「共生」は建前なのか? 認知症基本法の精神に反する日本社会和田秀樹・和田秀樹こころと体のクリニック院長
2023年7月8日
「注文をまちがえる喫茶店だんない」で客に笑顔で商品を渡す認知症の女性(左)=兵庫県丹波市柏原町柏原で2022年9月9日午後2時3分、幸長由子撮影
認知症の本人や家族の意見を反映し、関連施策の充実を図る認知症基本法がこの6月14日に、参院本会議で全会一致により可決、成立した。
実は、この法案は、2019年6月に、与党である自民党と公明党の議員立法案として国会に提出された経緯がある。ところがその後の新型コロナウイルス感染症の拡大により、多くの対応法案の審議が優先され、審議がなかなか進まず、継続的に閉会中審査が行われたのだが、21年10月の臨時国会でも審議未了のまま、その後に衆議院の解散総選挙に至ったため「廃案」となってしまったのだ。
その反省を踏まえて、今回成立した法案をめぐり、全政党の議員が参加する「認知症施策推進議員連盟」をまず立ち上げた。この超党派の議員連盟により、認知症支援にかかわる団体や関係機関、有識者などからのヒアリングをもとに議論を重ね、一から法案が作り直され、今回、成立したという。
「共生社会の実現」を打ち出した認知症基本法
とはいえ、私はこの廃案になった法律に注目していたので、確かに後述するように若干の違いはあるが、元の法案と大きく変わったとは思っていない。ただし、正式名称は、前と違って「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」と、前回は予防に重きをおいていたのが、認知症との共生を前面に打ち出しているという理念の違いがあるとはいえる。
そのため、たとえば第1章の目的のところで、「認知症の予防等を推進しながら」という文言がカットされ、「認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができるよう、(略)認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会(以下「共生社会」という)の実現を推進することを目的とする」ということで共生社会の実現を明確にする文章が追加されている。
この変更はかなり望ましいものだ。
実は、認知症の予防はほぼ不可能だ。
私が高齢者専門の総合病院である浴風会病院に勤務していた時、年間約100例の死後解剖が行われ、その報告会に毎月参加していたのだが、85歳を過ぎて脳にアルツハイマー型の変性がない人はいなかった。誰もが多かれ少なかれ、アルツハイマー型の神経細胞をもつようになる。
またコンピューター断層撮影装置(CT)や磁気共鳴画像化装置(MRI)で撮って、脳が萎縮していない高齢者もいない。
要するに脳の機能低下は止めることができない老化現象なのだ。
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一方で、私の臨床経験からも同じくらい脳が縮んでいる人でもほとんど認知症症状が起こらない人もいれば、かなり激しい認知機能の低下が生じる人がいる。
進行にしても速い人も、かなり緩徐な人もいる。
社会参加が病気の進行を遅らせる?
いろいろな要因があるにせよ、その最大の要因は、人との会話を含めて頭を使うか使わないかが大きいだろう。
これに気づいたのは、もう30年も前の話である。
当時、東京都杉並区にある高齢者専門の総合病院に勤務していたのだが、アルバイトのような形で月に2回、茨城県の鹿嶋市にある病院でも認知症の患者さんを診ていた。
そこで不思議な体験をした。
杉並の認知症の患者さんはどんどん進行するのに、鹿嶋の患者さんはあまり進まないのだ。
それをなぜかと考えていたら、気づいたことがある。
まだ、介護保険が始まる前のことで、杉並では認知症と診断されると、「危ない」とか「恥ずかしい」とかという理由で家に閉じ込める傾向が強かった。
ところが鹿嶋では、認知症と診断されても自由に歩かせ、迷子になれば、近所の人が顔見知りなので、連れて帰るのが当たり前だったようだ。
さらに、農業や漁業に従事している人は認知症になっても、仕事を続けていた。
まさにこれが、今回の法律でうたわれている「共生社会」である。
今は、介護保険が普及し、認知症の人がデイサービスなどを利用して、家に閉じ込められることは少なくなったが、理想をいえば、このように自由に動けて、社会参加ができる社会のほうが、もっと認知症の進行が遅れると私は信じている。
全地球測位システム(GPS)の精度が上がっているし、認知症の人が人工知能(AI)の助けを借りれば、できる日常生活動作や、できる仕事ははるかに増えていくはずだ。AIはITと違って、使い方を原則的に覚えなくていい。命令をすれば、それをしてくれる。たとえば、AI搭載の自動運転の車なら「自宅まで連れて行ってくれ」と言えば、飛び出してくれる子どもをGPSが検知して、勝手にブレーキを踏んでくれるような形で、事故を起こさず、自宅まで送り届けてくれて、車庫入れまでしてくれる。これならかなり進んだ認知症の人でも利用可能だ。
政治家や警察官僚らは「正しい知識」を持ち合わせているか
さて、今回可決した法案では、国民の責務として、「国民は、共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深めるとともに、共生社会の実現に寄与するよう努めなければならない」とある。
前の案では、「国民は、認知症に関する正しい知識を持ち、認知症の予防に必要な注意を払うよう努めるとともに、認知症の人の自立及び社会参加に協力するよう努めなければならない」でどちらかというと予防のために知識をもつことを求めていたが、今回の法案では、共生社会の実現のためとされている。
いずれにせよ、「正しい知識」が必要なのだが、日本の場合、政治家や警察官僚、そしてその取り巻きの医者(おそらくはろくに認知症の臨床をしていない医学部の教授)が「正しい知識」をもっていないために、共生社会は妨げられ、認知症の進行を早めている実態がある。
現行の法律では、75歳以上の高齢者が運転免許を更新する際に、一定より得点が低ければ、臨時の適性検査か医師の診断で、認知症と診断されれば運転免許証を取り上げられることになっている。
認知症の高齢者なんか、危ないから運転させてはいけないというのが、一般の常識なのだろうが、この法案を通した政治家も、警察官僚も、審議会などを通じてアドバイスした医者も、「正しい知識」を持ち合わせていないから、認知症高齢者には運転させないという、およそ共生社会に反した法律が作られたわけだ。
実際には、認知機能と、重大事故にははっきりした相関は認められない。
認知症の人が起こした重大事故のニュースを覚えている人はいないだろうし、池袋の事故でも福島の事故でも、認知機能テストはクリアしていた。
認知症だから人が飛び出してきたときの反応が遅れることはあっても、それをわざとはねたりしないだろうし、ブレーキは踏む。体で覚えたことは、かなり認知症が進んでもできるものだ。
逆にそれができなくなると、エンジンもかけられなくなるはずだ。
レーガン米元大統領は在任中に発症?
