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毎日新聞2024/5/4 東京朝刊有料記事1906文字
東京・三宅坂の陸軍省記者クラブで日米開戦の発表文を読み上げる大本営陸軍報道部長の大平秀雄大佐=1941年12月8日撮影
79年前の戦争が改めて注目されている。発端は4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊(さいたま市)が公式X(ツイッター)で、硫黄島(東京都小笠原村)の戦いに関連して「大東亜戦争最大の激戦地」と表記して投稿したことだ。「侵略戦争を正当化するのか」「当時の政府の閣議決定で認められている。何の問題もない」などと論争になった。
政府は「大東亜戦争」という呼称を公式には使用していない。同連隊は8日、この表記を削除した。木原稔防衛相は9日の記者会見で「激戦の地であった状況を表現するため当時の呼称を用いた。その他の意図はなかったと部隊から報告を受けた」と説明した。
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大日本帝国(帝国)は米英などと戦争を始めた4日後の1941年12月12日の閣議で、37年から続いていた中国との戦争を含めて「大東亜戦争」と名付けることを決めた。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は「大東亜戦争」の呼称が軍国主義と緊密に関連するなどの理由で公文書での使用を禁じた。52年のサンフランシスコ講和条約でその使用禁止は失効した。それゆえ今日、その呼称を使うのは自由だ。
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私は本紙で帝国の戦争に関する記事を1000件以上書いているが、「大東亜戦争」という呼称を使ったことはない(引用を除く)。GHQが禁じようが禁じまいが、使うべきではないと思っている。二つの意味で、不適切だと考えるからだ。
まずは、空間的な不適切さ。帝国は中国との戦争が続く中、米英などとの戦争にも踏み切った。典型的な二正面作戦だ。軍事力では、国力ではるかに勝るアメリカを屈服させられないと、当時の帝国の為政者たちも自覚していた。純軍事的にみれば、正気の沙汰とは思えない(どうやって戦争を終わらせるつもりだったのかという「終戦構想」については稿を改めて論じたい)。
開戦後、帝国は国力に到底見合わないほど戦線を広げた。東はハワイ、西はビルマとインドの国境。北はアリューシャン列島、南はオーストラリアまで。「東亜」とは一般的に東アジアを指す。「大」をつけて範囲を広げたとしても、東南アジアを含む程度だろう。37年以降の戦争が「大東亜」に収まらないのは明らかだ。
もう一つは歴史認識の問題だ。「大東亜戦争」という呼称は帝国が自らの戦争につけたものであり、それは帝国が標ぼうした「大東亜共栄圏」「欧米が植民地支配しているアジアを解放するための戦争」という歴史観につながっている。
しかし、本当に植民地を解放するならば、もともと他民族が暮らしていた地域、たとえば台湾、満州国、あるいは朝鮮、さらには第一次世界大戦の結果事実上の植民地としていた南洋諸島を「解放」すべきだった。が、帝国にそのつもりはなかった。開戦後、日本軍は東南アジア各地を占領して軍政を敷くことになるが、狙いは「治安の恢復(かいふく)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保」(「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯5」)だった。各地域の独立より優先すべきは、戦争を継続するための石油などの戦略物資を獲得することであり、現地に派遣された軍がそこで活動できるための環境整備だ。
さらに注目すべきなのは、43年5月31日の「御前会議」(昭和天皇が臨席する国策決定会議)で決まった「大東亜政略指導大綱」だ。占領地域をどうするかの方針が書かれている。そこにはビルマ、フィリピンを速やかに独立させる、とある。一方でマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは「帝国の領土と決定し重要資源の供給源」と位置付けている。現在のマレーシア、シンガポールやインドネシア各国に相当する地域を「我が領土とする」ということだ。「各地域が安定したら独立させる」という将来像はなかった。つまり、「大東亜共栄圏」は「植民地解放」というより日本のための「植民地再編成」構想だったのだ。
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連合国との戦争といえば、「太平洋戦争」という呼称が長く一般的だ。ただ、前述のような広大な戦域を包括することはできない。「アジア・太平洋戦争」という表現が80年代半ばごろから、アカデミズムなどで使われてきた。地理的にいえば、これが実態に近い。
私は「日本の第二次世界大戦」「第二次世界大戦下の日本」と表記している。「昭和の戦争」と称したメディアもあったが、定着はしなかった。時代区分で戦争を表現するなら、この呼称が妥当だろうか。
いずれにしても、「大東亜戦争」を歴史用語として使うことは、幻想としての「アジア解放のための戦争」史観を肯定することになる、と私は思う。だから、これからも使わない。(専門記者)(第1土曜日掲載)