金城初等学校(京畿道金浦市霞城面麻造里)、一九六七年三月二日から雲西初等学校(仁川市中区雲西洞)でそれぞれ校長として在職された(このころ、一九六七年一月五日付けで、戸籍の京畿道華城郡烏山邑烏山里五四三番地を仁川市北区富平洞六五番地へと移籍)。
その後、一九七一年九月一日から富平北初等学校(仁川市富平区葛山洞)に転勤、奉職していたが、一九七四年、二月二十八日付けで定年退職なさった。韓承運先生は、このように四十一年を超える年輪を、十五箇所の学校を経ながら、完全に教育界に身を投じ、とりわけ京畿道一帯を中心に、農村の子女教育と厚生事業に献身された。
三 農村子女教育の燈台
長男の韓偉逸氏は、一九九七年にみ旨の道に来られて以来、韓承運先生の追慕礼拝(一九九八年、一九九九年)や数回のインタビュー(二〇〇二年、二〇〇三年)で、韓承運先生に関連する貴重な資料を提供してくださり、その生涯について証をしてくださった。また、韓承運先生の愛弟子であったチャン・ギテク牧師(現在ソウル上道洞ソンデ長老派教会の元老牧師)も、先生の教訓的な人生について自筆の証言(二〇〇〇年三月十五日)を残してくださった。二人の証言を総合して整理すると、次のとおりである。
第一に、韓承運先生は透徹した愛国思想をもっておられた。自分や家族よりも常に国と民族を考えた。南北の分断を痛嘆し、統一のために祈られた。転勤して行く所々で啓蒙講演をなさったが、その講演数がなんと五百回以上にも及ぶ。力強い声と抜きん出た弁術で多くの感動を与えた。先んじてセマウル(新しい村)運動(韓国で一九七〇年代から始まった地域開発運動)のモデルとなられた。その経費はご自身の生活費で賄っていたため、いつも暮らしは貧しかった。その姿を見習った配下の教員たちは、地方巡回の啓蒙講演を続けながら愛国運動に献身した。
第二に、教会の開拓に献身された。先生は、篤実なキリスト教の長老として、模範的な信仰生活をされた。校舎の片隅に小さな祈祷室を造り、毎日明け方の四時に起床して祈祷を捧げ、夕方にも瞑想と祈祷をされた。大声でなさるその祈祷は、一句一句筋が通っていて、ご利益的な内容よりも、天の栄光を頌栄し、創造世界を賛美する内容で一貫していた。特に賛美歌は「三千里半島、美しい山河」(韓国賛美歌三七一番、「三千里」は朝鮮半島の別称)を愛唱された。その意味を再確認するために、一番の歌詞をここに紹介する。
三千里半島 美しい山河 神様が 下さった園
三千里半島 美しい山河 神様が 下さった園
この園に なすべきこと多く 四方から 働き手を呼ぶよ
すぐこの日に 仕事に行こうと 誰が 返事をするだろうか
仕事しに行こう 仕事しに行こう 三千里の 山河のために
神様の命令を 受けたから 半島の山河に 仕事しに行こう
教会のない所に赴任すれば教会を建て、教会があっても牧会者のいない所に行けば、何とか牧会者を招こうと努力された。教会はレンガで建て、大工などの働き手や費用は、住民たちに呼び掛け協力を得て、教会建築を成し遂げた。いかなる宣教師や復興師、牧師よりも、地域の宣教活動に貢献されたのである。
第三に、教育者として貢献なさった。六・二五動乱で学校の建物がみな焼失してしまい、芝生に座って授業をする状況になったが、国庫の補助が足りない中でも父兄たちの援助を得て、数校の学校を再建された。正義と真理を守護し、不正と妥協することがないために、他の校長たちから妬みを買い、謀略にかけられた。ひとえに田舎の学校ばかりに転勤なさったのは、正にその剛直な性分と所信からであった。秀でた才能と人柄をもっておられたが、腐敗した官僚たちと交わることをきっぱりと拒否し、貧しく厳しい農村の子供たちのために教育を施し、奉仕することを天職として献身された。また、禁酒禁煙を守り、徹底して規則的な生活をされた。
第四に、厚生事業と奨学事業に献身された。校舎を建てて厚生機構をつくるなど、学校の発展に全力を注がれた。少ない給料をはたいて、孤児院を助けられた。早朝祈祷ののちには、肥料を運ぶ背負子を背負って、野菜、ジャガイモ、トマトなどを栽培し、その収穫を厚生のために活用された。貧しい児童たちには食糧や奨学金を与えた。幼い児童たちをあたかも我が子のように愛された。身なりが清潔でない子供たちを連れてきて洗ってやったり、髪を刈ってやったりもした。その当時は、ひときわ吹き出物のできる子供たちが多かったが、そのような子供たちには薬を塗ってあげたりもした。
そのような慈悲深い温和な姿は、実の息子たちにとっても終生の教訓として根付いたという。そればかりか、周辺の人々の中でも、その高貴な人格に感化を受けて、キリスト教に入門した奨学生も多かった。その中には、牧会者になった弟子も何人かいた。驪州の小学校に在職していた当時、同じ学校で教師をしていたチャン・ギテク牧師も、キリスト教信仰に根ざした先生の献身的な生き方に触れ、神学校に行って牧会者になったという。
チャン・ギテク牧師は、師である韓承運先生のことを次のように称賛しながら、追慕している。
韓国のペスタロッチ(スイスの教育実践家)と言うか、カナン農軍学校(韓国の農村指導者養成のために造られた学校)の校長のような方で、農村社会を立て直した、隠れた農村運動家でした。まっすぐな信仰を土台として農村の子供たちを愛して教育することに専念し、解放以後の貧しくて厳しかった農村において、燈台のような表象の人生を送られました。
韓承運先生は、そのような献身的な生活によって、一九五四年三月一日、龍仁にある南四初等学校に在職していた当時、京畿道知事から表彰され、一九六〇年一月一日、加平の美原初等学校に在職していた当時には、緑條勤政勲章(第三一四四号)を受勲された。そして一九七三年十一月、富平北初等学校に在職していた当時には、大統領功労バッジを受賞され、一九七四年一月二十八日には、大韓教育連合会長功労表彰状を受賞、同年二月二十八日の定年退任時には、国民勲章冬柏章(第七七五号)を受勲された。
四 晩年の田園生活
韓承運先生は、普段から非常に健康であったため、特に病院に通ったりすることはなかった。禁酒禁煙をなさり、徹底して規則的な生活を送られたが、特別に健康に気を配る余裕をもつことができず、無理な生活を続けられた。
常に腰を曲げないで力強く歩かれた。朝は早く起き、家族の者たちを起こして、賛美歌を歌いながら布団をたたみ、掃除もされた。子供たちは、いつも片付けて掃除する父親の習慣を見て習い、身につけて育ったという。
一九七四年の定年退任後に、今日の京畿道城南市盆唐区板橋洞二七六番地に引っ越して、農場を造り、自宅で静かに読書と思索をしながらお過ごしになる中、一九七七年に肝硬変で仁川基督病院に入院された。しかし、病状がだんだんと悪化し、板橋洞の自宅に帰ってこられ、その後、一九七八年三月十八日の午前一時ごろ、家族の見守る中で静かに安らかな姿で昇華された。
そうして城南市盆唐区の南ソウル公園墓地に安置され、板橋洞の農場にあったイブキやツゲなど、数本の木が移し植えられて、霊園を風雅に飾った。また、所蔵されていた書籍などの遺品は、板橋洞の楽生高等学校に寄贈された。