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アフリカで黄熱病の研究中に感染して亡くなった野口英世博士
野口英世が1928年に西アフリカのガーナで黄熱にかかり死んだことは、日本の多くの人が知る話です。しかし、野口が死亡した時点で、ガーナでは黄熱の流行がほぼ終息していました。このため、彼が黄熱に感染した原因としては、研究中の事故などが考えられています。さらに、彼がガーナに渡った背景には、当時の米国が、国家の威信をかけて行っていた黄熱根絶計画がありました。今回は野口英世が黄熱で死亡した経緯をたどるとともに、米国が世界の感染症対策のリーダーに成長する過程を紹介します。
北米は黄熱の高度流行地だった
黄熱は蚊が媒介するウイルス感染症で、現代でもアフリカや南米の赤道周囲で流行しています。患者は発熱とともに肝臓や腎臓の強い障害を起こし、致死率は10%近くにのぼります。
この感染症の起源はアフリカとする説が有力ですが、流行が初めて記録されたのは17世紀の中米やカリブ海地域でした。この流行は18世紀初頭、イギリスの植民地だった北米にも波及し、ニューヨークでは人口の1割が死亡する大流行になりました。1776年に米国が独立した後も黄熱の流行は続き、93年には当時の首都だったフィラデルフィアで大流行が起きています。その後も、米国での黄熱流行は1860年代の南北戦争の頃まで続きました。米国にとって、黄熱は建国当時から悩まされ続けてきた、因縁の感染症だったのです。
米国の野望と黄熱対策
米国では南北戦争が終わった1860年代以降、国内産業が急速に発展し、それにともない国内での黄熱流行は終息していきました。19世紀後半になると、米国は海外への進出を開始し、1898年にはスペインからキューバを獲得します。
当時のキューバでは黄熱の流行が続いており、米国はこの島を植民地化するために黄熱根絶計画を実施します。この時点で黄熱の感染経路は不明でしたが、米国陸軍の研究チームが蚊に媒介されることを解明し、キューバで媒介蚊の撲滅を徹底したところ、黄熱は見事に根絶されました
そして米国は、次なる黄熱根絶計画を中米のパナマ地峡で開始します。この地では79年からパナマ運河の建設が行われていましたが、黄熱の流行によりその工事が中断していました。そこで、1907年から米国陸軍が建設現場の蚊の徹底的な駆除を行い、パナマ運河は14年に完成するのです。
この運河完成により、大西洋と太平洋が直結し交通が大変便利になりますが、同時に、それまでアメリカ大陸で流行していた黄熱が、アジアなどに波及するリスクが生じました。このため、米国政府は世界全体の黄熱撲滅を国策にかかげ、14年にニューヨークのロックフェラー研究所に黄熱ワクチンの開発を依頼したのです。当時、この研究所の研究員として活躍していたのが野口英世でした。
黄熱の病原体“発見”も一転窮地へ
野口は1900年に渡米してから、梅毒の原因となる細菌(スピロヘータ)を発見するなど画期的な成果を出し、ノーベル医学生理学賞の候補にもノミネートされていました。彼は黄熱も同様な病原体で起こると考え、18年に南米のエクアドルで黄熱患者から分離した新種のスピロヘータを、黄熱の病原体であると発表したのです。さらに、この病原体を用いたワクチンの開発にも成功しました。
黄熱病のワクチン=ゲッティ
しかし、この時のエクアドルの患者は黄熱ではなく、症状が似ているワイル病という細菌感染症だったようです。このため、20年代になると野口の発見に疑問を投げかける論文が、次々と発表されます。さらに、黄熱の病原体はウイルスとする研究結果も報告され、野口は窮地に陥っていったのです。
そこで彼は27年に西アフリカのガーナに向かい、自説が正しいことを証明しようとします。ガーナのアクラにはロックフェラー研究所の分室があり、この国で黄熱の流行が拡大しているという情報が入っていました。
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ガーナでの執念の研究、そして米国に戻る直前の死
