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毎日新聞2024/4/28 東京朝刊有料記事1748文字
=宮本明登撮影
ソーシャルメディアというものは、人間を変え、社会を変えている。この10年、20年で相当な変化が起こっているのではないか。
一昔前なら大きなコンピューターでなければできなかったことを、スマートフォンのような小さな機械がすべてこなせるようになった。どんなことについてでも検索し、教えてくれる(それが本当に正しいのかどうかはさておき)。誰とでもどこでもつながることができる。動画も見られる。その感想を言う相手を選択することもでき、知られたくない相手は、サークルから除くこともできる。そして、匿名で全世界に言いたい放題言うこともできる。
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こんなことは、一昔前には不可能だった。しかも、一握りの人たちだけではない。今や、スマホを持つことはぜいたくではなく、ほとんどの人々が使っている。だからこそ、社会が、人間関係そのものが、変わるのだ。それが良いことなのか悪いことなのかは、いろいろ判断があるだろうが、変わったのは事実である。
私は、あえて悪い面を強調したい。なぜなら、テクノロジーの発展はすべて、「未来を開く」という意味でポジティブに紹介されるのが常であり、テクノロジーの発展を懐疑的に見るのは、かつて、産業革命時に発明された機械を、人の労働を奪うものとして否定したラッダイト運動の人々と同じで、「後ろ向き」「懐古趣味」と言われるから。
しかし、テクノロジーには、必ずや良い面と負の面があるのだ。テクノロジーとは、ある一つの願望をかなえるために発明されるのであって、その発明が、その願望以外の点でどんな影響を及ぼすのかは、誰も考えていない。自動車の発明を見てみよう。自動車は、より速く、自由に、どこにでも行きたい、物を運びたい、という欲望のもとに発展した。自動車は、人や物の大量の移動を自由にし、人々の生活を素晴らしく便利にした。が、一方で排ガスを出して空気を汚染し、交通事故死を激増させた。
しかし、どんなに負の面があっても、人々は自動車を捨てなかった。自動車は、本当に人々のお気に入りなのだ。そこで、自動車産業その他は、その負の面に対応して改善に奮闘し、現在に至っている。
さて、このごろはどこへ行っても、誰もが、小さな画面を手に持って見ている。歩いていても、電車に乗っていても、自転車を漕(こ)いでいても、ほぼ9割の人がスマホを見ている。それを私が観察できるということは、それが公共の場で行われているということだ。
Twitter(ツイッター)というものが日本に上陸したのは2008年だそうだ。そのころからじわじわとスマホは人々の生活に浸透していったのだろうが、10年前の14年は、まだ現在のようなこんな光景ではなかったと思う。
電車に乗っているとき、本や漫画や新聞を読んでいる人、一緒にいる友人たちと大きな声でおしゃべりしている人などは、これまでにもいた。つまり、公共の空間にいながら私的なことに没頭しているという姿は、これまでにもあったのだ。
それはそうなのだが、スマホなどを見ながら歩いている人に対しては、何か違和感を覚える。なぜなら、「公共」という概念そのものが壊れてしまったのではないかと思うからだ。
スマホを見ながら歩いてくる人がいる。私は、その人を見ながら、ぶつからないようにと思うのだが、その人は、ずっと画面を見続けていて、どこか目の隅で私を見つけるらしい。そして、ぶつかる寸前によけて通るのだが、こちらの方はちらりとも見ない。つまり、その人にとって私は、その場にいる他人ではない。電信柱でも何でもいい、ただのよけるべき障害物なのだ。
電車の中などで、友人たちと大声で話している人たちは、それでもその場にいる人たちであった。しかしスマホで誰かとつながって、チャットしたり送受信したりしている人々は違う。彼らはその場を共有していない。つながっているのはスマホの先のどこかにいる人たちであって、隣にいる私たちではないのだ。
ということは、公共空間の概念とそこでの作法がなくなってしまったということだ。それでも人々はスマホを捨てはしないだろう。するとやがて、「公共」という概念そのものがなくなるのではないか。それへの対応は出てくるのだろうか?=毎週日曜日に掲載