|
神の心情の境
1967年6月12日
先生御一行歓迎会 東京教会
ま、皆さんも待ちに待ったこの日でありますけれども、私もこの日を随分心から、待ちに待っておりました。ちょうどその日が来まして、共にお会いする一時の喜びということは表現するに、するものがないのであります。今から先生が話しなければならない立場なんですけれども、どういう話をしようかということを考えてみても、何の話をしたらいいかということが頭に浮かんでこない。それで君たちに最初に聞きたいことがある。何かというと、何の話をしたらいいでしょうかという、その問題。皆さんの御注文によって話してみたい。誰か?(「被造物はいかに造られたか」)。また他に?(「天の父の事について」)。また?(「天の心情主義について」)。天の心情、それもいいでしょう。また?(「天宙を背負いうる者になるためにどうしたらいいでしょうか」)。また?(「日本の青年に何を期待されますか」)。また?(「天宙復帰には経済的な問題が大切ですが、そのことについて」)。それから?(「先生御自身のことについて」)。それは困る。(笑い)。皆さんの、皆が言いたい題目があるでしょうけれども、今、天の心情について、そういうことを言ったんですから、その問題について、ちょっと話してみましょう。ま、題といえば、問題といえば何といいましょうか、天の心情、天の父の、それじゃなくて、神の心情の、なんと言おうかな、ああ、心情の、境というか、境界、そういう問題でちょっと話してみましょう。
世界は今、随分、困難な時期に入っている。民主主義と共産主義が今、対決しておるこの真っ只中におきまして、我々統一教会を中心としていかにして進むかということが問題である。統一教会が世界的進路を打開するには、まず第一に問題となるのはそれは何か。もちろん今、そなたが言うたように経済的問題もあるでしょう。それから国家的関係もあるでしょう。それより以上の問題は何かというと、主義、あらゆる主義においての対決を解決する問題もあるでしょう。いかなる多くの問題があるとしても、その問題の最後の解決点は何かというと、真なる人間が必要だ。また真なる人間として必要なものは何か。それがいわゆる心情問題に入っていく。いかに真なる人がいたとしても、真なるその人自身として本当に幸福を感じ、いわゆる自分自身一人は世界的幸福者である、というような立場に立てるかというと、それをそういう立場に立たせる重大な問題は何かというと、心情である。ま、時代的用語でいえば、それは愛情の問題になるわけなんです。その真の人間としての愛情の問題も問題だけれど、またその愛情の問題を解決した人があるとしても、その人として世界的すべての問題を解決しえるかというと、そこにまた問題になるのは、もし天があれば、天の父の心情の問題ということに帰結するわけです。
我々が今普通に言っておる愛情とか、愛とか、そういう問題を考える時に、その愛、男女同士の愛もあるし、それから兄弟同士の愛もある。家庭同士、あるいは、氏族同士、民族同士の愛もあるでしょう。その愛情は愛情というものは、人間にとって必要である。しかし、その愛情を自分自身が自由自在に、自分の気ままに、それを、あるいはそれを取り入れ、取りはずすということができるかというと、そう簡単にできるものではない。もし愛する人が自分に対して反対する場面に立ち会うたその人がおれば、その人におきましてはその愛をいかにして、愛の問題をいかにして解決するかということ、それを考えるというと、お互い同士にそれを自分のものとして解決することはできない。愛という問題は、相対的関係をもっているから、共にその問題に携わって解決しなければならない問題である。
また、もう一歩進んで考えてみると、しかし、共にその立場にあって解決すべきその愛というものが、それ自体が、自分たちのものではない。親が子供を愛する。愛する親にとってはそれは絶対的な愛である。誰も干渉しえない、その愛情を持っている。いわゆる親としての独特の愛である。しかしその愛情を自由自在に、自分の気ままにすることはできないんですね。愛というその愛は、ある法則のもとにおきまして、絶対的な権限を持って動いていることを、親自体も感じることができる。そういうふうに考えてみると、親が子供を愛するというその愛も、親自身の愛でない。そういうふうに考えるというと、愛の主人は誰か。その自体同士の愛している人たちの愛ではない。親が子供に対して愛している、その親の愛でもない。その愛の主人は人間自身から出発した愛でない、ということが言えるわけである。なぜか、自分の気ままにすることができないから。それで、愛の主人は誰か、こういうふうにつきつめて聞くというと、それは神に違いない、とそういうになるわけです。だから、我々が今、習っておる堕落問題、その愛がもしもアダムのものであり、天使長のものであったら、その自身が自分のものを持って自分の気のままにしたといって、それが罪になるわけがない。それが絶対圏内にある、それ自体がどうにもすることができない立場にある、天に神に属する愛であるからこそ、それが問題になる。この愛を、素直な立場に立ってこれを継げ得たならば、我々人類社会は愛に飢えた立場に立たないわけなんです。
しかし、堕落の結果、この世界は何を求めているか。我々の国においては、国家的福を求めている国もあるでしょう。あるいは経済的問題、政治的問題、あらゆる社会的問題を中心として、その国の栄えるのを願っている国があるかも知れない。それよりも最も問題になるのは何かというと、その栄える社会を聖なる道に導き得る、その中心問題たる愛の問題が最も重要な問題であるということを、この世界のすべての国は知っていない。また万民もそれに対して考えていない。
だから天は、我々人類におきまして真なる愛を、真なる一つなる天の心を通じえるその愛を、一人の人間を通して天的、地上的関係を結んで、平和の基点を造ろう、それが神の摂理の中心問題である。いかに自分はその幸福なる立場に立っておっても、その人におきまして、もしも愛という問題が欠けておれば、その人は不幸な人である。ま、日本におきまして、例えれば、ま、三菱とか、ミナカミとか、いろいろなその財閥があるんですけれど、いかに日本的な富財を持っていても、その富の頂点に立って満足しえるか、というとそうではない。そこにそれよりも尊き愛情的問題を解決した人でなければ、本当の幸福感を感ずることはできないというのである。だから、人間の理想を成しえる根本問題は、愛の問題が中心とならなければならない。こういうふうに思うというと、神は人類に対して何を授けようとしてきたかというと、愛という問題。天の父の愛情が、地上において一人の息子、娘に会って愛を継げ得る、その一点を捜し求めてきているという。これを果たしえないというと、世界上には、平和、幸福なる世界、あるいは地上天国建設、それが外的にいくらそういう関係を成しえたとしても、内的におきましては天国の内容を満たしうるものは愛の問題である。この相通じえるその一点の愛情、神と人間が共に会うその愛で結びつく一点を我々がこの地上に、ある強固たる基盤において、これを安着しておかなければならない。それが神の今までの摂理の願いであった。 四千年間、イスラエル民族を中心として摂理を成して、イエス様を中心としてその一点を求めようとした。