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毎日新聞2024/5/11 東京朝刊有料記事2033文字
綾野月美さんが作るかかしは表情が実に豊かだ=徳島県三好市東祖谷で井上英介撮影
唐突だが、実を言うと人形があまり得意ではない。見るのもいやという人形恐怖症(ペディオフォビア)ではないが、商業施設の着飾ったマネキンも、桃の節句のひな人形も、そばにあると居心地が悪い。そんな私の中で、四国の山奥のとある集落が長く引っかかっていた。
2年前に徳島へ単身赴任し、夏休みに家族を呼んで剣山(1955メートル、徳島県三好市など)に登った。登山口へ戻り、車で祖谷(いや)温泉を目指して西へ。祖谷川沿いに10分ほど走り、その集落を通りかかった。車道の傍らで、高齢の女性が背を丸め座っている。ブレーキを踏んでそばを徐行し、ぎょっとした。
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国道脇の高齢女性は人形(かかし)だった=徳島県三好市東祖谷で井上英介撮影
人ではない、人形だ!
あたりを見回すと、家の軒先でくつろぐ人、畑で農作業に精を出す人、川べりで竿(さお)を出す釣り人、停留所でバスを待つ人びと……みんな人形だ。人の気配はない。ミステリーゾーンに迷い込んだか。怖くなり、アクセルを踏んで通り抜けた。
先日ふと思い出して調べてみると、人形は実はかかしで、集落は「かかしの里」として知る人ぞ知る。その数300超。大部分を女性がひとりで作ったという。この集落――剣山麓(さんろく)の名頃(なごろ)地区(三好市東祖谷菅生(すげおい))は住民が減り続け、現在25人。その8割20人が高齢者で、最年少が43歳という限界「突破」集落だ。全国に星の数ほどある過疎のむらの一つだが、人口に反比例してかかしが増えていく。好奇心が人形嫌いにまさり、私はハンドルを握った。
東祖谷は平家落人伝説の舞台とされる秘境で、行くだけでも大変だ。徳島市から国道439号をひた走るが、曲がりくねり、狭くすれ違い困難な悪路の連続。「日本一の酷道」として有名だ。約80キロの道のりで2時間半もかかった。ヘトヘトの私を、かかしの生みの親、綾野月美さん(73)が笑顔で迎えてくれた。
案内された「かかし工房」はかつて保育所で、20畳ほどの部屋に子供ではなくかかしが大勢いた。私は懸命に動揺を隠し、綾野さんと向き合った。名頃に生まれ育ち、中学のとき親と大阪へ転居。向こうで結婚して子をなした。22年前に戻り、今は夫と実父(94)の3人で暮らす。幼いころ名頃には300人ほどが住んでいたという。
針金の骨組みに新聞紙を巻いて古着を着せ、顔と手に綿を詰める――そんなかかしで、人が減る寂しさを埋め合わせているのか。「違います。わたし昔から純粋に手芸や人形作りが好きなんです」。彼女は私の勝手な妄想を一笑に付した。「名頃に戻って畑に種をまいたら鳥に全部食われ、父に似せたかかしを作った。すると、ご近所が父と勘違いして声をかける。それがもう愉快でね」。遊び心も手伝って、どんどん作った。
彼女と親しい近所の小椋忍さん(81)は「本物の人みたいで最初びっくりした」と話す。名頃の人びとは大いに面白がり、小椋さんも綾野さんの指導で小さなかかしを製作。なかなか会えない孫の名前をつけた。
増えていくかかしが評判となって全国各地から古着が届き、観光客が訪れるようになった。10年前には、名頃に滞在したドイツ人が綾野さんとかかしの動画を公開。世界中で注目された。訪問者向けの感想ノートが工房にある。書き込みの約半分は外国人だ。多くは「アメージング・スケアクロウ!(素晴らしいかかし!)」のたぐいだが、取材の数日前の4月13日、スロバキア人旅行者が英語でこうつづった。「人形たちはすてきだが悲しくもあり、人生のはかなさを私に思い出させてくれる」
廃校の体育館は圧巻だった。数百のかかしが盆踊りや綱引きを無言で繰り広げている。地域の観光資源だが、綾野さんは「お金もうけなんて考えたこともない」と言う。名頃は「買い物が大変だし病院も遠く、病気で倒れたら間に合わないかもしれない。それでもここは静か。空気もおいしい」。都会暮らしの私にはさびれた限界集落だが、彼女には地上の天国であるらしい。
住民は減りこそすれ増えることはなさそうだし、そもそも三好市自体が先ごろ「消滅可能性自治体」に分類された。名頃のかかしのファンだという高井美穂市長は、消滅可能性について自治体トップとして公式に憂慮を表明したあと、小声で私に言った。「人が減って何が悪いのかしら。東祖谷では源平合戦のころから少人数で助け合って暮らしてきた。ゼロにならなければいい。減り止まります」。確かに、人口減は地域経済や自治体財政には打撃だが、貨幣経済が始まるはるか前から、人は祖谷の山奥で命をつないできた。
とはいえ……。住民が消えた廃村で、かかしたちが雨に打たれ、朽ちるさまを心配している私に、綾野さんは言った。「だいじょうぶ。自分の余命がわずかとなれば、私の手ですべて処分します」
別れ際、人形嫌いのはずが、かかしに愛着を覚える自分に気づき、しみじみとした。
◇
喫水線(きっすいせん)は、水に浮かぶ船の側面と水面が交わる線。(徳島支局長・大阪本社元編集局次長)(第2土曜日掲載)