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毎日新聞2024/5/25 東京朝刊有料記事1007文字
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石牟礼道子の「苦海浄土 わが水俣病」(1969年)は、初め岩波書店に断られた。理解する編集者がほぼ皆無だったらしい。
熊本県水俣市の一人の主婦が、知人の個人雑誌「熊本風土記」に書き継いだ初稿を、福岡市在住の記録作家が目に留め、これは広く読んでもらうべきだと考えて上京したのに、むなしかった。
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出版を決めた講談社の編集者・加藤勝久氏は「学者の本、東京の人間の本は出さない」が口癖で、新しい書き手を発掘すると、席の後ろの白地図に赤ポチを書き込んでいた変わり種。後に黒柳徹子さんに「窓ぎわのトットちゃん」を書かせた目利きだった。
「苦海浄土」は翌年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞(運営文芸春秋)に選ばれるも、著者は「死んでいった人々、苦しんでいる患者が書かせたものだから」と受賞を辞退。ところが評価の高い本なのに、書店にない。実はあまり売れず返品が多かった。
それを朝日新聞が、公害を巡る見えない圧力でもあるのかと臆測する記事にして騒ぎとなり、一転して売れ出したという。
以上は、講談社現代新書創刊60周年の記念冊子(4月刊行の販促非売品)に、ノンフィクション作家の魚住昭氏が紹介している逸話の受け売りである。
中央と地方、権威と無名、学問と民衆、評価と評判。多層的な権力関係が、後に「ノーベル賞級の世界文学」とも称揚される作品の誕生から渦巻いていた。
国レベルの二項対立図式にとどまらない。「苦海浄土」の独自な文学性は、往々にして現地の人々を鼻白ませてきた。
政治や行政や経済の世界に届く言葉を持たない死者や患者の体の奥底の痛みと絶望を、あたかも当事者になり代わって言葉に紡ぎ出す書き手とは何者か。
「あれは巫女(みこ)の世迷い言。私らの現実とは関係ない。水俣病を神聖視する都会者はたくさんだ」
時にそんな本音も聞くが、現地の当事者だけが持つ特別の発言権が、元に戻って中央と地方の権力関係に自分たちを押し込めてしまう悪循環は、多くの政治闘争と社会運動が経験するところだ。
それを外へ、次世代へひらく英知が、現実に材を取った作り物である文学作品の働きだろう。
石牟礼はチッソ本社前に1年半も座り込みを敢行するルール破りの闘争の人であった。「文学者には責任がある。たった一人の人間の気持ちに立ち返らなければなりません」と語った。「苦海浄土」がなかったら、水俣病は水俣病になれなかった。(専門編集委員)