しかし、求める環境は、一つの国家的基準を中心として求める。そういうふうにするには、長い四千年間の間を通じて、一人のヤコブの家庭を中心として、それからイスラエル民族を中心として、あらゆる困難の路程を通して、試練の立場にあるいは倒れ、あるいは再起する彼らを神が導き辿ってきて、そうしてイエス様を遣わそうとしたのが、四千年間の摂理であった。そうしてイスラエル民族としては、真なるイエス様に対して、(真なる)心を持って侍りえる関係に立っていたなら、この地上に初めて、神が求めてきた、愛の結び点を立たせようとしたのが、イエス様をイスラエル民族が歓迎し得なかったためにイエス様が十字架につけられたために、その愛の極致は我々、この地上に現われることができなかった。それでイエス様は新郎・新婦という名を残して、今まで二千年の間を摂理してきた。こういう歴史を通過してきておるということを我々はわかっておる。そういうふうに考えるというと、まだ、真なる愛情の基点は、地上に座していないということになる。それで、地上におけるクリスチャンを中心として、新婦の立場に立たせて、新郎を慕い求めるそういう歴史を、今までずうっと続けてきたのである。それが、ある一時におきまして、終末の一時におきまして、これが結びつけられなかったならば、神の摂理はまた延長の結果に立たなければならない。
こういう神の心情問題を中心として考えて見る時に、地上におる人間と神の心情の関係はどういう関係か。いかに堕落していても地上におる人間は、もともと創造原理によってみれば神御自身の子女である。子供に違いない。堕落圏内に入ってはいるんだけれど、もともとの創造原理による、その本性的立場から見たならば、神は親であり、地上に住んでおる、堕落はしたんだけれど、人間は神の子女に違いない。これを復帰の路程を通過しながら、僕の僕ですね。僕と言えば主人があるが、僕の僕と言えばそれは主人がない。僕が主人の立場に立つ。そういう立場から、僕の立場を、それから養子の立場を、それから真の子供の立場、こういう段階を通過しながら、いわゆる復帰の度を高めてきた。そして真の子女の基準を立たせて、神の愛と真の子女のかち合うその一つの基点を中心として、そこから六千年前に失われた神の心情が地上に初めて現われて、神の子としての神の愛情に立ちさわったその子供として、六千年間の神の心情における悩みがある。誰も慰めることができない悩みを持っている。その悩みを真の心情の因縁を持った子供として、その子供がその悩みを慰めてやらなければならない。そういう過程を通過して、神の心情内における堕落以前のその心情の思い、心情の感じをその子供の慰めによって、初めて復帰なさったというその基点を神の心情内にそれが定められなければ、完全なる心情の復帰基点をつくることができない。そういう基点を造って、そこから真の父母が現われてくるということになる。
堕落圏内において、神の心情内に、いわゆる人間の堕落のために悩んでおるその痛みを心情内に持っておれば、痛みを持っておる神自身は真なる創造理想に立った立場の真の父母を立たせることができる。いわゆる我々原理においては長成期完成期ですよ。そこからは、完成期。蘇生期から長成期、それから完成期まで進む道がある。その期間において再臨の主は何をするか。神の心の痛みを慰めなければならない。その心情の痛みを完全になくさなければ、真なる、完成した真なる子女として立つことはできない。そして真なる子女として立ちえなければ、真なる父母は地上に現われてこない。こういう観点において考えれば、統一教会におきましては、真の子女のことを今、言っておる。もう一段高めて真の父母のことを我々は言っておる。ここまで上ってくるには、六千年の苦労の道がある。蕩減原理における蕩減条件をみんな立たしてサタンと闘ってその真只中に勝利を得て、サタンより何一つ讒訴されることのない、その立場に立たないというと、真の親が現われることができない。こういう道を今まで神は摂理してきた。地上における我々の先祖たち、今までの先祖たち、あるいは聖人たちはその道の一片を補うために、それを満たさんがために働いて、そしてあるいはある者は犠牲にされていったわけなんです。
こういうのを考えてみると、我々統一教会という問題に、問題がかかわるわけなんですね。こういう立場から考えると、統一教会という教会は、平面的な立場に立った教会でない。これは立体的立場に立っておる関係を持っておる、人情的な関係を持って立っておる教会ではない。これは、天の心情的立場によって立っている。出発点が違わなければならないということになる。しかし統一教会が今のこの基準にまで発達しえたその背後には、君たちにはわからない、理解できないようなその苦労の道を辿ってこなければならなかった。それは、なぜかというと、六千年間の縦的歴史が横的におきまして、平面のある時間圏内において蕩減しなければならない。それが先生において二十一年間の期間になる。あるいは四十年の一つの期間圏を中心として……。いわゆる二十一年間の苦労の道を辿りながら、蕩減の闘いを続けて来ておるわけなんです。
ここにおきましては、過去におきましてサタンが一人に対して、神の摂理におきまして中心の責任を任せて立たせたその人に対して反対して勝利をした。サタンが勝ったわけですね。それからある時には、(摂理的中心)家庭に対してサタンが攻めてきて、家庭的摂理を破壊してしまった。あるいは民族的摂理を、あるいは国家的摂理をサタンがみんな侵してしまった。そういう基準が残っておる。それを歴史を代表としたある平面圏内において再臨の主がみんなつきあって、そしてまた再蕩減しなければならない。そういう闘いをしなければならない。そういう闘いをするには、サタンは世界的なあらゆるサタンを集中させて攻撃しておる。六千年間におきまして、神に対して逆らって来たそのサタンは、知恵の王者である。悪に人々を誘いゆくには、神よりも知恵を持っておるサタンである。神は善なることは成し得るけれども、悪なることは考えることはできない。しかし、サタンはその反対である。そういうサタンに向き合って、対決しなければならない。そういう立場に立つ時には、二人として立つことはできない。たった一人ぼっち、一人ぼっちにおいて立って、世界総合したサタンと対決して勝利を得なければならない。
その勝利を決するには、真理すなわち言葉において、実体において、それから心情において問題になってくる。堕落はどういうにしたかというと、言葉によって、それから言葉を侵してから実体を侵した。実体を侵す段階に入るというと、神の心情を侵してしまった。だから言葉におきまして、実体におきまして、心情におきまして、いかなるサタンの攻撃に対しても侵されてはいけない。そして、真なる真理を中心として、サタンに対決しなきゃならない。真なる実体として……。堕落した人間はサタンの血統にその因縁をもっておるんだけれど、再臨の主は神を中心とした血統の因縁を持って、実体の勝利者として立って、侵して来るなら侵して来い! そうして、それを追い払わなきゃならない。