しかし、野口がガーナに到着した27年11月の時点で、黄熱の流行は終息しており、患者を探すのにも苦労するような状況でした。ようやく奥地の村で患者を見つけ、その血液を実験動物のサルに接種して研究が始まります。そして、28年3月には自説を証明するデータが出始めますが、それまでに彼は600頭以上のサルを使って、その体内から病原体を分離する作業を繰り返していました。
こうして一定の成果が得られたことから、野口は5月19日に米国に戻ることを決めますが、その直前の11日に発熱し、黄熱と診断されたのです。直ちにアクラの病院に入院したものの、病状は次第に悪化し、21日に亡くなりました。
その後、野口の遺体は解剖され、その病理標本はイギリスの博物館に今も保存されているそうです。この標本などから、彼の死因が黄熱であることは確実でした。では、なぜ黄熱の流行が終息している中で、彼は感染してしまったのでしょうか。
まず考えられるのは、サルを用いた研究中に、黄熱の病原体を誤って自分の体に接種したという事故説です。彼の研究は、病原体が大量に増殖したサルの死体を解剖するというもので、その間に感染する危険性は十分に考えられました。もう一つの可能性は、彼が故意に黄熱の病原体を自分に接種したという人体実験説です。彼は自分が発見したスピロヘータで作製したワクチンを接種していたため、病原体を自分に接種しても発病しなければ、それが自説を証明する有力な根拠になりました。
いずれにしても、米国に戻る日が迫る中、野口は自説を確実に証明するため、黄熱の病原体との格闘を続けていたのです。
マックス・タイラー=パブリックドメイン米国が世界の感染症対策のリーダーとなる礎築く
野口の死後、黄熱の病原体はウイルスであることが明らかになります。そして1937年には、ロックフェラー研究所で黄熱の研究を引き継いでいたマックス・タイラーが、真の黄熱ワクチンの開発に成功します。この功績で彼は51年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。
このワクチンの開発は、黄熱の流行拡大を抑えるのに効果があっただけでなく、米国を感染症対策の世界的リーダーにすることに貢献しました。それまで世界の感染症対策はヨーロッパの国々が主導していましたが、これを機に米国がその役割を担うことになったのです。こうした動きは、第二次大戦後、米国が西側諸国の政治的リーダーになることにも大きな影響を与えました。
このように考えると、野口英世は米国が世界のリーダーになるための最前線で働き、そこで殉職したと捉えることもできます。この間の野口の業績には間違いもありましたが、彼が感染症撲滅のため命がけで働いた姿には、米国のみならず世界中が称賛を送るべきだと思います。
新型コロナウイルスの流行にあたっても、米国は感染症対策の世界的リーダーとしての地位を堅持しました。この流行制圧のために開発されたワクチンや治療薬の大多数は、米国企業の製剤なのです。そして、こうした米国の感染症対策のルーツには、野口英世の姿があることも忘れないでいただきたいと思います。
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濱田篤郎
東京医科大学特任教授
はまだ・あつお 1981年、東京慈恵会医科大学卒業。84~86年に米国Case Western Reserve大学に留学し、熱帯感染症学と渡航医学を修得する。帰国後、東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2005年9月~10年3月は労働者健康福祉機構・海外勤務健康管理センター所長代理を務めた。10年7月から東京医科大学教授、東京医科大学病院渡航者医療センター部長に就任。海外勤務者や海外旅行者の診療にあたりながら、国や東京都などの感染症対策事業に携わる。11年8月~16年7月には日本渡航医学会理事長を務めた。著書に「旅と病の三千年史」(文春新書)、「世界一病気に狙われている日本人」(講談社+α新書)、「歴史を変えた旅と病」(講談社+α文庫)、「新疫病流行記」(バジリコ)、「海外健康生活Q&A」(経団連出版)など。19年3月まで「旅と病の歴史地図」を執筆した。