私が、この法律で、認知症に対する「正しい知識」ともっともかけ離れていると思うのは、認知症を軽い人も重い人も一くくりにしていることだ。
実は、認知症というのは、軽いうちは、記憶障害がかなりひどくても、おおむねなんでもできる。仕事も続けられる。鹿嶋では、それを続けることで、認知症の進行が遅れたのである。
89年まで大統領を務めたレーガン元大統領は、94年に国民にアルツハイマー型認知症であることを公表した。当時は、相当認知症が進行し、自分は今でも大統領だと思い込み、話もかなり通じにくくなっていたようだ。
ロナルド・レーガン アメリカ元大統領
ただ、妻のナンシーは、それを否定せず自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。頭を使い続けることで、会話の能力や新聞を読む能力がある程度維持されたということだ。
その後の進行はゆっくりだったようで、その10年後の04年に亡くなっている。
さて、私の臨床経験では、話も通じないレベルの認知症だとすれば、その後の進行の緩やかさをみても、その5年前、つまり大統領在任中の末期には、記憶障害レベルの軽度認知症はあったはずだと考える。
実際、次男のロンは11年出版の回顧録の中で、84年の前副大統領ウォルター・モンデールとの討論会において、父のロナルドの異変に気がついたと指摘している。つまり、大統領の後半はなんらかの認知症状を抱えながら、大統領が務まっていたのだ。
つまり、認知症も軽度であれば、核のボタンを押す決定をする米国大統領でさえ、務まるのだ。それを日本では、自動車の免許さえ取り上げる。
「正しい知識」に基づいて法律を作るなら、「認知症と診断されたら免許を取り消す」ではなく、「認知症が運転の安全に影響を与えるほど進行したら免許を取り消す」とすべきだろう。認知症が程度によって知的機能が違うということさえ、知らない人間が法律を作り、免許を取り上げ(日本の場合、免許が取り上げられてから無免許で運転したほうが、人をはね殺すより罪が重い点数制度になっている)、そんな法律を進言する医者がいる。とても恐ろしいことだし、こんなことだと「共生社会」は建前で、実現には程遠いだろう。
真の「共生社会」を実現するには
たまたま、地方にいる知り合いの医者が、この認知機能テストに落ちた高齢者の診断をすることになって、うそを書くわけにいかないから「認知症」の診断をした。今の認知機能テストでは、これに落ちるということは、パニックになってテストで悪い点を取るようなケース(こっちのほうが運転は危ないかもしれないが)を除けば、テスト上は認知症ということになってしまう。
ところが運転免許がないとトラクターの運転もできなくなるそうだ。
かくして、農業も続けることができなくなり、うつ病にもなるし、一気に認知症が進んでしまったそうだ。
認知症基本法が可決、成立した参院本会議=国会内で2023年6月14日午前11時9分、竹内幹撮影
こんな法律を平気で作るような人間が、全会一致で「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」を作る。
この法律には、「認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し」と明記されている。認知症の人だってできるうちは、できることをさせてあげないといかないのだ。
共生社会の意味を考えて、認知症の人から免許を取り上げる法律を廃止してほしいくらいだが、せめて法に書かれた「共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解」に基づいて、「認知症が運転の安全に影響を与えるほど進行したら免許を取り消す」というふうに変えることはできないものなのだろうか?
それによって認知症の進行が遅れ、公的な介護費用が減れば、財政にも国の活性化にも寄与するのだから。
特記のない写真はゲッティ
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わだ・ひでき 1960年大阪府大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒。同大学医学部付属病院精神神経科、老人科、神経内科で研修したと、国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデントを経て、当時、日本に三つしかなかった高齢者専門の総合病院「浴風会病院」で精神科医として勤務した。東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、国際医療福祉大学大学院臨床心理学専攻教授を経て現職。一橋大学・東京医科歯科大学で20年以上にわたって医療経済学の非常勤講師も務めている。また、東日本大震災以降、原発の廃炉作業を行う職員のメンタルヘルスのボランティアと産業医を現在も続けている。主な著書に「70歳が老化の分かれ道」(詩想社新書)、「80歳の壁」「70歳の正解」(いずれも幻冬舎新書)、「『がまん』するから老化する」「老いの品格」(いずれもPHP新書)、「70代で死ぬ人、80代でも元気な人」(マガジンハウス新書)などがある。和田秀樹こころと体のクリニックウェブサイト、有料メルマガ<和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」>