またその愛情においては、アダムが神様を愛した以上の愛情を持っていかなくてはならない。そういう基準を中心として、たった一人、大いなるサタンに対して闘う。そして天の原則には、サタンも反対することができない。そういう基準を立たして、蕩減の路程を開発してこなければならないという立場に立って来たのが、統一教会の今までの、その発展の道になるわけです。個人の勝利を基準としては、それから家庭的な勝利、それを基準として、民族的勝利、それから国家的勝利、世界的勝利という段階に進んでいくわけなんです。こういうふうに考えてみるというと、では最後の問題は何か。その心情、神を愛する心情が中心になる。蕩減を成し得るか否かというその問題を決するにも、心情問題が中心となる。
いわゆる天使長なるサタンはですね、昔、もともと天使長たるサタンが堕落してサタンになったんだけれど、もともと本然の世界において、神に対する忠実なる僕でなければならない。万物創造をしえる六日間の創造過程において、神を愛した以上の心を持って、人間が神を愛しえなければ、サタンにおきまして讒訴を受ける。だから地上におる再臨の主はそういう立場に立って、神の心情を中心としてサタンに対決しなければならない。一人の対決はたやすい。家庭的対決、これは倍以上難しい。家庭よりも民族、民族よりも国家、国家よりも世界が問題である。
こういうふうに考えるというと、今、我々はどういう段階に入っておるかというと、韓国を中心として見れば、民族段階から国家段階を越えるその途中におる。今まで迫害を受けてきながら、すべての人々から迫害を受けなければならない。全民族が動員して反対しなければならない。反対しないというと、サタンの世界から完全復帰ということができないというんですね。復帰は蕩減条件を立たして闘って勝利しないと復帰はできない。そうなるというと、サタンの世界は全体が動員する。全体が動員して反対する立場において勝利を得なければならない。
それで、韓国においては韓国全人民から反対される立場に、統一教会は立たなければならない。これは神がそういう立場に追い出して立たせる。そういう立場に立って、我々は今までずうっと開拓の道を続けてきたわけなんです。その間を考えてみるというと、悲惨な場面が多かったんですね。ある者は旦那さんに追われ、頭が破れる、手足が折られるという、この地上におる悲惨な状態の現象が現われる。それが一つの主権に限って反対されてはいけない。三つの三段階の主権過程を通過しながら、そういう迫害を受けなければならない。それで韓国におきましては、今まで三主権が交代してきたわけなんです。最初は李主権、次は張主権、それから今は朴主権、この間我々は闘ってきた。地上におきまして誰一人として、共に立って慰めてやるわけにはいかない。完全なる蕩減条件を立たせなきゃならない。ま、こういう闘いを今までやってきた。
日本におきましても、皆さんも今、地方にあるいは伝道に行きまして苦労しておる。復帰の目的を完遂するには、上級からはできないというんです。復帰は下から行く。我々は最高の理想を持っておる。しかし、復帰をするには最下の所から復帰しなければならない。だから、イエス様も天のひとり子として、地上の最下の所までおりて、そして十字架の死を背負っていった。そこにおいて敗者にならない。勝利者になる。そこから復帰の道が開けたわけです。それから、イエス様の後を辿っていくクリスチャンにおきまして、今まで歴史過程を通過しながら、あらゆる犠牲を払って世界的蕩減の因縁を持って、復帰の道を開拓してきた。それが今まで二千年の月日がたってから、民主主義を動かす、キリスト教が、イエス様のその理念が、民主主義を動かすような段階に入っておる。ま、こういう原理におきまして、我々統一教会の今から行く道は、民族、国家過程を通過して、それから世界的過程を通過しなければならない。もしも韓国においてその基準を完全に蕩減したなら、外の国におきましては蕩減の条件が、そういらないというんですね。ある段階の条件はあるんだけど、それがある期間を、長い期間、何年かという期間はいらない。もしも完全なるその蕩減基準が、国家的な基準において立たせたなら、三年位たったら世界が動き出す。この限界をいかにして越えるかということが、今、我々の韓国におきましての食口たちの問題になっている。
こういう立場に立って我々が忘れてはならない重大な問題は何か。我々がこのように発展した後には、我々以上なる神の心情があるということである。この心情は喜びの心情ではない。悲しみの心情である。血だらけな闘いの真っ只中における、悲しい立場に立っておる統一教会の食口たちの悩みを、神は慰めなければならない立場に立っている。辿ってきた道跡に残っている心情の跡は悲しい、あるいは惨めなる心情の跡が残っているということを忘れてはならない。しかし、もう一段今から行く道が、過去よりもっともっと難しい、もっともっと痛烈なる闘いをしなければならない。それを考えるというと、また神は苦労をしなければならない。いつ神の苦労が尽きるか。我々はそれを考えなければならない。神の苦労を止まらせるには、早く世界復帰をしなければならない。世界復帰が残っている以上は、神は復帰過程における悩みの心情を持っていかなければならないということになるわけなんですね。ここにおける、我々統一教会におきまして、ある人のその苦労の立場に立っておる、迫害を受けている、一人の苦労なる立場を考えるというと、それも我々はサタンに対してそれを復讐しなければならない、という気持ちを往々に起こすことがある。しかし神はまだ六千年の仇であるサタンをまだ復讐することができない。それで、その圏内における我々においては、仇に対しての復讐という言葉は許されない。忍び忍んで行かなければならない。いつまで忍び忍んで行かなきゃならないか。神がサタンを裁きえる立場に立つまで、我々は忍んで行かなければならない。これが宗教人の悲しみである。いつかこの悲しみを地上から追い払ってしまうか、その問題が、我々、「道」の道、宗教の道を行く人々の責任であると考えざるをえない。
それでイエス様はこういう立場に立ったわけである。ローマの兵士たちが槍でもって自分の胸を刺す、そういう悲惨なる立場に立っても、それに対して反駁するよりか、却って彼らに対して祈りの言葉を持って祈らなければならない。なぜかというと、神がまだ仇に対して復讐をなさっていない。考えてみるに、そういう祈りをしなければならない立場である。それで今までのクリスチャンの歴史を辿ってみるというと、キリスト教の歴史は殉教の歴史である。なぜ殉教するか。神の愛する子供たちを全知全能なるその神は、なぜそういう悲惨な立場に立たせるか。それは神御自身におきましての解放の一日を持たない以上は、そういう立場に立たせざるをえない。それで神は我々地上の人間に対して願うことがあれば、「地上がどういうふうにして、一致団結して、この復帰の路程を通過してくれ」というのが神の願いである。そこまでには、我々はまだ苦労の道が残っていることを忘れてはいけません。
もし君たちが日本におきましてある地方の責任を持って伝道に行った、その地方から追われる。そういう真っ只中に立って、どうにもこうにもすることのできない、その立場に立って祈る。我々には神に対して祈る道がある。しかし神は祈る所がない。そういう立場に立って祈るその子女たちに対して、神はまだ、我々より以上、歴史的な悲惨なる立場に立っているにもかかわらず、自体における責任を全うしえる立場に立って、まだ現実における悲しみを背負っておる立場において、我々一人(一人)の祈りに対して慰め、あるいは導いてやらなければならない、惨めなる悲惨なる立場に立っているのが神である。そういう心情を持っておる神であることを、我々は忘れてはならない。
君たちが伝道に出て、どうにもこうにもすることができない、生命を投げうってもこの道を果たして行かなければならない、その身を捧げ物としても、天の勝利のある一点を残していきたいという、その最極の立場にあって神に祈った場合には、神はそれを責任として果たしてくれる。それを果たしてくれるには、神御自身容易なる道を辿ってきて慰めてくれるのではない。神から我々が祈っておるその立場まで来るには、善なる神が来るには、多くの段階と連絡しなければならない。だから、最極の立場に立って、最高の悲惨なる立場に立ってこそ、初めて神は直接その活動を開始することができるのであり、その以外には、神御自身が活動することができない。それで今までの歴史過程における義人・聖人たちが犠牲の立場に立っても真なるその心が、あるいは傷心の立場に立っておるある一人の真なる心が、神に願う立場に立って神が認める同情を受ける立場に立たなければ、神が同情することができない。そういう立場に立っておるのが、今の神の心情であることを我々は忘れてはならない。
それで君たちは、もし、日本を復帰するには、数多くの坂がさえぎっておる。これをいかに打開するか。経済力でもって打開する。これは一つの方便になるかもしれないけれど、それでは決定的問題を解決することはできない。何でもってやらなきゃいけないか。心情と体と言葉、三位一体となって、それを打開しなければならない。そこには物質的な条件が入っていない。いわゆる長成期以上の基準に立った、神が認めえる真の子供としてのその立場、もしもそうでなければ、そういう信念、信仰心をもった子供のその立場に立って、神に頼る真の心情と神に頼る真の実在と、神に頼る真の子供、信仰心を中心として、真実となる責任を全うしようとする立場におきまして、神は我々に対して救いの手を伸ばすことができる。そういうふうになっている。
そういうことを考えてみるというと、いわゆる日本におきましても、すべての蕩減の基準を、全体的からはしなくてもいい。ある特定なる数の人は、蕩減の中心人物として日本復帰のために蕩減の条件を立たさなければならない。それには宗教だったら、宗教の基準を中心とした蕩減条件ばかりではいけない。日本の社会全体を復帰するには、あらゆる方面においての、そこにおいて自由意志なる責任を持った、そこにおいて真なる人が、神に真なる信仰心を中心として、初めて、そこにおきまして、そういう立場を代表しえるその一人を立たして、そのある階級なら階級を蕩減条件として立たしえる。そうなるとあらゆる部門において、蕩減の条件を立たせなければならない。その最初の条件は何か。物的条件ではない。だから宗教は、物質的問題を否定して出発する。そればかりか、もっともっと自分の実体まで否定して出発する。今まで堕落した自分自身のすべてを否定しなければならない。その否定の基準におきまして、神が認めうるある基準を立たせる。それが我々堕落した人間としては、立たせることができないから、そこにおいて救い主とか、あるいは代表的指導者とか、そういう人たちを立たして、その人たちが立てた蕩減条件を我々に取り次いで行かせようというのが、神の摂理なのである。
だからイスラエルにおいて一人の代表者としてヤコブ、家庭の中心としてのヤコブ、イスラエル民族の中心として民族の中心指導者としてモーセ、モーセを中心として、ずうっと、イスラエル民族を中心としてヨハネを中心としてイエスに至るまでずうっとその代表的な基準をつないできたわけです。そうするとイスラエル圏におるすべての人たちは、その時代的代表者の信仰心、それらがその蕩減条件を立たせたその条件に信仰で立ち、すべてを否定しえる立場において、先祖たちが立たしたその基準に立つ、そういう時におきまして蕩減の因縁が結ばれる。それがある期間を通過しなければ、我々は蕩減されたというその基準を立たせることはできない。
だから韓国においては闘いの七年間が残っている。これが家庭から氏族、あるいは国家的過程を通過するには、そういう期間が必要である。そういう期間において勝利したならば、勝利したその心情の基準を君たちは世界に広がっている統一教会の信者たちが真なる信仰心を持ってそれを取り次いでいけば、その基準を、君たちは、いわゆる蕩減条件を立たせなくても越えることができる。それである中心的ひと所において、個人的、家庭的、氏族的あるいは民族的、国家的苦労をさせ、あらゆる方面から攻め寄せて、そしてサタンの方から攻めよせて蕩減条件を立たせなければならない。そういう立場に立っておるのが、韓国である。だから韓国はいつでも緊迫なる情勢の立場に立って、今までずうっと来たわけである。韓国におるその国民はわからないんだけれど、我々にとっては、それがどういう段階を通過していくかということをわからなければ、それ自体を完全復帰の圏内に導くことはできないということです。
こういうことを考えてみるというと、今後また行かなければならない道が残っておる。我々が数が多くて全国家的勝利を得るとしても、その数的、量的問題を中心としては、勝利を得ることはできない。質的蕩減条件を中心として行かなければならない。こういう立場に立って、先生は今まで闘ってきたわけなんです。
先生において今まで四十数年の間、ずうっと過去を顧みるというと、ある時は悲しい時もあった。ある時には悲惨な立場に立ってそのまま嘆く立場に立ったこともある。表現しきれない悲惨な立場に立ったこともある。しかしそういう立場に立っても、神に対して慰めを求める、救いを求めるというような祈りをすることができないという立場が、先生の立場である。なぜかというと、アダムはもともとから神に逆らった、逆らった。もともと神から全部を授けられた、それを自分自身ながら投げ出してしまった。そういう立場に立って、また神から祝福されるということは、その天の原則としては許されない。だからある蕩減の限界に入るというと、死にたくなる。そういう立場に立つときには、祈りも何もすることができない。そういう立場にあって、あらゆるサタンの方から狙われる。神の方からはその立場を見ながら、どうにもすることができない。その攻撃に立ち寄ってもそれに屈伏してはいけない。
なぜかというと、人間自身にサタンが残っているから、分別しなければならない。その分別圏内におるその段階においては、心情ばかりでは通じないというのです。それを分別しておいてそれを分けよってから、神ばかりによる立場に立って心情を中心として、それからその基準から裁きという問題が始まる。その限界を通過する前には、何でもってこれを分別するかというと、知恵でもってやる。その立場に立った時には、神も教えることができない。それは他人の間におけるその体験によるサタンに対応する戦法、闘いの方法をあらゆる方面から活用さして、そして環境を分別してサタンを追い出さなければならない。そう闘いをしなければならない。
それで先生におきましては、今もそういう闘いをしている。それは本部におる協会長にも誰にも相談することができない。たった一人でこれを解決していく。お母様はお父様についてきます。絶対服従すれば通ずるんです。堕落したのは何かというと、エバがアダムを主管したのが堕落である。復帰されるには、アダムに完全に主管されなければならない。しかし最先方に立って闘うのは、アダムがやらなければならない。サタン側は世界的主権を持っておる。そして今まで三十六億の人民を悩みの底に落としてこれを悩ましておる。その大主が誰か、サタンである。サタンがサタンとして立ち得るようにその決定的解決は誰がしたか、アダムがした。エバじゃない。アダムは主管を転倒されたんだから、その権威をサタンの方に譲らなければならない。だから最後の決断をしなければならないという立場は、どこまでもアダムである。これを世界の果てまで追いよせていかなければならないというのが、先生の使命であるわけです。
そういう立場に立っている先生として、いつも考えるのは、その考えるその中心となるその心情は何かというと、いくら自分が辛い立場にあっても、いくら悩めるどん底の立場に陥っても、その一心の底の願いは何かというと、自分よりも悩んでおる天の父であるということである。自分における四十数年間の苦労は限られた苦労である。しかし六千年間の神の苦労というのは、我々人間にどうにもこうにもそれはわかりきれる悩みじゃない。(そのことが)わかればわかるほど、我々は頭を下げなければならない。わかればわかるほど従順、謙遜にならなければならない。人間は百遍、万遍死しても、その神の心情に報いることのできる、その何ものもないということをつくづく感じる。ま、そういう立場に立って、神に対して、感謝の念を持って行けば、その一人子を見て神は新しい希望を持ちながら、蕩減の世界的道を越えて行かなければならない。それをいつも考えておった。
もし君たちが、辛いことがある、苦しいことがある、たまりきれない辛い立場に立っておっても、我々がいつも思わなければならない中心問題は何かというと、神の心情界においては喜びの心情界はまだまだである。悩みの心情を今まで、まだまだ抱いておる。その痛みの心をいかに我々は慰めるか。我々統一教会信者としての重大な責任である。だから闘って勝利を得たという立場に立てば、自然と涙ながら神に感謝しなければならない。今日の勝利は、今の勝利は、我による勝利じゃない。一から百まで千万まで、すべてが神による勝利の決定的動機から出た勝利である。だからそれを知った立場に立つ人たちは、涙ぐましいところを通過しながらも、感謝の念を持たなければならない。それでイエス様は十字架の路程を通過しながらも、神に感謝の念を持ったのです。十字架の死の後にも感謝の念が残っていなければ、復活できないというのです。だから我々は闘って、また闘わなければならない。勝ってまた感謝を持って世界に向かって闘いの進路を進めなければならない。こういう立場に立っているのが復帰の過程である。これを君たちは忘れてはいけない。
一瞬のその苦しみは、我々は忍びえることができる。しかし堕落以後、今まで続いてきたその神の苦しみは、耐え忍びえる苦しみではない。しかし神はこれを耐え忍んできた、忍耐心を持って耐え忍んできた。だから神自体におきまして堕落以後の神の足跡は何ですかと聞けば、「我は忍耐である」と答えるでしょう。また、「我は惨めである……」と。もしもそういう神の心情を知った神の子女たちがおれば、いかなる苦労の道、いかなる復帰の路程でも、我々は責任を持って行かなければならない。一国のその復帰の摂理の責任ばかりでない。世界的あらゆる人民を我々が責任を持って、万民の死を、全体的死を総合した立場において我一人子としてついて行きたいという願いを持たなければならないという立場に立たされている。これが、復帰路程をわかった我々統一教会の各個人としての心情基準でなければならない。
しかし、我々はこの現世において、一代において今まで苦労した神の心情を追い払って、喜びの世界的心情基準をいつ見るや。地上天国を完成して、天上天国とともに、神が地上、天上、ともに中心となって、いわゆる地上解放を訴えながら、霊界に行っているすべての霊人体の、第二の解放が許される喜びの日を迎える、その日をいかにして我々は神に迎わしてあげなきゃならない。こういうことが我々一代において成しえれば、これ以上の幸福なことはない。神は一代においてこの基準を解決しなければならない。もともと根源からいえば、一代においてこの問題を解決しなければ、完全なる蕩減基準を果たしえたという基準を認めることができない。それで、一代、二代、三代あるいは条件を立てて復帰の路程を延長していくという問題も考えるでしょう。
そういう立場に立って考えれば、先生の責任はこれは重大な責任である。朝起きるのも、その問題を考えながら起きる。一日の生活すべての活動において、そういう心情の基準をなくしてはいけない。夢の中においてもそういう心情でもって……。この天宙で一番可哀そうなお方は誰か。神様だ。それを慰める人はこの中に我一人しか残っていない。そういう立場に立っている悲しみ。もしもある人が先生に向かって、「先生はこういう心を持っておるでしょう」、先生の悩む真のその心の根底を指すならば、一時に泣き出すような心情である。そういう心情を中心としての毎日の生活を連続していかなければならないというのが、復帰路程の蕩減条件下にある先生の立場である。
こうして今、東京地区におる兄弟が集まってきたんですが、この数を動かしていかにして全日本を復帰しえるか。ここにはあらゆる苦労の道が続いている。誰がどういうようにして、どの分野を数多くの分野を責任持つかという、その比例によって、日本復帰においての時間の短縮が決まる。時間を短縮させるには、それに比例したる我々の血と涙と汗が必要である。現代の青年たちが自由自在に動く立場ではどうにもできない。それで我々はあらゆる環境を無視しながら、真なる蕩減の道を責任を持って行かなければならない。日本においても同じ事であるんでしょうけれども、青少年問題が問題になっている。これは日本の国家的問題になっておる。これは日本ばかりでない。世界的な問題になっている。それは現実において満足主義、そういう立場において個人主義の立場に立っているこの若者たちをいかにして復帰するか、そういうふうにするには、これはなかなか難しい。
神が民主主義をある時期におきまして、神に帰りえる一つの道、その方便として立たされたのが民主主義である。再臨の主が来たならば、世界的主権を一つにまとめてそして神に帰らせようという思いで民主主義を許した。その民主主義自体が、神の前に一つの障害となっておる。この前先生は西洋に行ってみたんですがね、青年たちを彼らを導くには、数多くの犠牲が払われなければならないとつくづく感じた。それで西洋よりも東洋が早い。物質文明に富んでるその国よりも悲惨な国が早い。彼らは心情的に天に近い立場にある。悲しいことを感じる。こういうふうに考えれば、東南アジア一帯、あるいはアジア一帯に対しての我々の責任は重大である。そして東洋を動かして西洋を救わなければならない。こういう問題になってくる。
それでどうせ日本の復帰をしなければならない。できるんだったら近いうちにしなければならない。我々の時代圏内において果たさなければならない。そうするには、犠牲をもっと払わなければならない。個人的犠牲も犠牲だけれど、団体的、我々統一教会的犠牲が必要である。目的は一つである。日本復帰。復帰するには安定なる立場では復帰はできない。供え物を献げる立場は血を見なければならない。打たれなければならない。打たれ打たれ忍びきって、そこにおいて余らなければ蕩減条件は立たない。だから神は打たれて、打たれながら奪ってくる。こういう戦法を取る。だからいかにして我々、統一教会は、我々兄弟たちは善の立場において、日本全体から攻められるか。全体が一体となって一時に攻めて、そして我々統一教会を屈伏させえなかったならば、もし闘って残って屈伏し得られなかったならば、そこから全日本的復帰の出発がなされる。だから我々はそういう活動をするには、全国的活動をしなければならない。活動は安らかな道をたどっていくんじゃない。苦しい道を辿って行かなければならない。善なる立場によって神を代表し、善なる立場に立って悩む立場に立って、そして善の道を開拓しなければならない。
その立場において君たちが辛い時があれば、神の心情を思え! 君たちが打たれるという立場に立つというと、神も共に打たれる。君たちが涙を流す立場に立つというと神も共に涙を流す。悩む立場に立つと神も共に悩む。しかし悩む神においては、我一人ばかりでない、全世界の万民を背負って救いの段階を引き寄せながら、君たちを慰めなければならない立場に立っている神を忘れてはいけない。我を慰める神の心情というのは、我より以上の辛い立場に立って、我々を慰めなければならない神の立場を思う時に、辛い立場に立っても、辛いという思いを持つことができない。辛いという思いを起こすことができない。これは当然なことである! 当然のことである。もう一歩進んではもっともなことである。なくてはならないことである。必然の問題である。偶然の問題ではない。そう祈らなければならない。もしもここにおいて路傍伝道をするその時には、いつも一人ぼっちで立ってするとしても一人じゃない。いつでも、その信念は日本的である。立ったその立場は、全日本の国土を一つの祭壇として、そこに集中して最頂点に立った自分である。そういう立場、日本にあらゆるサタンが残っている。「すべてのサタンは、我に立ち寄って来たまえ!」、そういう立場で伝道する。そういう経験が必要ですね。
だから堕落圏内の我々におきましては、誰でも七年間は苦労しなければならない。神におきましては、七千年間、ずうっと苦労しなければならない。本当はですね。キリスト教も、真なるその天の心情に通ずる人がおったならば、七世紀圏内においては、再臨のある期間があったわけです。その時期におきまして再臨されえるはずであった。しかし、人々がそれをわからないから、今までずうっと延長してきたわけです。だから天におる神におきましては七千年間、地上におきましては七百年間、「道」の道を行く人にとっては七十年間、だから七十年間は独身である。神はひとりぽっちである。キリスト教が、まだ新郎・新婦が会えない。一人一人だ。だから、神におきまして七千年間、地上におきまして七百年間、「道」の道を行く人において七十年間奉仕しなければならない。すなわち今までの宗教においてすべての信者たちは、七十年間奉仕しなければならない。七十年間奉仕するのは、神は一人ぼっちである。真なる父母様が、まだ相手がない。相対基準を立てえない。だから宗教、真なる宗教、高級の宗教は、独身生活を主張しなければならない。七十年間過ぎれば、もう皆年取ってしまう。その時に結婚させても仕方がない。
それが、七十年から七年間に狭められた。これが統一教会の使命である。だから最下の級として、七年間は苦労をしなければならない。それで我々統一兄姉におきましては、誰それも七年間は奉仕しなければならない。他宗に打たれなければならない。七年間は全体に対して、全体を敬わなければならない。いわゆるその七年間は何か。アベルの、アベルとしてのアベルの位置を決定しえる期間である。アベルがアベルになるには、カインの供え物を神が受け取らざるをえない立場に立たないというと、アベルの立場に立たれない。
その七年間、アベルは何をするか。アベルの使命は何かというと、カインを解放する期間である。そういうようになっている。なぜそういうふうにしなければならないか。神の立場がそうである。神が愛する立場がアベルだから、そのアベルがカインを救わなきゃならないというのです。救うには神から愛されるその基準まで、カインを愛さなければカインが復帰できない。神から愛され、アベルの立場に立っておるそのアベル自身としてはカインに対して、「自分が神の愛を受けておるから、我に屈伏せよ」、そう言ってはいけない。アベルを立たせたのは、カインを救わんがためである。救うには神から受けたその愛を、そのままそっくりカインの方によこしてやるとともに、自分の愛情をかねて、合わせてよこさなければならない。それがもともとのアベルの立場である。こういう立場を基準として、今まで復帰してきた。それで神は、今まで自分が愛しなければならない、あるいは僕をサタンの方に渡し、責められて、あるいは殺されて、犠牲になってカインを連れて来なければならない。
犠牲になる時には神の愛情を表現せんがために、自分の愛情とともに合わせて犠牲になる。そうなるというと、それに参加した関係したすべてのカイン圏は壊れ始める。そこから復帰の道が開けるというんですね。ここから道が開けて、殺された、犠牲になったアベルを条件として、みんな神の方に越えていく。だから、神の歴史は、愛する者を打つ歴史である。それがなぜか、神がそうなっている。神から見れば、堕落した人間はサタンの息子である。仇の息子である。これは裁かなければならない立場にある息子であり、娘である。こういうサタンの子女を救うには、神の愛情を中心として、救わなければならない。愛情を中心とするには、愛する人たちを打たなければならない。神の立場がそうである。だから他人の息子、娘を救うために自分の子供をその立場に立たせるというのが神の愛である。それでこれが解決できないというと、自分の愛する立場に立っておるその人たちを供え物として、犠牲にさせて、一人を犠牲にして三人以上救われれば、神は自分の方を犠牲にする。
こういう戦法を。そういうふうに考えると、先生におきまして、例えれば、先生に属しておる人たちはどうすればよいか。世界を復帰せんがためには、君たちを打たなければならない。打たれる立場に立たさなければならない。だからイエス様は、そういう歴史的な神の心情をわかったんだから、アベルになるんだったら絶対的なアベルになれ。それでローマの兵士に対して祈って、従順なる心を持って、死を、神が同情しえる立場に立って迎えた。そうして我、血を流して万民が解放され得る。我が死ぬのは、我自身の目的のために死するのではなく、救われる人々の目的のために死するという基準が、サタンの方もカインの方も認めざるをえないというその基準が決定化されたから、イエス様は復活しえる。サタンは復活圏内においては讒訴できない、ということになるわけです。
そういうことを考えてみると、どういう人が真の統一教会の兄姉であり、食口であるか。日本の本部からみれば、教会長から誰それも願わないところによこして自分一人ぼっちに、すべての責任を持って命令を受ける。神における、日本における、その立場におけるアベルである。そうして、打たれるのが自分の生活である、奪われるのが自分の生活である、そういう立場に立つ者が多くなれば、日本は早く復帰される。君たちも特に考えるでしょ? 善というものは、奪われてなくなるものではない。考えてみな。奪われれば奪われるほど栄えるものである。大きくなるものである。悪というものは、そうじゃない。反対である。悪が奪われるということはないんですがね。善なる立場に立って、神の前にあって善なるアベルの立場に立って打たれ、奪われる立場は不幸な立場ではない。もしも、そこにおいて死したならば、花が咲く。もしも人がそれをわからなかったら、天上の天使たちがその立場を守ってくれる。その死したる日におきましては、天のすべての霊人たちは、その日を祝福する。地上で祝福する人がなければ、天上で祝福する。そうなるとその立場は、地上において栄えるようになるのですね。こういうようにして善の犠牲者を中心として復帰の道は広められていく。こういうふうになっている。
それで神の心情は、地上の再臨主を中心として、ある一点において一体とならなければならない。しかし、その一体となるというのは、喜びの心情圏においての一体じゃない。悲しみの心情圏において一体とならなければ、喜びの心情圏において一体となることは不可能である。統一教会の人たちは心情問題を言う。その心情問題は二つの方面がある。それが一つの境を中心として、悲しみの心情と、喜びの心情である。そういうふうに考えると、今までの神における心情は、悲しみの心情ばかりである。喜びの心情はまだまだである。我々が願うのは、悲しみの心情を慰めることが親孝行する孝子としての願いではない。悩みの心情を慰めるのではなくて、喜びの心情を中心として慰める。そこにおいて親孝行しえる道が我々の望みである。
この限界は何がその境目となっているか。全人類がなっている。それで、イエス様は天国に行きまして神の御座の右の方に座して祈らなければならないと聖書にもあるように、そういう立場に立たなければならない。そうすると我々はいかにしなければならないか。日本だったら、日本を早く復帰せよ! 数多くの国々が手を握り合い、民族を超越し、民族感情を超越して、天的感情につないで、そして一体とならなければならない。どの国が先になって世界的復帰の問題を責任持つか。他の国よりも我が国が先に立ってやる。そういう問題の闘いですね。神はそういう闘いを喜ぶ。国同士で神に奉仕することに先立つ、その立場を争っていくのを神は歓迎する。
それで我々は何を願うか。惨めな国と栄えの国、最高の国と最下の国。中はいらない。中はそう問題じゃないですね。この二つを握って回せば円が描ける。それで惨めな、最下の国は何ヵ国必要か。三ヵ国。また、上級の国は何ヵ国必要か、四ヵ国が必要だ。合わせて七ヵ国になるんですね。これだけ摂理圏内に入れたならば、世界は復帰しえるというのですね。
子供をたくさん持っておる親の、その心は平等である。しかし、一番最初の息子はあらゆる部門において備わっておる。一番最後の子供はかたわである。そうなると、心情的立場による父母の心はどこに向くか。長男の息子に向くか。それとも一番びりの息子に向くか。それは言うまでもない。惨めなる子供に心情は向く。心情はなぜそういうところに向かなければならないか。それは神の心がそうであるから。だから神は自分の愛する人たちを、かたわの立場に今までずうっと立たせてきた。その立場が幸福のもとであるという。世の中のあらゆる歴史過程を通過しながら、神に頼る人々は、かたわみたいに生活してきた。それはなぜか。一つしかない真なる神の心情を供え物、捧げ物として授けんがために我々をそういう立場に立たせた。これがたった一つの愛情の心の現われである。それを思う時に我々は、キリスト教を思う時に今まで殉教の歴史でもって、ずうっと続いてきたということを考える時、いつも打たれ、いつもかたわみたいな、地上に生活をしながらも皆に歓迎されずに追いに追われて、そして惨めな立場に立ってその生涯を過ごしてきたことを考える時に、それは(その人たちをして)誰よりも神における愛の心情を独占させんがためにそういう立場に立たしめた。それを思う時に、先生は君たちをそういう立場に立てたい。我々統一教会の人たちにおきましても、心情的に見れば愛さなければならない。愛しておる。しかし、復帰という問題を中心として世界的な愛をしなければならない、もっと範囲を広くして愛さなければならないという問題を中心として考えれば、君たちはかたわ、びっこみたいな立場に立たされなければならない。その結果はどうなるか。悲しみの心情を同情しえる親心を持って考えれば、悲しみの心情の主体なる神におきまして、悲しみの立場に立っておる子供をその心情全体を代表して、愛せざるをえないというのですね。だから、こういう立場が時が過ぎれば、個人・家庭・民族・国家・世界的復帰路程を通過したならば、そういう立場に立って通過した民族があれば、そういう立場に立った人たちがおれば、その人たちは幸福になる。
神の喜びの世界におきまして、神の喜びの心境の圏内に初めに向かいうる人々になりえるから、神は長い歴史観におきまして、自分に近い人々を苦労させた。だから長い間苦労したその悲しみの心情を共に体験して共にあいよっていった人たちが、神の喜びの心情の初めを共に参席することができる。だから、今までキリスト教は、惨めな宗教であった。またいろいろの宗教もそういう過程を通過しなければならなかった。それを思う時、我々統一教会は一致団結して日本の復帰のために、神から見ればかたわの立場に立つべきですね。
世界から見れば、「日本の一億国民は愚かな人々である」(とされても)、しかし、それは問題じゃない。神からみれば同情しえるかたわの立場に立っておれば、不幸なる感じを感ずるな。その期間を続けて続けて続けて、最後までやりぬけ! そこには世界的天宙的幸福がある。我々はそれを願って出発しなければならない。また、そういう立場に立たずにいようとしても、どうしても立たなければならない。我々は天の理想をわかった以上は、この道を放りっぱなしにして他の道に行こうとしても行かれない。行ったとしても、また戻って来なければいけない。そういう運命に立っておる。そういう立場だったら、あっさり我々は直進しよう。(笑い)。まっすぐに進もう! そこには何も考えない。
親が反対することもあるでしょう。ある時には友達が悪口を言うこともあるでしょう。あるいは先生たちが批判するとか、いろいろ社会的な遮る道もあるでしょう。それが問題ではない。我に手足なくして真ん丸い体だけあっても、親より愛情を受ける子供になって、親が死する時に、「君は最高の親孝行をした」という名札をつけられれば、その人は親孝行において第一人者になる。そうなれば、その人は親のすべての財産を相続しえる。だから先生もそういう事を考えて今まで忍んできたんですね。まだ行こう。君たちは? どうする?(「行きます」)。行きます?(「はい」)。
だから、そういうふうに考えると、御意に立って、天の使命を受けて、もしも打たれて手がかたわになれば、これは幸福の象徴だ。自分の体に忘れえざる傷を残すのは、永遠の光の世界におきましては、光のもとである。讃美のもとである。先生はそういうことを考えてる。だから、あるいは牢屋に引き込まれて、打たれて、血を吐く立場におきましても、それを見て、微笑む。「いよいよ時が来た。これをやり損ったら歴史を失ってしまう。善なる先祖たちの功績が飛んでしまう。民族的基盤が崩れてしまう」。だからそういう緊張した立場を辿ってきたら、その環境はどうでもいい、それが問題じゃない。自分自身において緊張せざるをえない。そして「神の法に徹していこう」、そういう信念でもって、歴史的その人より変わったその立場を行くならば、その後は勝利の決定圏が決まる。そこからいくら死のうとして、死ぬところがあったら飛び出して行ってそこを辿って行けば、またその道が平和の道である。そういうふうになるよ。
だから復帰路程を完全に越える過程におきましては、七回以上死を決する、そういう過程を通過しなければいけない。どうせ神の御意がわかり、どうせこの道を行かなければならない。必勝の使命として行かなければならないんだったら、早く死んだ方が幸福であるというんですね。長い間苦労するよりも早く死んだほうがいい。長い間苦労するよりは、真心込めた、忠誠なる心を持って、重大なる問題に、世界的な問題に捧げてしまう。はっぱとして破壊する、爆発する、それが堕落した人間としては素晴らしい立場である。先生はそう思う。そういう立場に立って、死のうとして飛びこんで行くというと、「ああ、死んだ!」と思えば、平和なとこに行っている。これはもう高い崖から海に落ちて今死んだと思ったら、平原の真ん中に来てたということが多い。だから、自分ながら、死ぬ道を研究していく。(笑い)。ちょっと言い方が何ですがね。それでもって、もしも、神の御前においてそういう最期を遂げたなら、その人はちゃあんと行く所は決まっている。特に私はこう思うんですよ。この統一教会の誰が第一代の殉教者になるか。我々は世界復帰のために世界的戦いをしなければならない。善の戦いを展開しなければならない。その過程におきまして、ある時には、不意に攻撃されて、思わざる死の立場に立つ人もあるでしょう。その人は第一代の殉教者になるわけですね。ステパノですね。ステパノは知恵の人間じゃないんです。冒険性のある、ちょっと足らない、しかし生命をかけるときには、これそういう気質が要素になったわけですね。それでもってキリスト教の第一代の殉教者になった。殉教史を神の側から見れば、第一代の殉教者なるステパノは、そういう立場からみれば、使徒たちよりも高い立場になる。
結論として言いたいことは、神の心情は悲しみの心情の歴史過程を通過して、まだまだ喜びの心情圏は始まっていない。誰を通して、この心情圏を始めえようか。我々の幼きこの身を献げて、その道を開かなければならないという使命がある。それをするには、それを全うするには、苦労の道を行かなければならない。犠牲を払わなければならない。そういう立場に立って、我々は何をも惜しむ気持ちを持つな! 辛いということを思うな! 神を考えてみなさい。我々以上、歴史的な辛い立場に立っておりながら、我々を慰めておる神の心情を思うときに、我々よりももっと辛い立場に立っておる。また世界万民が残っておる。彼らは、我らの救いの手を出してやらないと、救われない。死の境界で忍んでおる。彼らと自分たちと比べてみると、彼らは不幸な立場であり、我々は幸福な立場である。彼らはまだまだやらなければならない。
そういう立場を考えながら、自分の辛さを忘れながら万民のために生命をかけて、涙を流しながら自分の犠牲を喜びとして、祈る努力する人がおれば、その立場は神が我々を救う立場と同じだから、我々は神の苦労の立場、神の辛い立場に参加した条件を立たすことができる。その立場に立つというとその立場は神の心情がその人から出発をなしえる。その立場、その圏内から天国が始まるわけなんです。これを我々は神の身代わりとして、神が我々の立場をその慰めえる立場と同じように、我々も世界万民を慰めえなければならない立場にある。やってやりたい。やってやりきれない心で持って、やりたい立場に、神の立場と同じような立場に立って行くならば、万民の祝福は我々の手より始まる。万民の幸福の始まりは、地上天国の始まりは、そういう人たちから始まるということを忘れてはならない。また、それを我々はやらなければならない。そうならざるをえないという立場に立っている。なぜかというと、神がそういう立場であるから。それが堕落世界の悲しみの心情界における歴史的な使命を、神がそういう立場に立って持っておるんだから、我々もそういう立場において、歴史的使命を万民に対して果たさなければならない。だから、そういう立場において、神の子となり神の娘となる。決定される。さあ、祈りましょう。
祈祷
天の父よ、神は我々を求めて来たということをわかりました。その辛い道を忍んで来たということをわかりました。いつ、神におきまして、真なる息子・娘に会うて、自分の心中のあらゆる事情を吐露したその時がないことを我々はわかりました。今日、日本におる食口たちをここに会わして下さった神の御恵みを感謝致します。我々がこういう関係を持ったのは、地上のある関係でもってなされたことではありません。神御自身の因縁でもって我々を結んで下すった、この心情圏を神はもっともっと強くなさしまして、神が求めえる最高の勝利者の立場に立たせることができますように。もっともっと我々に真なる命令をなさして下さい。ある所に我々をよこし、そうして、戦いの真只中におきまして、神の身代わりとして、万民のために涙を流しながら、救い主の身代わりとなるように、我々をよこして下さい。
日本の一億国民を神は愛すると共に、全世界の万民を愛する神の愛は、これを我々の手を通して、つなげなければなりません。まず、日本を愛し、そうして日本を愛すると共に世界を愛し、世界を愛すると共に、霊界すべての天国を愛しながら、その真っ只中に立って神に最高の奉仕をなさなければ死ぬことができない。最後の決断を決めて、神に奉仕しえるすべての者になるように、今日心からもう一段、決意するように神御自ら、励まして下さらんことを切にお願い致します。
今日を初めとして、今後のあらゆる問題に対して、神の声にかなうような立場に立ってすべてを解決し、すべてのことを思いながら、共に会う期間におきまして、神の喜びのある一点をこの日本の地に残すことができますように、神御自身があらかじめ内心的に決めまして我々を御導き下さらんことを切にお願い申し上げます。
どうか、我々につたないところをすべてを主管しまして、神の願う目的に立たして、最後まで残り、最高の勝利を得るような、忍耐強い子供・娘になるように内心を励まし、そして、未来の勝利を御自ら誘い、そうして、勝利の道を開拓することができますように、神恵みて下さらんことをお祈り申し上げます。
ここに参席できなかったこの日本の地に広がっておる兄弟姉妹をこの時間、同様に同じく御恵み給え。そうして、彼らの心に慰めを持たして、最後の戦いの境界基準を突破しえる天の勇士となるように神御導き下さらんことをお願い申し上げます。どうか神の摂理の願いが我々の努力におきまして、この日本の地に早い期間内におきまして、全うしえらんことを心より思いつつ、真の父母の御名を通して、お祈り申し上げます。(アーメン)。
|